第73話 残った人たち
日が落ちると、レオナの寝ている場所へ灯りが運ばれた。
ネラは別の治療師に代わってもらい、水を一口飲んだ。両手を洗って戻るまでの間も、レオナの胸から光は消えなかった。
カヤは敷物の脇に座っていた。フィンは向かいに脚を伸ばし、濡れた布を替えている。誰かが食事を置いていったが、椀はまだそのままだった。
「少し、食べられる?」
カヤが聞くと、レオナは首を横へ動かした。
「水がいい」
フィンが水の入った器を渡した。カヤはレオナの後頭部を支え、少しずつ飲ませる。二口でレオナが目を閉じたので、そこで止めた。
戻ってきたネラが、レオナの顔を覗き込む。
「どうだい。さっきより、苦しくないかい?」
「うん。あんまり痛くない」
「そうかい。寒くはないかい?」
「少し」
カヤが掛け布を引き上げると、レオナはその端をつかもうとした。うまく力が入らず、指先が布の上を滑る。
「持ってるよ」
カヤは布を整え、レオナの手を取った。レオナが握り返そうとしたので、カヤも少しだけ力を込める。
やがてレオナは目を閉じた。呼吸は先ほどより静かになっていたが、カヤが名前を呼んでも、すぐには反応しなかった。
ネラが胸に手を当て直す。光が強まると、レオナはゆっくりと目を開けた。
「……なに?」
「ううん。何でもない」
カヤが答えると、レオナは小さく頷いた。
***
グレイホーンが来ると、入口にいた者たちが場所を空けた。
屋根が低く、彼は中へ入れなかった。戸口の外で膝を折り、敷物に横たわるレオナへ目を向ける。
レオナが気づいて顔を動かした。
「怪我、した?」
「わしはよい」
「腕に、血」
「もう洗った」
彼が腕を見せると、レオナは小さく頷いた。
グレイホーンはしばらく彼女を見てから、ネラへ目を向けた。
ネラはその視線に気づいたが、何も言わず、レオナの胸へ手を当て直した。
「戻るんですよね」
フィンが言った。
レオナが彼を見る。
「死んでも、また」
そこまで言って、フィンは口を閉じた。
レオナは少し黙っていた。
「……たぶん」
「いつかは、分からないんですか」
「うん」
フィンは顔を伏せた。膝の上の布を広げ、折り直そうとしたが、端が合わなかった。
カヤはレオナの手を握り直した。
何十年も先になるかもしれない。戻ってきたとしても、自分たちが生きているとは限らない。
そのことを、カヤは考えないようにしていた。
「カヤ」
レオナが呼んだ。
「なに?」
「ここに、いたい」
カヤは顔を上げた。
「いてよ」
レオナは返事をしようとした。しかし、喉で息が引っかかり、言葉の代わりに短い咳が出た。
ネラがレオナの身体を少し横へ向ける。カヤは手を離さず、フィンが口元へ布を当てた。
「ゆっくりでいいよ。息を吐いてごらん」
ネラの声に合わせて、レオナの胸が動いた。
一度、少し深く。
カヤはその顔を覗き込んだ。
「レオナ」
目がこちらを向いた。握っていた指が、ほんの少しだけ動く。
その指先から、青白い光の粒がこぼれた。
カヤは思わず手を開いた。自分の指の間に浮かんだ粒が、ゆっくりと上がっていく。
「ネラさん」
声が震えた。
ネラは手を離さなかった。胸へ置いた両手の光が強くなり、その下でレオナの輪郭が薄くなっていく。
「待って」
カヤは身体を寄せ、もう一度レオナの手を握ろうとした。
指先が触れたところで、手の重さがなくなった。
「レオナ!」
フィンも名前を呼んだが、返事はなかった。
レオナに掛けていた布が、ゆっくりと沈んでいく。
ネラはしばらく、その場所に手を置いていた。やがて治療の光が消え、両手を引いた。
カヤは沈んだ掛け布をめくった。
レオナはいなかった。
さっきまで握っていた手の感触を確かめるように、自分の指を曲げる。掌には、もう何も残っていなかった。
「レオナ……」
もう一度、掛け布の下を確かめた。そこには、身体を支えるために敷いた上着があるだけだった。
フィンが身を寄せた。
カヤは何かを言おうとしたが、声にならなかった。代わりにフィンの上着をつかむと、彼もその手に自分の手を重ねた。
ネラは二人のそばに座り、何も言わなかった。
戸口の外で、グレイホーンが身を起こした。
中へ入ろうとして、低い屋根の前で足を止める。ネラが掛け布を整えるまで、彼はそこから動かなかった。
***
翌朝も、炭焼き場には多くの人が残っていた。
水が足りなくなり、歩ける者が川へ下りた。腕を吊った人間の男が桶を持とうとすると、隣のゴブリンが先に取った。
男が礼を言っても、ゴブリンは返事をせず、もう一つの桶を顎で示した。
ユナは入口の外で、助け出された人たちの名前を聞いていた。
発音が分からないときには聞き直し、人間の文字で書いてよいかを確かめる。昨夜から目を覚まさないトロルのそばでは、同じ檻にいた者が何度も名前を繰り返していた。
最後の名前を書き終えると、ユナは紙を見返した。
レオナに見せるはずだったものだ。
紙の端を折り、ほかの記録と一緒にしまった。
カヤはその横を通り、川へ顔を洗いに行った。
戻ってくると、エリナを包んだ布が新しくなっていた。
