第75話 魔王
橋の敗報は、グレイホーンが王都へ着くより先に、ハル城へ届いていた。
王都の店は戸を閉ざし、城のある丘へ続く道では、横倒しの荷車の後ろに兵士が並んでいる。グレイホーンが近づくと、槍の穂先が揃ってこちらを向いた。
「近づくな!」
「王に会いに来た」
「通せん!」
グレイホーンは足を止めた。
通りの脇では、店の戸を閉めた男が子供の手を引いている。二人が路地の角を曲がるまで待ってから、グレイホーンは腕を振った。
横倒しの荷車が持ち上がり、道の脇へ押し出される。兵士たちの足元では石畳が盛り上がり、槍の列が崩れた。
城壁から放たれた矢は、グレイホーンが起こした風に巻かれて坂の脇へ散らばった。彼は倒れた兵士たちの間を進み、城門へ向かう。
厚い扉が閉じられた。
グレイホーンが手を向けると、中央が軋んだ。鉄の留め具が曲がり、木板に亀裂が走る。さらに力を加えると内側の横木が折れ、扉が中庭へ倒れた。
門の奥には、盾の列が待っていた。前列は槍を構え、後方には術者が並んでいる。城壁の上にも弓兵が残っていた。
グレイホーンは門をくぐった。
「下がれ。わしが用のあるのは王じゃ」
兵士たちは動かなかった。後ろから号令がかかり、前列の槍が一斉に突き出される。
グレイホーンは腕を上げ、そのまま歩いた。
盾の列が沈んだ。
兵士たちの膝が石畳へ落ち、槍の穂先が下がる。後列の者が支えようとしたが、その身体も地面へ引かれ、前の兵士へ折り重なった。
術者が杖を掲げようとする。その腕も下がり、杖が石畳へぶつかった。城壁の上では、弓兵が胸壁にしがみついていた。
グレイホーンは歩き続けた。前方の石畳が軋み、積まれていた槍の束が沈んでいく。中庭の奥では荷車の車軸が折れ、脇の建物の梁も崩れた。その下から呻き声が上がる。
右腕に傷が開く。裂けた皮膚から血が流れたが、グレイホーンが数歩進む間に塞がった。兵士の一人がその腕を見上げたときには、血に濡れたローブの下で、新たな赤い筋が浮いていた。
奥の扉へ近づくころには、立っている兵士はいなかった。グレイホーンが指を閉じると、押さえつけていた力が消える。
背後で兵士たちが息を吸った。倒れた盾のそばには、動かなくなった者もいる。
グレイホーンは振り返らず、扉を押し開いた。
***
廊下の角で、侍女が立ちすくんだ。後ろには、荷物を抱えた男が二人いる。
「王は、どこじゃ」
答えはなかった。グレイホーンが身を引いて通り道を空けると、三人は壁際を走っていった。
回廊の両側には扉が並び、その前を盾を持つ兵士たちが塞いでいた。グレイホーンが腕を振ると、風が盾の列を押し崩し、兵士たちは後列を巻き込んで倒れた。起き上がろうとした者の足元から石がせり上がり、剣が床へ落ちる。
グレイホーンは倒れた兵士たちを越え、王の間へ続く階段へ向かった。
階段の上には近衛兵が三人待っていた。
先頭の男が踏み込み、剣を振り下ろす。グレイホーンが腕を上げると剣は横へ逸れ、男の身体が壁へ叩きつけられた。続く二人も足元の石ごと押し上げられ、階段へ倒れる。
グレイホーンは、その間を通った。
「待て!」
背後で声がした。最初に倒れた兵士が、剣を杖にして立ち上がっていた。胸当てが歪み、足元には血が落ちている。
「陛下には、近づけさせん」
グレイホーンは振り返った。兵士は剣を持ち上げようとしたが、傷ついた腕が震え、刃先が階段へ触れた。
「……そうか」
床の石がせり上がり、その身体を壁へ押さえつけた。剣が手から落ちても、兵士の目はこちらを向いていた。
グレイホーンは先へ進み、広間の扉を押し開いた。
***
エルド王は、玉座の前に立っていた。
脇には近衛兵が数人残っている。書類を抱えた男が王のそばへ歩み寄り、何かを告げていた。
グレイホーンが入ると、近衛兵たちが剣を抜いた。
「陛下、裏門はまだ通れます」
