第74話 退かぬ者
川下へ知らせに向かったゴブリンは、濡れた袋を抱えて戻ってきた。
中から出てきたのは、割れた椀と編みかけの籠だった。籠の底には黒い泥が詰まり、縁の一部が焼けている。
「兵が来た」
グレイホーンは籠を見下ろした。
「知らせは届いたのか」
「届いた。子供たちは逃がした。でも、橋にも道にも兵がいた」
「皆は」
「上へ逃げた。三人、戻らない」
隣にいたシグレが、ゴブリンへ顔を向けた。
「捕らわれたのか」
「分からない。橋に兵がいるから、戻れない」
ゴブリンが袋から手を抜くと、小さな鉄の槌が地面へ落ちた。グレイホーンはそれを拾い、彼へ返す。
「食って休め。道は、あとで聞く」
ゴブリンは頷いたが、袋の前から動かなかった。シグレが腰を落として声をかけると、ようやく槌を抱え、炭焼き場へ歩いていった。
グレイホーンは地面に残された籠を持ち上げた。
私が守るべき民ではない。
王の声が、まだ耳に残っている。籠を握る手に力が入り、乾いた音とともに縁が折れた。
***
カヤの指が、橋の印で止まっていた。
「ここを渡れれば、あとは森の中を通れる。でも、橋から荷車を下ろすところが狭いから、一台ずつになると思う」
グレイホーンは図を見下ろし、川下へ続く線を確かめた。
「この浅瀬は、まだ渡れるか」
「水は増えてないと思う。荷車は無理だけど」
「シグレなら浅瀬を渡れよう。川下の者を集め、王都側の岸にある林で待たせる。橋より川下の、この辺りじゃ」
グレイホーンは、橋からこちら側の森へ続く道を指した。
「渡った者は、ここを進ませよ。橋の近くには残すな」
「兵は、どうするの」
「わしが行く」
図を押さえるカヤの手が止まった。
「シグレたちも?」
「いらん」
少し離れたところでは、フィンが荷車の座板を受け取っていた。代わりに載せる長い板には、削った木の粉が残っている。
「川下の者を連れてくる。車を空けておけ。怪我人を先に乗せる」
「……分かった」
カヤは頷いたが、図を巻こうとはしなかった。
「橋を取り戻したら、戻ってくるよね」
「おぬしらは森の奥へ行け。王の道から離れたところじゃ」
「それは、分かってる」
顔を上げたカヤを、グレイホーンは少しの間見ていた。
「わしには、まだ行くところがある」
***
炭焼き場を離れると、シグレが追いついてきた。
「俺も行く」
「おぬしは浅瀬を渡れ。川下の者を、先ほどの林へ集めよ」
「兵は増えている。対岸の畑に、天幕が並んでいた」
グレイホーンは足を止めた。皆を森の奥へ移しても、兵はまた道を延ばすだろう。施設から連れ戻した者たちは、まだ自分で歩くこともできない。
「一人で、足りるのか」
シグレの腰には刀があった。鞘を押さえる腕には、矢傷を巻いた布が残っている。
「そばにおられると、使えぬものがある」
「味方も巻き込むのか」
「ああ。細かな加減はできぬ」
「橋もか」
「橋を背にして使う。わしより前へ出るな」
シグレは眉を寄せたが、やがて頷いた。
「林で待つ。橋が空いたら、俺が皆を渡らせる」
「子供と怪我人を先に集めよ。荷車は、すぐに動かせるようにしておけ」
川下へ向かうシグレの背中を見送り、グレイホーンも歩き出した。
***
橋の向こうには、王の旗がいくつも立っていた。
畑の畝は踏み潰され、その上に天幕が並んでいる。道沿いでは兵士たちが荷車から槍や麦の袋を下ろし、橋を渡ったこちら側でも木を伐る音がしていた。
森側の柵の脇には、ゴブリンが二人縛られている。一人は座り込んだまま頭を上げず、もう一人は手首の縄を引いていた。そばの兵士が槍の柄で柵を叩くと、二人とも動かなくなった。
