第71話 外へ
「左の車輪の奥。一本ある」
カヤの声を聞き、レオナは剣を低く差し出した。
金属帯が光る。正面から圧力を受け、剣先が押し上げられた。
その横からシグレが刀を振るう。光がそちらへ強まった隙に、レオナは膝を落とし、荷車の下へ刃を入れた。
魔力を通すと、鉄棒が一本折れた。
「次は、向こうの――」
カヤの声を遮り、石が板の上を越えた。
シグレが刀の腹で弾く。拳ほどの石が壁へぶつかり、欠片が散った。板の向こうでは、先ほど氷を伸ばしていた男が杖を構えている。
足元の石が、もう一つ浮いた。
レオナは左手を向けた。飛んできた石を横へ逸らすと、肩から指先まで痛みが走る。
その間にシグレが前へ出て、板の脇から突き出された槍を刀で払った。
「もう一本!」
カヤが指した先へ、レオナも剣を入れる。最後の鉄棒が切れ、板を重ねた荷車がわずかに揺れた。
レオナは剣を戻し、側面へ両手を向けた。
押す。
車輪が楔へ乗り上げた。向こうの術者が二人とも腰を落とすと止まりかけたが、シグレが横から肩を当て、軋む車輪をさらに押し上げた。
「そのまま」
レオナが力を強めたとき、板の上にいくつもの石が浮かんだ。
「来る!」
シグレが身体を離し、刀を構える。飛んできた石の一つを弾いたが、残りは頭上を越え、負傷者の集まる見張り小屋へ向かっていた。
レオナは荷車から手を離した。
石をまとめて横へ押す。重なる軌道を追い、一つだけ低く抜けた石へ、さらに力を当てた。
石はゴブリンを運ぶ男の手前で向きを変え、畑へ落ちた。
シグレが肩を当てて踏ん張ったが、荷車は少しずつ押し戻された。レオナが手を向け直すより早く、車輪が楔へぶつかる。
レオナは手を下ろした。
掌が濡れている。裂けた皮膚から血が流れ、指先へ滴った。胸を押さえようとしても、腕を曲げるだけで息が詰まる。
「手を」
ユナが布を持ってきた。
「あとでいい。先に――」
「まだ通れません」
掌へ布が当てられる。裂けた皮膚は少しずつ塞がり始めていたが、指を曲げようとすると、また血がにじんだ。レオナは握るのを諦め、ユナに手を任せた。ユナは布で手を包み、手首で結んだ。
背後では盾のぶつかる音が続いていた。グレイホーンが風で兵の足を払っても、倒れた者を避けて別の槍が出てくる。盾を支え合って進む列へ、再び風が吹きつけた。
カヤがレオナの顔を覗き込んだ。
「レオナ、もうやめて。何か、別の方法を……」
レオナは振り返った。
脚を固定されたゴブリンが布の上にいる。その隣では、トロルが動けない同族を支えていた。二人の男が持つ板からは、エリナの足が見えている。
「あの車をどけたら、私も乗せて。歩けないかもしれない」
手を上げようとしたが、胸の痛みに腕が止まった。
そのとき、板の向こうで矢の刺さる音がした。
術者の一人が振り返り、金属帯から手を離す。その足元へ、敷石の継ぎ目から水が流れ出した。畑側から投げられた石が荷車の縁を打ち、もう一人も身を引く。斜面で小さな影が伏せ、荷車から離れて畑の奥へ走った。
最初の男が足を引こうとしたが、靴の裏が敷石に貼りついていた。身体が傾き、凍った道へ膝をつく。
青い光が一つ消える。
「レオナさん!」
フィンの声だった。
倒れた術者の足元から白い氷が広がり、もう一人も帯から片手を離した。
荷車の向こうでフィンが杖を下ろすと、水の流れが止まった。桶にはまだ半分ほど残っていた。
杖を持つ男が後ろを振り返った。
シグレが踏み込む。
荷車へ刀を突き込み、板を一枚割った。できた隙間から突き出した切っ先に、残った術者が手を引く。
「押せ!」
刀を抜いたシグレが、矢を受けていない側の肩を当てた。
レオナも両手を向ける。
魔力を込めた途端、腕から胸へ痛みが走った。それでも、今度は荷車が動いた。車輪が楔へ乗り上げ、板の向こうで兵士がよろめく。
倒れた術者が金属帯へ手を戻す。青い光が灯り、荷車が止まりかけた。シグレが肩で支える間に、レオナは両足を開いた。
