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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第二章

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第7話 帰る場所

「明日なら、朝から空けられる」


 ユアンは腰の革紐を締めながら言った。戸口の脇には縄と木槌、それに布を巻いた道具がまとめて置かれている。朝食を終えた家の中には、まだ焼いた麦と温かい汁の匂いが残っていたが、ユアンはもう仕事へ出る支度を済ませかけていた。


「サナまでなら途中まで一緒に行ける。今日は仕事を抜けられない」


「途中まででいいよ」


「明日まで待てるなら、もう少し先まで送れるんだが」


「場所は分かるから」


 ユアンは革紐を締める手を止めた。


「道、変わってるんじゃないか?」


 レオナは返事をしかけて、少し考えた。ハルだけでも、覚えている道はずいぶん消えていた。


「川が二つに分かれるところはある?」


「ある」


「山も見える?」


「そりゃ見える」


「なら大丈夫」


「そういうものかね」


 ユアンは首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。


「家は何軒か残ってるはずだぞ。住んでる奴はいないけど」


「残ってるんだ」


「俺も中まで行ったことはない」


 レオナが戸口へ向かうと、ユアンの視線が足元で止まった。


「出る前に靴を見せろ。そっちの道、石が多いぞ」


「これ?」


 旅に出てから履き続けてきた革靴だった。縁は擦れ、何度か縫い直している。


「底が薄いな。これじゃ帰りまで持つか分からん」


 奥で器を片づけていたユアンの母親が手を止めた。


「ちょっと待ちな」


 家の奥へ消え、しばらくして布包みを抱えて戻ってきた。


 卓上で包みを開く。一足の靴と、灰茶色の外套が出てきた。靴は使い込まれていたが、厚い革底には深い溝が残っている。外套にも何か所か継ぎがあったものの、生地そのものは丈夫そうだった。


「履いてみな」


「誰の?」


「私のだよ。若いころ使ってた」


 母親は靴をレオナの方へ押した。


「もう履かないから持っていきな」


「でも」


「置いといたって鼠が喜ぶだけだよ」


 レオナは靴を手に取った。


 古い靴を脱いで足を入れる。少し大きかったが、紐を締めればかかとは収まった。


 立ち上がって歩いてみる。


「地面が遠い」


「なんだ、それ」


 ユアンが笑った。


 レオナはもう二歩歩き、足首を曲げた。


「でも、歩きやすい」


「ならいい」


 母親は外套も差し出した。


「山の方は日が落ちると冷えるからね」


「ありがとう」


「ああ」


 母親はそれだけ言って、残った器を重ね始めた。


 ユアンが道具を担ぐ。


「石置き場までなら同じ方向だ。そこまで行くか」


「うん」


 二人で戸口へ向かう。


 レオナが外へ出たところで、背後から声がした。


「暗くなる前には戻りな」


 振り返ると、母親はもう器を洗っていた。


「うん」


 朝の冷たい空気の中へ出た。


***


 ハルを離れる道は広く、朝から荷車が行き交っていた。何本もの車輪が土を締め、両脇には低い石積みと、雨水を逃がす細い溝が続いている。


 レオナは歩きながら、何度か道の脇へ目をやった。


 丈の高い草の向こうに、浅い窪みが長く伸びている。踏み固められていたはずの土には、細い木まで根を張っていた。


「どうした?」


「道がなくなってる」


「そっちにあったのか?」


「うん」


 ユアンは草むらを眺め、それから今歩いている道へ目を戻した。


「今はこっちだな」


「みたいだね」


 やがて木立の向こうから水音が聞こえ、朝日を返す川面が見えてきた。


 向こう岸には大きな白い岩がある。水が岩に当たり、細かな泡を立てていた。


 レオナの口元が少し緩む。


 そこは覚えていた。


 川へ下りようとして、少し先に目が止まった。


 下流に橋が架かっている。


 石の台へ太い木材を組み、両側には腰ほどの柵が続いていた。人が行き交い、荷車までその上を渡っている。


「橋、できたんだ」


「俺が生まれるずっと前からあるぞ」


「そうなんだ」


 ユアンは一瞬だけレオナを見たが、何も聞かなかった。


 二人で橋へ向かう。


 新しい靴の底は板をしっかり捉えた。中央まで来ると、少し上流に浅瀬が見える。水の少ない日はあそこを渡れた。雨のあとなら膝まで濡れたし、流れが強ければ遠回りしなければならなかった。