グレイホーンが森を出ると、斧を置いた兵士たちが橋へ走った。入れ違いに盾を持つ者が進み出て、柵の手前で槍を揃える。
「止まれ!」
「川下の者を通す。柵をどけよ。それから、そこにおる二人を放せ」
兜に布飾りをつけた男が、盾の後ろから出てきた。グレイホーンの角を見上げ、腰の紙筒へ手を触れる。
「施設を襲ったのは、お前か」
「ああ」
「人間の女たちは、どこにいる」
「おぬしらに渡す者はおらぬ」
男が片手を上げると、橋の向こうに弓兵が並んだ。さらに杖を持つ者たちも進み出る。
「仲間を出せ。抵抗しなければ、王の裁きを受けさせる」
「捕らえておいて、裁くのか」
「王の命令だ」
グレイホーンは盾の列を見回した。檻に繋がれていた者たちは、何をしたと問われたのかも知らない。名を持ち、言葉を話すと伝えても、王は守るべき民ではないと言った。
「おぬしらは、わしらを何だと思っておる」
「魔物だ」
「それだけか」
男は答えなかった。
「名を聞きもせず連れ去り、戻らぬ者を探しに行けば、今度は家まで兵を寄越す。どこまで退けばよい。あと何人、渡せば満足する!」
声が橋の向こうまで響いた。男が一歩下がり、背後の槍を確かめる。
グレイホーンは、さらにその向こうへ目を向けた。荷を下ろし終えた車が畝に落ち、御者が兵士に急かされながら馬を引き直している。
「あそこも、人間の畑じゃろう」
「軍の駐屯には必要な土地だ」
「わしらを助けた女たちを追い、匿った者まで捕らえる。それも、必要なことか」
「王に背いた者は裁かれる」
「では、おぬしら自身は、何を守っておる」
男が眉を寄せた。
「我々は王国の兵だ」
「兵である前に、人間じゃろう!」
グレイホーンは、盾の隙間から覗く顔へ向き直った。
「畑を耕す者も、捕らわれた者を助けた女たちも、おぬしらも、同じ人間ではないのか。おぬしらの王は、その者たちを守っておるのか!」
槍の先が揺れた。兵士の一人が、縛られたゴブリンへ視線を向ける。しかし、布飾りの男が命じると、すぐに槍を構え直した。
グレイホーンはしばらく返事を待った。男は何も言わず、手を振り下ろす。
「放て!」
矢が飛んだ。
グレイホーンが腕を上げると、矢は風に巻かれて道を外れた。続けて地面を押し上げ、崩れた盾の列へ踏み込む。
柵の脇にいた兵士が、ゴブリンの縄へ手を伸ばした。その足元から土が盛り上がり、兵士が道へ転がる。グレイホーンは柵の前へ進み、二人の縄を解いた。
「森へ戻れ」
一人が立ち上がろうとして膝を折った。もう一人が肩を貸すと、二人は柵から離れ、こちら側の森へ向かった。
兵士たちが追おうとしたが、グレイホーンが腕を振ると、柵の杭が土ごと抜け、人のいない川岸へ倒れた。その間に、二人の姿は木々の間へ消えた。
布飾りの男は、兵士たちに守られながら橋の向こうへ退いていた。
グレイホーンは橋を渡り始めた。対岸に赤い光が灯る。飛んできた火球を空へ逸らし、彼はその下を通り抜けた。
王都側の橋のたもとで、川下へ折れる道を通り過ぎ、踏み荒らされた畑へ入った。橋も、避難民を待たせる林へ続く道も背後にあった。
道の脇にいた御者が馬を引いて逃げ始める。荷役をしていた人間たちも、荷車を置いて陣の外へ走っていった。グレイホーンは彼らが道を外れるまで足を止めた。
その間に兵士たちは前方へ集まり、盾の間に槍を並べた。天幕の脇には弓兵が立ち、後方の術者たちが杖を掲げると、その周囲に石が幾つも浮き始める。
グレイホーンは右腕を突き出した。
黒いローブの広い袖が肘へ滑り、露わになった腕に赤い筋が浮かんだ。筋は手首へ伸び、皮膚が裂ける。
石が落ちた。