見張り小屋の陰には、もう逃げる場所がない。ここで戻したら、また石が来る。
レオナは息を吸い、さらに力を込めた。
胸の奥で、何かが裂けるように痛んだ。
息が止まる。
それでも手は下ろさなかった。
板の上に、新しい石が浮いた。
レオナは手を離せず、シグレも肩を当てたままだった。石が飛んでくる。
背後から風が吹き抜けた。
石は頭上で向きを変え、畑へ落ちる。
「前だけ見ておれ!」
グレイホーンの声に、レオナは荷車へ向き直った。車輪が楔を越えた直後、背後で盾のぶつかる音が近づく。
援護の間に、追手が距離を詰めていた。負傷者のすぐ後ろへ伸びた槍が、吹き上がった風に押し戻される。
「早くせい!」
シグレが肩を押し込み、楔を越えた車輪を戻させなかった。レオナは両足を踏みしめ、荷車を畑側へ押した。胸の痛みに息が詰まる。それでも、もう手は離さなかった。押し返す力に逆らって魔力を込めると、金属帯に埋め込まれた魔石の一つが砕けた。
青い光が弱まり、荷車を押し返す力が緩む。シグレが肩を離した。
「離れて!」
レオナは最後の力を畑側へ向けた。
一台が道の縁から傾き、つながったもう一台を引いた。術者が手を離し、兵士たちも盾を捨てて飛び退く。
二台の荷車が斜面へ滑り落ちた。
開いた道の先に、フィンがいた。荷台へ肘をつき、杖をこちらへ向けている。
「こっちです!」
レオナは頷こうとして咳き込んだ。
布を巻いた手で口を押さえると、赤い染みが広がった。
***
シグレが先に道を渡り、立ち直ろうとする兵へ刀を向けた。ユナが凍っていない道の端を示すと、負傷者を運ぶ者たちが続いた。
カヤはフィンの乗る馬車へ駆け寄った。後ろから来たもう一台も止まり、セイルと斜面から戻ったゴブリンが負傷者を受け取る。弓を持つエルフは道の脇に残り、立ち直ろうとする兵を牽制した。
エリナの載った板は二台目へ滑り込ませた。トロルたちは乗れず、歩ける者が肩を貸して進む。
レオナも続こうとした。
一歩目は出た。二歩目で膝が折れ、地面へ手をついた。
「レオナ!」
カヤが引き返してくる。
「乗って。場所、空けるから」
差し出された肩へ手を掛けても、立てなかった。咳き込むたびに胸が痛み、口の中へ血の味が広がる。
カヤが腰を落とし、レオナの腕を自分の首へ回そうとした。
「俺が持つ」
シグレが刀を鞘へ戻し、二人の前へ屈んだ。
レオナは地面についた自分の手を見た。
「うん。お願い」
シグレの首へ腕を伸ばす。背へ引き上げられた途端、胸が押され、短く声が漏れた。
「痛い?」
カヤが横から聞いた。
「うん。少し、ゆっくり」
シグレは身体を起こし、レオナを背負い直した。
その後ろでは、グレイホーンが両腕を広げていた。風が道を駆け抜け、盾の列を後続へ押し戻す。横から抜けようとした兵も足を払われ、進めなくなった。
奥で杖が上がる。グレイホーンが片手を返すと、男の腕が跳ね上がり、杖の先の光が消えた。続けて放たれた矢も風に巻き込まれ、誰もいない路肩へ落ちる。
グレイホーンは構えを解かず、逃がした者たちに合わせて少しずつ後退した。弓を持つエルフも、彼の横を抜けて馬車へ戻った。
「まだ、こちらへ来ていない人は?」
荷台からフィンが尋ねる。
「おらん。やれ」
グレイホーンが通り過ぎると、フィンは残りの水を道へ流した。
「流れを閉じよ。冷たく、固く、この道を覆え」
薄い氷が道を横切った。走ってきた兵士が足を取られ、その後ろの者も立ち止まる。
フィンは杖を下ろし、荷台の縁へもたれた。セイルが馬を引き、二台の馬車が動き出す。
切通しを曲がる直前、レオナは背後を見た。
灰色の角が見えた。グレイホーンも歩いてくる。片方の角に、朝の光が当たっていた。
呼ぼうとしたが声が出ず、レオナはカヤの袖をつかんだ。
「いるよ」
カヤが言った。
「ちゃんと来てる。だから、今はこっち見て」




