第72話 同じ荷車
道の傾斜が緩くなったところで、シグレはレオナを荷車へ下ろした。
カヤが背中に上着を差し入れ、シグレがゆっくりと身体を横たえる。レオナは途端に咳き込み、ユナが口元へ布を当てた。
「この方が楽ですか」
レオナは呼吸を整えてから頷いた。
「うん。ありがとう」
隣には脚を固定されたゴブリンがいた。レオナの腕が近づくと、彼は身体を縮めたが、付き添っていた仲間に何か言われて、少しだけ場所を空けた。
「ごめんね。ありがとう」
レオナが声をかけても、ゴブリンは顔を向けなかった。
荷車が動き出すと、足元の水袋が揺れ、レオナの方へ転がってきた。彼女が手を伸ばそうとすると、ゴブリンが先に水袋をつかんだ。
彼は少し迷ってから、レオナの手が届くところへ水袋を置き直した。
「ありがとう」
ゴブリンは顔を背けたが、車が揺れても水袋が転がらないよう、片手を添えていた。
馬だけでは上がれない坂にかかり、シグレが荷台の後ろから車を押した。フィンの乗るもう一台は、その先を進んでいる。
「ネラのところまで、あとどのくらい?」
「森に入って、川を渡ったところ。日があるうちには着けるよ」
「そっか。もっと近いと思ってた」
「歩ける人だけなら、もっと早いんだけどね」
カヤが顔を覗き込むと、レオナは少し困ったように笑った。額には汗が浮かんでいる。
「脇、見せて」
上着の留め具を外すと、肋骨の下に赤黒い痣が広がっていた。皮膚が切れたところは少なく、外から見ただけでは何が起きているのか分からない。
ユナが布を当てたが、レオナは別のところを押さえた。
「そこじゃなくて、もう少し中」
「背中ですか」
「分かんない。息をすると、痛い」
ユナの手が止まった。カヤは上着を戻し、レオナの脇へ荷物を詰めた。
車輪が石を踏むたびに身体が揺れる。カヤはその肩を支えながら、道の先を見た。
***
最初の分かれ道で、先頭の車が止まった。
セイルが畑へ続く広い道を確かめ、ぬかるみの残る脇道へ馬を向けようとしている。カヤは荷車を下り、彼のところへ向かった。
「そっちは、車輪が沈むよ」
「街道には出られない。巡回がいる」
「この先で右へ曲がれる。昨日、見たときには水がなかった」
カヤは筒から道の図を取り出し、偵察中に書き足した線を指でたどった。
「ここからなら、川に沿って行ける。坂も、今のより緩い」
セイルは紙と道を見比べ、ゴブリンの一人を先へ走らせた。巡回を避けられるか、確かめておく必要があった。
カヤがフィンの乗る荷車へ近づくと、彼は後ろの車へ目を向けていた。
「レオナは」
「起きてる。でも、血が」
カヤはそこで声を落とした。
「今は進めたい。ネラのところまで、血を止めきれるか分からないから」
フィンは頷き、足元の荷物から治療用に預かっていた薬袋を取り出した。
「これも持っていてください」
「フィンの分は?」
「まだあります」
カヤが薬袋を受け取ったところで、道を確かめに行ったゴブリンが戻ってきた。
セイルは報告を聞くと、先頭の馬をカヤが示した道へ向けた。荷車が動き始めるのを確かめ、カヤもレオナのそばへ戻った。
***
昼前に、一度だけ追手が見えた。
尾根の上を走っていた二頭の馬が、こちらの車へ向きを変える。グレイホーンが歩みを止めると、シグレも荷車から手を離そうとした。
「おぬしは車を押せ」
グレイホーンは短く言い、道の外へ踏み込んだ。
カヤが尾根を見上げると、彼はすでに斜面を上り始めていた。やがて木々の向こうへ姿が消え、しばらくして馬の嘶きが聞こえた。
振り返ろうとしたところで、車輪が石へ乗り上げた。レオナが息を詰め、脇腹を押さえる。
「もう少し速度を落として!」
カヤは前へ声をかけ、レオナの肩を支えた。
荷車が速度を落とすと、レオナは閉じていた目を開けた。
「レオナ、大丈夫?」
呼びかけてから、少し間があった。
「……うん。薬、まだ残ってる?」
「あるよ。レオナの分なら」
「うん。あの子の分も、ある?」
レオナは隣のゴブリンへ目を向けた。脚を巻いた布には、また血が滲み始めている。
カヤはフィンから受け取った薬袋を確かめた。
「大丈夫。あの子の分もあるよ」
レオナが薬を飲んだあと、カヤはもう一つの小瓶を取り出し、付き添いのゴブリンへ渡した。彼は瓶を受け取ると、仲間の脚に巻かれた布を確かめ、手当てを始めた。
レオナはその様子を見て頷いたが、何か言おうとしたところで咳き込んだ。
カヤが口元へ布を当てる。何度か咳き込んだあと、レオナは肩で息をしながら、その布を見た。
「こんなに出てた?」
さっきよりも広く、血が滲んでいた。