ネラがそばに座っている。カヤに気づくと、少し場所を空けた。
「見られるところは、整えたよ」
「ありがとうございます」
カヤはエリナの隣へ座り、布の上に手を置いた。
しばらくして、杖をついたフィンがやってきた。カヤは立って途中まで迎えに行き、肩を貸した。二人でエリナのそばへ戻って座る。
どちらも、すぐには話さなかった。
「埋める場所、聞いてくる」
カヤが言った。
フィンは頷いたが、エリナから目を離さなかった。
「ラウルは、どこにいるんでしょうね」
カヤは立ちかけた姿勢で止まった。
「……分かんない」
フィンは布の端へ手を置いた。
「そうですか」
カヤも、すぐには立ち上がれなかった。
***
エリナを埋めたのは、炭焼き場から少し離れた、木の根の少ない場所だった。
フィンは土をかけるときだけ立ち、あとは倒木へ座っていた。カヤは彼が座るところまで肩を貸し、それから、残った土をかけた。
印にする石を探しに行くと、シグレが平たいものを運んできた。
彼は二人の前へ石を置き、少し離れて立った。カヤが礼を言うと、短く頷いて戻っていった。
カヤが最後の土を整えると、フィンも倒木から立ち上がった。
杖をついて墓の前まで歩いてきたが、何も言わず、しばらく石を見ていた。
「もう少し、ここにいてもいいですか」
「うん」
カヤは彼に肩を貸し、二人で倒木へ戻って座った。
***
レオナの剣は、ネラのいる小屋へ置いた。
戻ってから、カヤは一度だけ鞘から抜いた。刃の根元がわずかに歪み、鍔の金属には細い筋が入っていた。
フィンが手を伸ばしたので、カヤは剣を渡した。
「直せますかね」
「工房の人に、聞いてみようか」
フィンは頷いた。
すぐには立たず、剣を鞘へ戻して、二人の間へ置いた。
***
二日後、ギルドの受付の女が、母親を荷車に乗せてやってきた。
炭焼きが車を引き、女はカヤの渡した道順を手にしていた。ユナを見つけると足を止め、荷車から手を離した。
ユナが近づくと、抱きつくように肩へ触れる。
「帰って、来たんですね」
「あなたも」
二人はしばらく、そのままでいた。
女はやがて、周囲を見回した。
「レオナさんは?」
ユナは女の腕へ手を置いた。
カヤは少し離れたところにいたが、二人の声は聞こえなかった。女が口元を覆うのを見て、視線を落とした。
女は町から、何枚かの紙を持ってきていた。
魔物が王家の施設を襲ったという知らせが出ている。
逃げた者を匿わないこと。森へ物を運ぶ者を見たら報せること。紙にはレオナたちの名前に加え、ユナの名前もあった。
ギルドにも兵が来たという。女は署名を求められた書類を見せ、まだ返事をしていないと話した。
「逃げた人たちに協力していないか、調べるそうです」
「それで、ここに?」
「母を一人で残しておけなかったので」
女は荷車の方を見た。母親は敷物に腰を下ろし、炭焼きから水の入った器を受け取っていた。
「これから、どうなるんでしょう」
ユナが尋ねても、女は首を振るだけだった。
***
グレイホーンは布告を読み終えると、紙をユナへ返した。
「戻るつもりか」
「今は、戻れません」
「人間の町は、ほかにもあろう」
「はい。でも、ここに残る人もいます。その人たちの支度を、もう少し手伝わせてください」
グレイホーンは彼女を見た。
その脇では、救出されたゴブリンがユナの水袋を持っている。脚の傷はまだ塞がっておらず、杖に体重を預けていた。
「ネラと決めるがよい」
そう言って、グレイホーンは炭焼き場を出た。
道の先では、シグレが待っていた。
「また兵が出た」
「どこじゃ」
「川下の道だ。橋の近くに柵を積んでいた」
グレイホーンは足を止めた。
川下にも、森を住みかにしている者たちがいる。王の施設へ入った者はおらず、今も以前と変わらず暮らしているはずだった。
「何をしておった」
「通る者を調べていた。まだ、こちらへは来ていない」
グレイホーンはしばらく黙っていた。
「北の者にも知らせよ。川下にもじゃ」
「集めるのか」
「まずは兵が出たことを伝えよ。川下には子供もおる。逃がせる者から移すようにな」
シグレは頷いた。
「川下には使いを出す。俺は兵の配置を見てこよう」
「深追いはするな」
「分かっている」
シグレは腰の刀の位置を直し、連絡を頼める者を探しに炭焼き場へ戻った。
グレイホーンはその背中を見送った。
炭焼き場では、フィンが荷車の座板を外させていた。横になったまま乗れるよう、長い板へ替えたいらしい。
カヤは道の図を広げ、負傷者を荷車で森の奥へ移すための道を、セイルに尋ねている。
グレイホーンは、通路に置かれた大きな石を持ち上げた。車輪が通れる幅まで脇へ寄せてから、カヤのところへ向かう。
「その道を、わしにも見せよ」
カヤが図を広げ直すと、グレイホーンは川下へ続く道に目を落とした。
「川下の者は、この道へ出られるか」
「うん。橋まで来られれば、そこから先は荷車でも通れるよ」
カヤは川に沿って延びる線を指でたどった。
「ただ、橋のところに兵がいるんだよね」
「ああ」
グレイホーンは頷き、橋の印を確かめた。




