第6話 昨日の人
男は自分の腰を見た。革紐の先に、青黒い石が下がっている。
「これか?」
「うん」
結び目をほどき、差し出してくる。
「ただのお守りだぞ」
レオナは掌に載せた。
石はひんやりと冷たく、表面には細かな亀裂が走っている。その奥に見える薄い青は、昨日ハルで見た石とよく似ていた。
親指で表面をなぞる。
強く魔力を使ったあとの感覚に似ていた。けれど、自分の身体ではなく、掌の石からそれが返ってくる。
レオナは石を裏返した。
「昔から家にある」
男が言った。
「拾った場所が気になるんだろ。俺が生まれるずっと前からある。なくすと母親に怒られる」
石を返すと、男は慣れた手つきで腰へ結び直した。
「そんなに大事?」
「守り石だからな。うちの先祖を助けた人が残したものらしい」
男は荷車の脇に置かれた袋を持ち上げ、荷台へ載せた。
「トーマっていう」
レオナは、腰で揺れた石を見た。
男が二つ目の袋へ手を伸ばしかけて止まる。
「さっきも、その名前を聞いてたな」
「知ってる」
「トーマを?」
「うん」
男はしばらくレオナを見ていた。
「俺はユアン」
それから戸口を顎で示す。
「まだ荷が残ってる。入るか」
家の壁には、新しい白木と黒ずんだ古い柱が混じっていた。建て直すたび、使えるものは残してきたのだろう。
戸をくぐると煮た豆の匂いがした。
年配の女が卓の器を片づけている。壁際には、まだ外へ運び出していない袋や木箱がまとめて置かれていた。
「まだいたのかい」
「今出る」
「朝から聞いてるよ」
ユアンは残っていた荷の前へしゃがみ、縄を掛け始めた。
「母さん。こっちはレオナ」
女の手が止まる。
「レオナ?」
一度だけ名前を繰り返した。
「トーマのことを知ってるって」
「誰が」
「この人」
母親はレオナを見てから、空いている椅子を示した。
「座りな」
それだけ言って、また器を重ね始める。
奥から小さな女の子が出てきた。迷うことなくユアンのところまで歩いていき、腰の石へ手を伸ばす。
「今日も持ってくの?」
「今日は山だからな」
「貸して」
「帰ったら」
「昨日もそう言った」
「昨日は貸しただろ」
「ちょっとだけ」
女の子は不満そうに石を見上げ、それからレオナに気づいた。
「だれ?」
「レオナ」
ユアンが答える。
「ふうん」
それだけで興味を失ったらしく、卓に残っていた木の匙を小さな籠へ集め始めた。
「ミラは?」
母親が訊く。
「もう石置き場。今日は朝から選別だって」
「じゃあ、あんたより早く帰るね」
ユアンは聞こえないふりをして縄を締めた。
レオナは部屋を見回した。壁には大人の上着が何枚か掛かり、その端に小さな外套が混じっている。窓際には泥の乾いた籠と革手袋が置かれていた。
母親は器を片づけ終えると、卓を布で拭き始めた。
「それで。うちのトーマを知ってるって?」
「うん」
「どこで?」
答えるより先に、ユアンが口を挟んだ。
「母さん、岩喰いの話ってどこまで本当なんだ?」
「急に何だい」
「この石」
ユアンが腰を叩く。
「昔、ハルに岩喰いが来た。そのときトーマがいて、旅人が一人残った。そうだろ」
「ああ」
母親は手を動かしたまま答える。
「女の旅人だった」
「それでみんな逃げた」
「岩喰いも死んだ」
「旅人も」
ユアンが続ける。
「身体が消えて、そこにあった石をトーマが拾った」
母親は首を振った。
「石を拾ったところは聞いてないよ。私が嫁に来たときには、もう『あの人の石』で通ってたからね」
レオナはユアンの腰へ目をやった。
「トーマ、ずっと持ってたの?」
「ああ。手放さなかったよ」
母親がすぐに答えたので、レオナは顔を上げた。
「知ってるの?」
「知ってるよ。私がこの家に来たころ、まだ生きてたからね」
ユアンが振り返る。
「俺が生まれる前か。母さんも一緒に暮らしてたんだな」
「何年かね。奥の部屋にいたよ。あんたが生まれるずっと前だ」
レオナは母親を見た。
「会ったことあるの?」
「毎日顔を見てたよ」
レオナはしばらく何も言えなかった。
母親は卓を拭きながら続ける。
「もうずいぶん年寄りだったけどね。身体が思うように動かなくなっても、何でも自分でやりたがってさ。薪を割るなって言っても聞かないし、荷の縄も人が結ぶと必ず引っ張って確かめる」
レオナの口元が少し動いた。
「変わってない」
母親がちらりと顔を上げる。
「若いころからそうだったのかい」
「うん」
「へえ」
母親はまた卓へ目を戻した。
少しして、レオナが訊いた。
「右脚は、ずっと悪かった?」
布を動かしていた手が止まった。
母親が顔を上げる。
「……右脚?」
「うん」
「誰に聞いたんだい」
「誰にも」
母親はレオナを見た。
「じゃあ、どうして右だって知ってる」
「右脚を怪我してたから」
ユアンも縄から手を離していた。
母親はしばらく黙っていた。
「いつの話をしてるんだい」
戸の外から声が飛んだ。
「ユアン! まだか!」
ユアンが顔をしかめる。
「今行く!」
「さっきも聞いたぞ!」
「だったら一袋持ってけ!」
外から笑い声が返り、そのまま遠ざかっていった。