書類を抱えた男が言った。
「使用人たちは出たか」
「はい。残っている者も、今そちらへ」
「ならば、お前も行け」
「しかし――」
「下がれ」
男はグレイホーンへ目を向けた。グレイホーンが扉の前から退くと、男は書類を抱え直し、近衛兵たちの間を抜けていった。
エルドはグレイホーンへ顔を向けた。
「私に用があるのだろう」
近衛兵たちは剣を下ろさなかったが、王の前から退いた。グレイホーンは広間の中央まで進んだ。
「橋の兵を、何人殺した」
「数えてはおらぬ」
エルドの顔が歪んだ。
「それで、ここまで来たのか」
「おぬしに聞きたいことがある」
附属院の回廊で、この男は言った。魔物に意思があることは認めている。それでも、守るべき民ではないと。
「わしらは、おぬしの民ではないのじゃったな」
「そうだ」
「では、人間ならば守るのか」
「そのために兵を出した。お前たちが施設を襲い、今は王都へ来ている」
「先に、わしらを捕らえたのは誰じゃ」
エルドは口を閉じたが、視線を逸らさなかった。
「必要な研究だった。治せなかった傷を治し、死なずに済む者を増やせる」
「そのために、嫌がる者を使う。人間であってもか」
「すべての者を救うことはできん」
グレイホーンは一歩進んだ。
「だから、選んだ者を縛るのか。捕らわれた者を助ければ追い、匿えば罪に問う。命じられた兵は、家を離れ、畑を潰し、わしの前で死んでいった」
床には、彼のローブから落ちた血が残っていた。
「おぬしの民じゃろう。その者たちを使って、おぬしは何を守っておる」
「国だ」
「その国には、誰が残るのじゃ」
「ここに来ていない者がいる。畑を耕す者も、明日生まれる子供もいる。目の前にいる者だけで、国はできているのではない」
エルドは脇に立つ近衛兵へ目をやった。
「兵には、国を守るために戦うよう命じた。研究に使われた者にも、同じく国のために犠牲を求めた。命じたのは私だ。その責任から逃げるつもりはない」
「責任を負えば、命じられて死ぬ者は戻るのか」
「戻らん」
エルドは、はっきりと答えた。
「だが、何もせずに失われる命もある。守れる者を守るために、決めなければならん」
エルドはグレイホーンを見据えた。
「お前が橋で殺した兵にも、家族がいたはずだ」
「……知っておる」
「それでも、お前は殺した」
「ああ」
「私の命令で戦った者たちだ。お前が守ろうとする者と、何が違う」
グレイホーンは、しばらく王を見ていた。
「違わぬ。わしが殺した」
エルドは何も言わなかった。
「レオナは、おぬしを信じようとしておった」
王の表情がわずかに変わった。
「彼女を害するつもりはなかった」
「あの子は、ここへ残らぬと言った」
「あれほどの力を持ちながら、自分の身体に何が起きているかさえ知らなかったのだ。保護し、調べる必要があった」
「本人が望まぬとしてもか」
「彼女一人の問題ではない。研究が進めば、救える命がある。あの力を放置して、彼女自身や周囲の者が傷つくことも防げるかもしれん」
「そのために、あの子を捕らえるのか」
「必要ならば」
グレイホーンは長く息を吐いた。
レオナが、兵士を殺さぬよう頼んだ声を覚えている。空になった掛け布の前で、カヤの手が何度も同じ場所を探していたことも。
「あの子は、死んだぞ」
エルドの目が、わずかに見開かれた。
「……何だと」
「ここから逃げたあとじゃ。傷ついた仲間を連れ、森まで戻った。ネラが治療を続けたが、助からなんだ」
エルドは口を閉じた。グレイホーンは王が何か言うのを待った。
「それは、望んだ結果ではない」
「分かっておる」
「彼女を生かして調べるつもりだった。死なせるつもりなど――」
「それも、分かっておる!」
グレイホーンの声が広間に響いた。近衛兵たちが剣を構え直したが、エルドは動かなかった。
