第76話 魔王のいる世界
頬に触れていたものは、布ではなかった。
レオナは乾いた葉を払い、身体を起こした。
胸へ手を当てる。痛まない。深く息を吸える。
けれど、ついさっきまで手を握っていたカヤは、どこにもいなかった。
隣へ手を伸ばした。指先に触れたのは、冷えた石だけだった。
「……カヤ?」
返事はなかった。
崩れた炉の向こうで、枝が揺れた。黒い石の隙間には根が入り、屋根を支えていた柱は途中から折れている。ついさっきまでいた場所なのに、見覚えのない草が足元を覆っていた。
また、別れてしまった。
――自分もちゃんと数えてね。
レオナは目を閉じた。
「……ごめん、ニナ」
風が吹いて、乾いた葉が足元を転がった。レオナはそれをしばらく見ていた。
やがて立ち上がり、服についた葉を払った。炉の裏へ回りかけて、足が止まる。
草が刈られていた。平たい石の周りだけ、枯葉も除けられている。
レオナはしゃがんだ。
石には自分の名が刻まれ、その下に川と水車の絵がある。折れ曲がる線の描き方に覚えがあった。
脇の小箱には紙と、蓋をした水の器が入っていた。レオナは紙を開いた。
『戻ったら、水車へ。そこから先を教えてもらえる』
下に、カヤの名があった。
「……カヤ」
指で、その名前に触れた。
器の蓋を取ると、水は澄んでいた。石の周りには、刈られた草がまだ残っている。
「待っててくれたんだ」
水を飲んだ。
冷たかった。
炉に残っていた炭のかけらで、箱の板へ自分の名を書き、水車へ向かう矢印を添えた。
***
細い橋はなくなっていた。
下流には荷車が渡れる橋が架かり、道の両側には切り株が並んでいる。紙を見直していたとき、車輪の軋む音が聞こえた。
坂の途中で、荷車が傾いていた。片方の車輪が道の端へ落ちている。男がもう一方の車輪へ石を詰めようとし、女が荷台の老人を支えていた。子供は馬の陰にいた。
「押していい?」
「下へ入るな。土が崩れる」
レオナは道に立ったまま、荷台の端へ力を当てた。落ちた車輪が持ち上がる。男が馬を少し進めると、荷車は道へ戻った。
女が老人へ声をかける。老人は顔をしかめながらも頷いた。
「助かった。あんたも北へ行くのか」
「水車を探してる」
「俺たちもそこへ寄る。一緒に来るか」
荷を直す男の手首に、縄の跡があった。レオナが見ると、男は袖を下ろした。
「荷を止められてな」
「痛そう。誰にやられたの?」
「ゴブリンの兵だよ。麦を運ぶなら税を払えとさ」
「払ったんでしょう?」
女が荷袋の口を結び直した。
「払ったわ。それからやっと、ほどいてもらったの」
男は馬の手綱を持ち直した。
「年寄りを乗せてるって言っても、聞いちゃくれない」
道の向こうから、別の荷車が来た。荷台のドワーフが女へ片手を上げ、女も小さく返した。
「戻るの?」
「炉は持って逃げられないでしょ。仕事があるなら戻るよ」
ドワーフはそう答え、荷車は坂を下りていった。
「知ってる人?」
「ああ。同じ街にいた。今は仕事が増えたらしい」
「いいなあ、って言ってたわね」
女の声に、男は苦笑した。
「俺は父さんを置いていけないよ」
男は馬の首を撫でた。
「残る奴もいる。弟も店を閉めなかった。俺たちは、父さんを診てもらえるところへ行く」
女は老人の足へ毛布を掛け直した。荷台には寝具と鍋が重なり、老人の足を伸ばす場所だけが空いていた。
「その街、どこ?」
「ドルンだよ」
レオナは荷台を見たまま、足を止めた。男が顎で道の先を示す。兵を乗せた荷車が進んでいた。
「また城へ行くらしい」
「城も、魔物がいるの?」
「魔王がいる」
「誰?」
「グレイホーンだ」
レオナは何も言えなかった。
「エルド王を殺して、城を奪った。十五年も前になる」
十五年。
レオナは手の中の紙を見た。
カヤが書いた文字は、まだ新しく見えた。
紙を握る指に、少し力が入った。
最後に見た灰色の腕が浮かぶ。
子供が女の袖を引いた。
「魔王、来る?」
「城からは出ないよ。前を向いて」
女は子供の手を握り直した。
「ほかの魔物は?」
レオナが尋ねると、男は道へ目を戻した。
「五年くらい前から、街に来るようになった。刀を持った大きな奴が率いてる」
シグレの顔が浮かんだ。
レオナは口を開きかけて、やめた。
***
粉挽き場には、壁際に寝床が並んでいた。
老人を運び終えると、腕をまくった女がレオナの紙を見た。戸口に掛けられた古い似顔絵と見比べる。
「あなたが、レオナ?」
「知ってるの?」
「来たら知らせるよう頼まれてる。母がここを見てた頃から」
女は奥にいた若者を呼んだ。
「石切場へ。レオナが戻ったって伝えて」
「カヤは、いる?」
「昨日も来たよ。薬を届けに」
「……昨日?」
紙が指から落ちた。
「……フィンも?」
「石切場にいる。迎えと行き違うから、ここで待ってな」
レオナは頷いたが、すぐには腰を下ろせなかった。もう一度、戸口の似顔絵を見る。自分が知らない間、ずっとここに掛けられていたものだった。
女が紙を拾い、折り目を整えてくれた。水の器も差し出される。
レオナはようやく座り、両手で器を持った。
「よかった」
水面が小さく揺れた。レオナは、そのまま器を口元へ運んだ。