「便利だね」


 レオナが欄干の向こうを見ながら言う。


「荷車でも渡れるからな」


 ちょうど後ろから車輪の音が近づいてきた。二人が端へ寄ると、樽を積んだ荷車が橋板を鳴らしながら通り過ぎていった。


 対岸へ渡ると、道はそのまま山裾へ伸びている。日が高くなるにつれて畑や家はまばらになり、代わりに石を積んだ荷車とすれ違うことが増えた。


 やがて川が二つに分かれる。


 水の向こうには、頂近くがわずかに平らで、右へ長く尾根を落とす山が見えた。


「あれだ」


 少し先で、広い道から細い道が一本分かれている。


 レオナはそちらへ足を向けた。


「サナ、こっちなのか?」


「うん」


 道は木々の間を斜めに上っていた。人一人なら難なく歩けるが、荷車を通すには狭い。石がところどころ地面から突き出し、雨水の流れた跡が道の中央を深く削っている。


 ユアンも入口まで来て、先を見上げた。


「今はほとんど誰も使わないぞ」


「前より荒れてる」


「人が通らなきゃ、そうなるだろうな」


 レオナは一歩だけ坂へ上がり、靴底で石を踏んだ。


「これなら平気そう」


「靴、もらっといてよかったな」


「うん」


 広い道の先には、石を積んだ荷車が何台も集まる場所が見えていた。人の声と、石同士がぶつかる乾いた音が風に乗って届いてくる。


 ユアンはそちらを指した。


「俺は石置き場だから、ここから別だ」


「分かった」


「帰りはこの道を下りればいい。迷ったら川まで出ろ」


「うん」


「転ぶなよ」


「転ばないよ」


「ならいい」


 ユアンは片手を上げ、広い道へ戻っていった。


 レオナはその背中が荷車の陰へ消えるまで見送り、それから一人で坂を上った。


***


 道はすぐに険しくなった。


 地面から斜めに突き出した石を避け、木の根を跨ぎながら進む。雨で土の流れた場所では岩肌がそのまま道になり、長く人の足が途絶えたぶん、木々が左右から枝を伸ばしている。


 濡れた岩へ足を置く。


 新しい靴の底が止まった。


 少し先には、大きな岩があった。子どものころ、その上へ登って降りられなくなった場所だ。隣の木は見上げるほど太く育っていたが、根元から二つに分かれた枝には見覚えがある。