「おぬしは、あの子を死なせたかったわけではない。わしらを憎んで捕らえたのでもないのじゃろう。国のために必要だと、本気で考えておる」
グレイホーンは王の顔を見た。
「じゃが、あの子は嫌だと言った。帰りたいと言った。それでも、おぬしは手放さなんだ」
「一人の拒否で、救える者すべてを諦めろというのか」
グレイホーンは返事をしなかった。エルドは、なおも彼を見ている。
「わしは、おぬしらがわしらの名を知れば、言葉を聞けば、考えも変わると思うておった」
グレイホーンは、広間に残る近衛兵たちへ目を向けた。
「じゃが、おぬしは、人間の言葉さえ聞かぬのじゃな」
「何を言っている」
「嫌だと言っても、帰りたいと言っても、必要だと言えば使える。おぬしの命令で死んでいった兵も、捕らわれた者を助けた人間も、皆そうじゃ」
「彼らの犠牲を無意味だと言うつもりか」
グレイホーンは、しばらく黙っていた。
「おぬしが王である限り、森へ兵を送るのじゃな」
「この国を脅かす者を、放置はできん」
「……そうか」
グレイホーンの声は低かった。
「ならば、ここで終わらせる」
近衛兵たちが動いた。グレイホーンが腕を振ると、床の石がせり上がり、兵士たちを壁へ押さえつけた。エルドは玉座の前から動かなかった。
「私を殺しても、国は残るぞ。次の王が立ち、また兵を出す」
「知っておる」
「ならば、何のためだ」
「おぬしの命令は、ここで終わる」
グレイホーンは玉座へ目を向けた。
「そのあとも、わしはここに残る。次の王が兵を集めるなら、森ではなく、この城を取り戻しに来させる」
エルドは、しばらく彼を見ていた。
「王の城を、奪うつもりか」
「ああ」
「お前一人で、国と戦うというのか」
「わしについてくる者まで、止められるとは思わぬ。じゃが、森で暮らす者たちを、わしの戦いに連れてくるつもりはない」
グレイホーンは王へ手を向けた。
「おぬしを殺し、この城を奪う。それを選んだのは、わしじゃ」
エルドが口を開いた。その言葉が発せられるより早く、グレイホーンの魔法が王の胸を打った。
エルドの身体が後ろへ倒れ、玉座の段にぶつかった。近衛兵たちが王の名を叫ぶ。
グレイホーンが手を下ろすと、近衛兵たちを押さえていた石が床へ戻った。
エルドは、もう動かなかった。兵士の一人が剣を捨て、王のもとへ駆け寄った。
***
グレイホーンは広間を出ると、城門へ向かった。
途中で剣を向けてきた兵士を退け、閉じかけていた門を押し開く。逃げようとする者たちには道を空け、武器を捨てた兵士も追わなかった。
王が殺されたという知らせは、すでに城内へ広がり始めていた。近衛兵の一人がエルドの遺体を運びたいと申し出ると、グレイホーンは道を空けた。
「好きにせよ」
抵抗は、なおも続いた。城の奥から兵士たちが集まってきたが、グレイホーンは門へ続く通路を押さえ、武器を持って向かってくる者を退けた。その横を、傷ついた仲間を運ぶ兵士や使用人たちが通り抜けていく。
やがて、王の遺体を運び出すために戻ってきた近衛兵が、広間から姿を現した。彼らが中庭を通ると、残っていた兵士たちも次々に武器を下ろした。
夕方には、角笛も聞こえなくなった。
グレイホーンは城壁に立つ王の旗を下ろした。王の紋をつけた布が中庭へ落ちると、それを拾い、石壁の脇へ置いた。
玉座のある広間へ戻り、窓から王都を見下ろす。
門の外では、城を逃れた者たちが坂を下っていた。兵士たちの運ぶ板には布が掛けられ、道の両側にいた人々が膝をついている。
列が窓の下を通り過ぎようとしたとき、板を担いでいた兵士が顔を上げた。
窓に立つグレイホーンを見つけ、その足が一瞬止まる。兵士は何も言わず、グレイホーンもその視線を受けたまま動かなかった。
やがて兵士は再び歩き始め、列が坂を下っていく。
