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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第九章

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第76話 魔王のいる世界

 頬に触れていたものは、布ではなかった。


 レオナは乾いた葉を払い、身体を起こした。


 胸へ手を当てる。痛まない。深く息を吸える。


 けれど、ついさっきまで手を握っていたカヤは、どこにもいなかった。


 隣へ手を伸ばした。指先に触れたのは、冷えた石だけだった。


「……カヤ?」


 返事はなかった。


 崩れた炉の向こうで、枝が揺れた。黒い石の隙間には根が入り、屋根を支えていた柱は途中から折れている。ついさっきまでいた場所なのに、見覚えのない草が足元を覆っていた。


 また、別れてしまった。


 ――自分もちゃんと数えてね。


 レオナは目を閉じた。


「……ごめん、ニナ」


 風が吹いて、乾いた葉が足元を転がった。レオナはそれをしばらく見ていた。


 やがて立ち上がり、服についた葉を払った。炉の裏へ回りかけて、足が止まる。


 草が刈られていた。平たい石の周りだけ、枯葉も除けられている。


 レオナはしゃがんだ。


 石には自分の名が刻まれ、その下に川と水車の絵がある。折れ曲がる線の描き方に覚えがあった。


 脇の小箱には紙と、蓋をした水の器が入っていた。レオナは紙を開いた。


『戻ったら、水車へ。そこから先を教えてもらえる』


 下に、カヤの名があった。


「……カヤ」


 指で、その名前に触れた。


 器の蓋を取ると、水は澄んでいた。石の周りには、刈られた草がまだ残っている。


「待っててくれたんだ」


 水を飲んだ。


 冷たかった。


 炉に残っていた炭のかけらで、箱の板へ自分の名を書き、水車へ向かう矢印を添えた。


***


 細い橋はなくなっていた。


 下流には荷車が渡れる橋が架かり、道の両側には切り株が並んでいる。紙を見直していたとき、車輪の軋む音が聞こえた。


 坂の途中で、荷車が傾いていた。片方の車輪が道の端へ落ちている。男がもう一方の車輪へ石を詰めようとし、女が荷台の老人を支えていた。子供は馬の陰にいた。


「押していい?」


「下へ入るな。土が崩れる」


 レオナは道に立ったまま、荷台の端へ力を当てた。落ちた車輪が持ち上がる。男が馬を少し進めると、荷車は道へ戻った。


 女が老人へ声をかける。老人は顔をしかめながらも頷いた。


「助かった。あんたも北へ行くのか」


「水車を探してる」


「俺たちもそこへ寄る。一緒に来るか」


 荷を直す男の手首に、縄の跡があった。レオナが見ると、男は袖を下ろした。


「荷を止められてな」


「痛そう。誰にやられたの?」


「ゴブリンの兵だよ。麦を運ぶなら税を払えとさ」


「払ったんでしょう?」


 女が荷袋の口を結び直した。


「払ったわ。それからやっと、ほどいてもらったの」


 男は馬の手綱を持ち直した。


「年寄りを乗せてるって言っても、聞いちゃくれない」


 道の向こうから、別の荷車が来た。荷台のドワーフが女へ片手を上げ、女も小さく返した。


「戻るの?」


「炉は持って逃げられないでしょ。仕事があるなら戻るよ」


 ドワーフはそう答え、荷車は坂を下りていった。


「知ってる人?」


「ああ。同じ街にいた。今は仕事が増えたらしい」


「いいなあ、って言ってたわね」


 女の声に、男は苦笑した。


「俺は父さんを置いていけないよ」


 男は馬の首を撫でた。


「残る奴もいる。弟も店を閉めなかった。俺たちは、父さんを診てもらえるところへ行く」


 女は老人の足へ毛布を掛け直した。荷台には寝具と鍋が重なり、老人の足を伸ばす場所だけが空いていた。


「その街、どこ?」


「ドルンだよ」


 レオナは荷台を見たまま、足を止めた。男が顎で道の先を示す。兵を乗せた荷車が進んでいた。


「また城へ行くらしい」


「城も、魔物がいるの?」


「魔王がいる」


「誰?」


「グレイホーンだ」


 レオナは何も言えなかった。


「エルド王を殺して、城を奪った。十五年も前になる」


 十五年。


 レオナは手の中の紙を見た。


 カヤが書いた文字は、まだ新しく見えた。


 紙を握る指に、少し力が入った。


 最後に見た灰色の腕が浮かぶ。


 子供が女の袖を引いた。


「魔王、来る?」


「城からは出ないよ。前を向いて」


 女は子供の手を握り直した。


「ほかの魔物は?」


 レオナが尋ねると、男は道へ目を戻した。


「五年くらい前から、街に来るようになった。刀を持った大きな奴が率いてる」


 シグレの顔が浮かんだ。


 レオナは口を開きかけて、やめた。


***


 粉挽き場には、壁際に寝床が並んでいた。


 老人を運び終えると、腕をまくった女がレオナの紙を見た。戸口に掛けられた古い似顔絵と見比べる。


「あなたが、レオナ?」


「知ってるの?」


「来たら知らせるよう頼まれてる。母がここを見てた頃から」


 女は奥にいた若者を呼んだ。


「石切場へ。レオナが戻ったって伝えて」


「カヤは、いる?」


「昨日も来たよ。薬を届けに」


「……昨日?」


 紙が指から落ちた。


「……フィンも?」


「石切場にいる。迎えと行き違うから、ここで待ってな」


 レオナは頷いたが、すぐには腰を下ろせなかった。もう一度、戸口の似顔絵を見る。自分が知らない間、ずっとここに掛けられていたものだった。


 女が紙を拾い、折り目を整えてくれた。水の器も差し出される。


 レオナはようやく座り、両手で器を持った。


「よかった」


 水面が小さく揺れた。レオナは、そのまま器を口元へ運んだ。


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