 その先にも、知っているものが点々と残っていた。崩れた斜面、小さな沢、曲がった岩。一つ見つけると、次へ向かう方向が分かった。


 坂を越えたところで、木々の間に屋根が見えた。


 傾いた家、屋根を半分ほど失った家、壁を蔓に覆われた家。草木の間に、サナはまだ形を残していた。


 煙は一つも上がっていない。


 村へ入る道には草が生え、家と家の間にも若い木が育っている。戸を失った家の中には落ち葉が吹き込み、暮らしの道具はほとんど残っていなかった。


 覚えている家もあれば、知らない形に建て増された家もある。石垣はところどころ崩れ、畑の畝は草の下に沈んでいた。


 やがて、丸い石組みが見えた。


 井戸だった。


 木枠はなくなっていたが、縁の石は残っている。覗き込むと、暗い底に水があった。


 ここからなら分かった。


 レオナは井戸を離れ、右へ曲がる。


 数軒先。


 木々の間に、その家があった。


 足が止まった。


 ほかの家より、よく残っていた。


 屋根の端は落ちている。壁板も何枚か外れ、庇は少し傾いていた。


 それでも、ほかの家では外れていた戸が、ここにはまだあった。


 家の脇には低い石垣も残っている。


 端の方だけ石がきれいに積まれ、その中に一つ、隣とうまく合わず斜めに傾いたものがあった。


 父が何度も直していたところだった。


 レオナはそこへ近づき、苔のついた石を指でなぞった。


 傾き方まで、覚えていた。


 手を離す。


 戸口へ向かった。


 手を掛ける。


 木は湿気を吸って重かった。


 押す。


 軋む音がする。


 もう少し力を入れた。


 戸がゆっくりと内側へ開いた。


 外の光が、暗い床を細長く照らした。


 レオナはその場で止まった。


 卓があった。


 椅子があった。


 棚があった。


 土の器が二つ、重なっていた。


 壁には鍋が掛かったままだった。


 火を焚いていた場所には黒い煤が残っている。


 壁際の椅子は、背もたれの端が欠けていた。


 レオナは中へ入った。


 乾いた葉が靴の下で砕ける。


 椅子の背へ手を置き、欠けたところを指でなぞった。


 それから卓へ手を移す。


 埃を拭ったところだけ、木目が現れた。


 そのとき、家の奥に目がいった。


 廊下の突き当たり。


 そこに、自分の部屋があった。


 その戸だけが、閉まっていた。


***


 レオナは戸の前まで歩いた。


 取っ手へ手を掛ける。


 すぐには動かさなかった。


 やがて、ゆっくり引いた。


 小さな窓から差した光の中で、埃が舞っていた。


 寝台がある。


 壁際に箱がある。


 棚がある。


 レオナは敷居を越えた。


 棚の上に、丸い石が三つ並んでいた。


 足が止まる。


 一つは黒い。


 一つは赤茶色。


 もう一つは白くて、少し平たい。


 川で拾った石だった。


 何に使うの、と母に聞かれた。


 きれいだから置く、と答えた。


 レオナは白い石を手に取った。


 親指で表面を擦る。


 埃の下から白い面が出た。


 壁の釘には、小さな布袋が掛かっている。


 手に取る。


 軽い。


 中には何も入っていない。


 旅へ出る前に、自分で空にした。


 レオナは寝台の端へ腰を下ろした。


 古い布がわずかに崩れる。


 白い石を手の中で転がした。


 窓。


 棚。


 箱。


 布袋。


 寝台。


 レオナは長いあいだ座っていた。


 やがて立ち上がる。


 白い石を棚へ戻した。


 三つ並べる。


 少しずれた。


 指で直した。


 部屋を出る。


 戸を閉める。


 今度は、最後まできちんと閉まった。


 そのまま家を出た。


 墓地へ向かった。


***


 墓地は昔より広くなっていた。


 家ごとに使っていた場所は覚えている。


 レオナは墓石の間を抜け、自分の家の一角へ向かった。


 途中には知っている名もあった。


 魚を分けてくれた老人。


 畑へ入って怒鳴られた人。


 母とよく立ち話をしていた女。


 足は止めなかった。


 自分の家の墓が並ぶ場所へ入る。


 石が増えていた。


 一つ読む。


 知らない。


 次も知らない。


 さらに奥へ進む。


 もう一つ。


 レオナの視線が止まった。


 父の名前だった。