グレイホーンは窓枠へ手を置いた。乾いた血が、石に擦れて剥がれた。
王の遺体を運ぶ列が見えなくなるまで、そこに立っていた。
***
シグレが城へ来たのは、数日後だった。
避難民を森の奥へ送り届けてから、川下の行方不明者を捜す者たちと連絡を取り、王都へ向かったのだという。
割れた石畳を避け、開いた門から中へ入る。中庭に落ちていた盾や槍は脇へ寄せられていたが、崩れた壁はそのまま残っていた。かつて王の旗が掲げられていた塔にも、何もない。
グレイホーンは、玉座のある広間にいた。
「皆、森へ戻った。カヤたちも移った」
「そうか」
「川下の者も、しばらくは奥に留まる」
「うむ」
「連れていかれた一人は、まだ見つかっていない。北へ向かった兵の跡を、ゴブリンたちが追っている」
「ネラにも伝えておけ。見つけても、すぐに動かせぬ怪我かもしれん」
「分かった」
シグレは広間を見回した。
「城へ来たいと言う者もいる」
「来させるな。エルフにも伝えよ」
「住める場所はある」
「ここは人間どもが取り戻しに来る場所じゃ。家族を連れてくるところではない」
「お前は残る」
「そのために奪った」
グレイホーンは窓の外へ目を向けた。
「王を殺した魔物が、この城におる。わしを討つために兵を集めるなら、その兵は森へ向かわぬ」
「森にも来るぞ」
「来るじゃろうな。すべてが、こちらを向くわけではあるまい」
シグレは黙っていた。
「兵の動きは知らせよ。じゃが、おぬしらの住みかを、わしのそばへ移すな」
「俺は残る」
グレイホーンが振り返った。
「ここにおれば、わしと同じ敵にされるぞ」
「分かっている」
「呼んではおらぬ」
「俺が決めた」
シグレは刀を腰から外し、壁へ立てかけた。グレイホーンはしばらく彼を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……好きにせよ」
シグレが窓際へ歩いてくる。そこからは王都の家々が見えた。城の門へ続く坂道には、まだ兵の姿がない。
「人間には、何と伝える」
「何のことじゃ」
「兵はまた来る。その者たちに、何と名乗る」
グレイホーンは玉座へ目を向けた。王の紋章が刻まれた背もたれには、戦いで飛んだ石の破片が当たり、細い傷が入っている。
「魔王でよい」
シグレが彼を見た。
「それでいいのか」
「ああ。王を殺し、城を奪った魔物じゃ。人間どもには、わしをそう呼ぶ理由があろう」
グレイホーンは窓の外へ目を戻した。
「わしを討とうとする者には、ここへ来いと伝えよ」
シグレは頷いた。
そのとき、城門の外から角笛が聞こえた。二人が窓へ近づくと、坂道を上ってくる兵士たちが見えた。先頭の者が王の旗を掲げ、その後ろには盾を持った兵士たちが続いている。
シグレは壁に立てかけた刀を取り、腰へ戻した。
「行くぞ」
グレイホーンが言うと、シグレは短く頷いた。二人は広間を出た。
***
ハル王エルドが殺され、居城が魔物に奪われたという知らせは、街道を通って各地へ広がった。
生き残った兵士たちは、一体の魔物が軍を潰したと語った。傷を負わせてもその場で塞がり、盾も鎧も役に立たず、王さえ殺されたのだと。
名を問われれば、グレイホーンと答えた。
王都では、城を取り戻すために兵が呼び集められた。家族を失った者も、王を失った者も、城に居座る魔物へ恨みを向けた。
一方、森には、城へ近づくなという知らせが届いた。グレイホーンのもとに残ったのは、シグレと、危険を承知で加わったごく少数の者だけだった。森で暮らす魔物たちもエルフたちも、そこへ住みかを移すことはなかった。
ハル城から王の旗が消え、城には魔王がいるという噂が、街道を行き交う人々の間に広がった。
かつてハル王の暮らしたその城は、やがて魔王グレイホーンの住処として知られるようになる。
人々はそこを、魔王城と呼んだ。