カヤは畳んだ面を替え、汚れたところが見えないようにした。
「着いたら、すぐ診てもらうから」
「……うん」
レオナは目を閉じた。カヤはその肩から手を離さず、荷車の揺れに合わせて身体を支え続けた。
川へ下りるころには、グレイホーンも追いついていた。
腕に血がついている。レオナが顔を向けると、彼は川の水で血を流しながら言った。
「追っては来ぬ。馬を逃がした。あやつらもしばらくは動けまい」
レオナはグレイホーンの腕に残る血を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
グレイホーンも何も言わず、川の向こうへ目を向けた。
川に架かる橋は細く、荷車では渡れなかった。対岸で待っていたエルフたちが担架を運んでくる。その後ろにネラの姿を見つけ、カヤは声を上げた。
「ネラ!」
「どの子だい」
「こっち!」
ネラは荷車へ近づき、レオナの顔を見るなり、持っていた袋を隣のエルフへ渡した。
「いつから?」
「門を出てから、何度も大きい魔法を使って。途中から、息をすると痛いって」
「血を吐いたのは」
「道を塞いでた荷車をどけたあと。それから、咳をするたびに」
ネラは説明を聞きながら、レオナの胸へ手を当てた。淡い光が広がると、彼女の眉が寄った。
「レオナ。目を開けておいで」
「開いてるよ」
「そうだね。そのまま」
ネラが光を強めると、レオナの浅い呼吸が少し落ち着いた。それを確かめてから、担架を寄せるように頼む。
「向こうへ運ぼうか。ここじゃ、できることが限られるからね」
シグレが荷台へ上がり、レオナの身体を抱えようとした。カヤも一緒に持ち上げようとしたが、ネラに肩を叩かれる。
「カヤ、そっちを空けておくれ。わたしが支えるから」
カヤは背中に回していた手を引き、シグレに場所を譲った。
レオナが担架へ移されると、ネラは呼吸を確かめてから、シグレとエルフに運ぶよう指示した。
二人が担架の両端を持ち、橋へ向かう。ネラもそのそばについて歩いた。
ほかの負傷者も、順に橋を渡っていく。
カヤは荷台に残されていたレオナの剣を取り、鞘ごと胸へ抱えた。柄には、握っていたときの血が乾きかけている。
そのまま剣を抱え、レオナたちのあとを追った。
***
炭焼き場の屋根の下には、敷物が何枚も並べられていた。
水を沸かす者と、傷を洗う者が行き来している。運び込まれた負傷者のそばでは、エルフたちが手当てを始めていた。
フィンも敷物へ座らされたが、自分の脚を見せるより先に、レオナの担架を目で追った。
「ここへ座ってて。見えるから」
カヤがレオナの近くに場所を作ると、フィンは杖を支えにして身体を動かした。
隣では、荷車でレオナと一緒だったゴブリンが、脚の包帯をほどいてもらっている。
エリナを載せた板だけは、敷物には下ろされなかった。屋根の奥へ運ばれていくのを、カヤは黙って見送った。
腕に抱えていたレオナの剣を抱え直し、ネラたちのもとへ戻る。
ネラはレオナの胸へ両手を当て、しばらく動かさなかった。
光が強まるにつれ、浅かった呼吸が少しずつ深くなっていく。レオナの胸がゆっくりと上下し始め、カヤもようやく息を吐いた。
しかし、ネラは手を止めず、今度は脇腹へ移して治療を続けた。
「何か、できますか」
フィンが尋ねた。
「水を替えておくれ。熱すぎないものを」
フィンは傍らの桶へ手を伸ばしたが、隣のエルフが先に持ち上げた。
「お願いします」
エルフが頷いて水を替えに行くと、フィンは伸ばしていた手を膝へ戻した。
カヤはレオナの剣を敷物の端に置き、乾いた布を持ってネラのそばへ行く。
「脇の傷が、ひどいんですか」
「そこだけじゃないよ。身体は治ろうとしているんだけどね。傷んでいるところが多すぎて、追いついていないんだ」
ネラはレオナから目を離さずに答え、手を当てる位置を少し変えた。
カヤは布を握ったまま、その隣へしゃがんだ。
しばらくして、レオナが目を開けた。
「カヤ」
「いるよ」
「ユナは?」
呼ばれて、少し離れたところで手当てを受けていたユナが顔を上げた。袖を下ろし、レオナの足元まで来る。
「ここです」
「みんな、着いた?」
「ここまで一緒に来た人たちは、着いています。今、名前を確認しています」
ユナは手元の紙をレオナの顔へ近づけた。
レオナは並んだ名前を目で追ったが、途中で目を閉じた。
「あとで、見せて」
「はい。全部、確認できたら」
レオナが頷くと、ユナは紙を持ってほかの負傷者のところへ戻っていった。
ネラはまだ胸に手を当てていた。
カヤは持っていた布を膝に置き、その隣に座った。
外では、鍋へ水を足す音がしていた。