 近づく。


 名前の下に刻まれた年を読む。


 もう一度、読む。


 レオナはしばらく、父の墓だけを見ていた。


 その隣にも石がある。


 視線を移さないまま、時間だけが過ぎた。


 やがて、ゆっくり横を見る。


 母の名前だった。


 母の年を読む。


 もう一度、父の墓へ目を戻す。


 二人とも、あの日のすぐあとではなかった。


 父はそれから何十年も生きていた。


 母は、父よりあとまで生きていた。


 レオナは二つの墓の前に立っていた。


 さっき閉めた戸が浮かんだ。


 三つの石。


 空の布袋。


 寝台。


 膝をつく。


 父の墓へ手を置いた。


 それから、母の墓にも触れた。


 どちらも冷たかった。


 父は、いつまであの家にいたのだろう。


 母は、何度あの部屋の戸を開けたのだろう。


 もう、聞けない。


 視界が滲んだ。


 袖で拭う。


 また滲んだ。


 しばらく、顔を上げられなかった。


 やがて、二つの墓を見る。


「ただいま」


 返事はなかった。


 風が草を伏せ、また起こした。


***


 ハルへ戻ったころには、家々の窓から灯りが漏れていた。


 ユアンの家の戸を開ける。


 温かい空気が顔に当たった。鍋から立つ湯気に、煮た豆と根菜の匂いが混じっていた。


「遅い」


 母親が鍋をかき混ぜながら言った。


「暗くなる前って言っただろ」


「まだ道は見えたよ」


「そういう話じゃない」


 レオナは戸を閉めた。


 卓にはユアンと、朝に会った娘がいた。その隣には見覚えのない女が座っている。


 レオナがそちらへ目を向けると、ユアンが気づいた。


「妻のミラ。今日は仕事に出てたから、会ってなかったな」


「ミラです」


 ミラが軽く頭を下げた。


「レオナ」


 レオナも頭を下げた。


 ユアンが娘を見る。


「そういや、名前はまだだったな。こっちはニナ」


 ニナが顔を上げた。


「ニナ」


「レオナ」


 ニナはまたパンをちぎり始めた。


「帰れたな」


 ユアンが言った。


「帰れた」


「転んだ?」


「転んでない」


「ならよかった」


 ミラが横へ少し詰め、レオナの座る場所を空けた。


 母親が椀を一つ置く。


 豆と根菜を煮たスープだった。


「食べな」


「私の分?」


「他に誰がいるんだい」


 レオナは椅子へ座った。


 椀を両手で包む。


 熱が指へ移ってくる。


 一口飲んだ。


 少し、しょっぱく感じた。


 もう一口飲む。


 温かかった。


「サナ、どうだった?」


 ユアンが聞いた。


 レオナは椀の中を見た。


「家、あったよ」


「残ってたか」


「うん」


 少し間を置いた。


「父と母もいた」


 ユアンが顔を上げる。


「墓に」


「ああ」


 それ以上は聞かなかった。


 レオナはもう一口飲んだ。


「家に、物が残ってた」


 母親の手が止まった。


「ほかの家にはほとんどなかった。でも、うちにはあった。私の部屋も、そのままだった」


「ああ」


「知ってるの?」


「聞いたことはあるよ」


 母親は鍋の火を少し弱めた。


「娘が帰るかもしれないから、あそこだけは残してくれって言ってたらしいよ」


 レオナは母親を見た。


「そっか」


 椀へ目を落とす。


 スープを飲んだ。


「サナにいた人たちは、どこへ行ったの?」


「さあね」


 母親は少し考えた。


「ハルへ降りた人もいたし、ほかへ移った人もいたらしいよ。一度にいなくなったわけじゃないから、今となっては誰がどこへ行ったかまでは分からないね」


「そっか」


「昔からいる人なら、何か覚えてるかもしれないけど」


「うん」


 それ以上は聞かなかった。


 しばらく五人で食べた。


 ユアンが仕事場で荷車の車輪を壊した男の話をすると、ミラが「あれ、またなの」と呆れた。母親まで呆れたように口を挟み、ニナは話の途中でパンをスープへ落とした。


 レオナはときどき笑いながら、椀の中を空にした。


 母親が鍋へ手を伸ばす。


「もう一杯?」


 レオナは空の椀を見た。


「入る」


「最初からそう言いな」


 レオナは椀を差し出した。


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