ユアンはため息をつき、縛り終えた袋を抱え上げる。
「仕事に行く。母さん、トーマのこと、もう少し話してやってくれ」
「何を話せっていうんだい」
「俺が覚えてないころのことも知ってるだろ」
そう言い残して外へ出ていった。
すぐに荷台へ袋を載せる音がして、そのあと縄を引く音が続いた。
娘は匙を集め終えると、籠を抱えて奥へ戻っていった。
母親は卓を拭き終え、水を一杯ついでレオナの前へ置いた。それから向かいの椅子へ腰を下ろす。
「それで」
「うん」
「どこでトーマに会ったんだい」
「ハル」
「いつ?」
「昨日」
母親は眉を上げた。
「昨日」
「うん」
「うちのトーマに?」
「昨日まで一緒にいた」
母親はレオナの顔を見たあと、少し息を漏らした。
「そりゃまた、ずいぶん昔に行ってきたもんだ」
レオナは何も言わない。
外ではユアンが荷を動かしている。木箱を置く音、縄の擦れる音、誰かと短く言葉を交わす声が、開いた戸から入ってきた。
「冗談じゃないのかい」
「違う」
「だったら、何なんだろうね」
母親は水の器をレオナの方へ少し押した。
「私が知ってるトーマは、髪なんてほとんど白かったよ」
レオナの中に浮かんだのは、荷車の横で喋り続けていた男だった。日に焼けた顔に、まだ濃い髪。
「白くなかった」
「そりゃ若ければね」
母親は笑った。
レオナも器へ手を伸ばす。けれど、そのまま水には触れなかった。
「石は?」
「石?」
「トーマが持ってた?」
「いつも身につけてたわけじゃないよ。普段はしまってた」
母親は腰のあたりを指した。
「遠くへ行くときは持ってたけどね。人に触らせるのを嫌がった」
「どうして?」
「さあ」
少し考える。
「一度だけ聞いたことがあるよ。私がこの家に来て、まだそんなに経ってなかったころ。光る石なら使えばいいのにって言ったんだ」
レオナは続きを待った。
「これは使うものじゃないって」
「それだけ?」
「自分が生きて帰れたから、ここにあるんだってさ」
レオナの手が、水の器の脇で止まった。
母親は戸口の向こうへ目をやる。
「それからは聞かなかったよ。年寄りが大事にしてるものを、無理に聞き出すこともないからね」
外でユアンが誰かと話している。石の数と荷車の空きを数えているらしく、いくつか数字が聞こえてきた。
母親がレオナへ視線を戻す。
「レオナって名前なら、トーマ本人から何度も聞いたよ。岩喰いが来た日の話でね」
「何度も?」
「ああ。毎回同じ話をするんだよ」
母親は少し笑った。
「細かいところは、そのたび違ったけどね」
「どんな話?」
「自分は逃げた。あの子は残った」
母親の指が卓をなぞる。
「そこだけは、いつも同じだった」
レオナは黙っている。
「右脚を怪我して、自分じゃ立てなくなった。バルドたちに運ばれて、荷車に上げられたって」
レオナが顔を上げた。
「バルド」
母親の指が止まる。
「何だって?」
「運んだ人の一人。背が高くて、髭があった」
「……その名前は聞いたことがあるよ」
母親はレオナを見た。
「ほかには?」
レオナは少し考えた。
「岩喰いが起き上がったとき、折れた柵が飛んだ」
母親の手が卓から離れた。
「右脚に当たった」
今度は、母親が何も言わなかった。
「荷車に上げられてから、トーマが私に『戻れ』って叫んだ」
「レオナ」
母親が呼んだ。
最初に名乗ったときとは違う声だった。
レオナは顔を上げる。
「トーマも言ってたよ。荷車の上から戻れって呼んだのに、あの子は残ったって」
レオナの掌がゆっくり閉じた。
母親はしばらくその顔を見ていた。
「……本当に、あんたなのかもしれないね」
レオナは答えなかった。
しばらくして、娘が籠を置いて奥から戻ってきた。母親のそばまで来ると、レオナを見上げる。
「お父さんのお守り、知ってるの?」
「うん」
「ほんとに守ってくれる?」
レオナは少し考えた。
「大事にしてたみたい」
「だれが?」
「トーマ」
娘は分かったような分からないような顔をして、それでも頷いた。
母親が笑う。
「この子にとっちゃ、もう大昔だよ」
戸口に影が差した。
「そろそろ出る」
ユアンだった。腰には守り石が下がっている。
「母さん、昼は向こうで食う」
「分かったよ」
娘が駆け寄る。
「お守り」
「持ってる」
「ちゃんと持って帰ってきてね」
「石を?」
「お父さんも」
ユアンは娘の頭を撫でた。
「分かった」
レオナも立ち上がる。
「山って、どっち?」
「北。採掘場まで荷を運ぶ」
レオナは戸口まで出た。
「サナの方?」
ユアンが振り返る。
「知ってるのか」
「サナの村、私の故郷」
母親がレオナを見る。
「山の手前で、川が二つに分かれるところ」
「ああ。そこなら通る」
レオナの肩から、少し力が抜けた。
「そうなんだ」
戸の外から北を見た。
「その辺まで、一緒に行っていい?」
ユアンは答えなかった。
レオナが振り返ると、母親も黙っている。
「どうしたの?」
ユアンは戸口で足を止めた。
「場所は分かる」
「うん」
「道もある」
レオナは続きを待った。
ユアンは腰の守り石を一度握った。
「でも、村ならもうないぞ」