続けて、盾を持つ兵士たちの膝が折れ、槍の穂先が下がる。弓兵は引き絞った腕を保てず、矢を足元へ落とした。
グレイホーンの前方一帯で、畑の畝が潰れ始めた。
天幕の支柱が折れ、荷車の車軸が砕ける。積まれた槍は束のまま土へめり込み、逃げようとした兵士も、二歩と進まないうちに膝から崩れた。
グレイホーンの腕では、裂けた皮膚が塞がりつつあった。しかし、傷口が閉じきる前に別の赤い筋が浮かび、肘の内側から血が流れた。
それでも、前方を押さえつける力は弱まらなかった。
盾が折れ曲がり、天幕の梁が落ちる。兵士たちは地面へ押しつけられ、陣の中央で幾つもの声が途切れた。
グレイホーンの肩が裂けた。血がローブへ染み込み、その下で肉が寄っていく。口の端からも血が落ちたが、突き出した腕は動かなかった。
やがて、最後まで立っていた旗竿が折れた。
グレイホーンが指を閉じると、地面を押さえつけていた力が消えた。
しばらく、誰も立ち上がらなかった。やがて土へ頬をつけていた兵士が息を吸った。そのそばには、呼吸の戻らない者が倒れていた。
グレイホーンは腕を下ろした。傷はすでに塞がっていたが、裂けたローブと、そこに染み込んだ血は残っていた。
***
布飾りの男は、詰所の外れで這うように道を離れようとしていた。グレイホーンが近づくと、泥のついた顔を上げる。
「川下の者を通す。残った兵にも、手を出させるな」
男は口を動かしたが、言葉は聞き取れなかった。
「王には、わしが行くと伝えよ。ハル城へな」
グレイホーンが道を空けると、男は倒れていた兵士の肩へ手をかけた。二人で立ち上がり、王都へ続く道をよろめきながら歩いていく。
***
シグレが林から出てきたのは、そのあとだった。
潰れた陣と、グレイホーンの血に濡れたローブを見比べる。
「怪我は」
「もうない」
裂けた袖から見える皮膚に傷はなかった。シグレは短く頷くと、林へ戻って待たせていた者たちを呼んだ。
子供を抱いたゴブリンが出てくる。家から運び出した荷車には、歩けない者が横たわっていた。皆、潰れた天幕を見て足を止めたが、橋を示されると再び歩き始めた。
車輪が継ぎ目に引っかかるたびに、シグレが後ろから押す。一台が渡りきるまで、次の車は手前で待った。
グレイホーンは、その間ずっと王都へ続く道を向いていた。倒れた天幕から兵士が二人現れ、避難民を見つけたが、彼に気づくと武器を置いて引き返していった。
最後の荷車が橋を渡り終えると、シグレが戻ってきた。
「全員、渡った。さっき助けた二人は、川下で戻らなかった三人のうちの二人だった」
「もう一人は」
「別の兵に連れていかれた。北へ向かったらしいが、その先は分からん」
グレイホーンは王都へ続く道を見た。
「行き先を調べよ。見つけたなら、わしを待たずに助け出せ」
「使いを出す。俺は皆を送り届ける」
「無理に追うな。捕らわれた者まで危うくするなよ」
シグレが頷いた。
「お前はどうする」
「ハル城へ行く」
「王を討つのか」
「ああ。城を奪い、そこに残る」
シグレが顔を上げた。
「皆を集めるのか」
「逆じゃ。誰も近づけるな」
グレイホーンは街道の先に目を向けた。
「わしがおれば、城を取り戻すために兵が集まろう」
「森にも兵は来るぞ」
「来るじゃろうな。じゃが、少なくとも、わしを討つための兵は森へ向かわぬ」
シグレは、血の残るローブの袖を見た。
「……一人で守る気か」
「わしが決めたことじゃ」
グレイホーンは街道へ出た。生き残った兵士たちが、負傷者を荷車へ乗せている。彼らはグレイホーンに気づくと手を止めたが、彼は近づかなかった。
その者たちから見える道を、王都へ向かって歩いていった。




