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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第二章

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第6話 昨日の人

 男は自分の腰を見た。革紐の先に、青黒い石が下がっている。


「これか?」


「うん」


 結び目をほどき、差し出してくる。


「ただのお守りだぞ」


 レオナは掌に載せた。


 石はひんやりと冷たく、表面には細かな亀裂が走っている。その奥に見える薄い青は、昨日ハルで見た石とよく似ていた。


 親指で表面をなぞる。


 強く魔力を使ったあとの感覚に似ていた。けれど、自分の身体ではなく、掌の石からそれが返ってくる。


 レオナは石を裏返した。


「昔から家にある」


 男が言った。


「拾った場所が気になるんだろ。俺が生まれるずっと前からある。なくすと母親に怒られる」


 石を返すと、男は慣れた手つきで腰へ結び直した。


「そんなに大事?」


「守り石だからな。うちの先祖を助けた人が残したものらしい」


 男は荷車の脇に置かれた袋を持ち上げ、荷台へ載せた。


「トーマっていう」


 レオナは、腰で揺れた石を見た。


 男が二つ目の袋へ手を伸ばしかけて止まる。


「さっきも、その名前を聞いてたな」


「知ってる」


「トーマを?」


「うん」


 男はしばらくレオナを見ていた。


「俺はユアン」


 それから戸口を顎で示す。


「まだ荷が残ってる。入るか」


 家の壁には、新しい白木と黒ずんだ古い柱が混じっていた。建て直すたび、使えるものは残してきたのだろう。


 戸をくぐると煮た豆の匂いがした。


 年配の女が卓の器を片づけている。壁際には、まだ外へ運び出していない袋や木箱がまとめて置かれていた。


「まだいたのかい」


「今出る」


「朝から聞いてるよ」


 ユアンは残っていた荷の前へしゃがみ、縄を掛け始めた。


「母さん。こっちはレオナ」


 女の手が止まる。


「レオナ?」


 一度だけ名前を繰り返した。


「トーマのことを知ってるって」


「誰が」


「この人」


 母親はレオナを見てから、空いている椅子を示した。


「座りな」


 それだけ言って、また器を重ね始める。


 奥から小さな女の子が出てきた。迷うことなくユアンのところまで歩いていき、腰の石へ手を伸ばす。


「今日も持ってくの?」


「今日は山だからな」


「貸して」


「帰ったら」


「昨日もそう言った」


「昨日は貸しただろ」


「ちょっとだけ」


 女の子は不満そうに石を見上げ、それからレオナに気づいた。


「だれ?」


「レオナ」


 ユアンが答える。


「ふうん」


 それだけで興味を失ったらしく、卓に残っていた木の匙を小さな籠へ集め始めた。


「ミラは?」


 母親が訊く。


「もう石置き場。今日は朝から選別だって」


「じゃあ、あんたより早く帰るね」


 ユアンは聞こえないふりをして縄を締めた。


 レオナは部屋を見回した。壁には大人の上着が何枚か掛かり、その端に小さな外套が混じっている。窓際には泥の乾いた籠と革手袋が置かれていた。


 母親は器を片づけ終えると、卓を布で拭き始めた。


「それで。うちのトーマを知ってるって?」


「うん」


「どこで?」


 答えるより先に、ユアンが口を挟んだ。


「母さん、岩喰いの話ってどこまで本当なんだ?」


「急に何だい」


「この石」


 ユアンが腰を叩く。


「昔、ハルに岩喰いが来た。そのときトーマがいて、旅人が一人残った。そうだろ」


「ああ」


 母親は手を動かしたまま答える。


「女の旅人だった」


「それでみんな逃げた」


「岩喰いも死んだ」


「旅人も」


 ユアンが続ける。


「身体が消えて、そこにあった石をトーマが拾った」


 母親は首を振った。


「石を拾ったところは聞いてないよ。私が嫁に来たときには、もう『あの人の石』で通ってたからね」


 レオナはユアンの腰へ目をやった。


「トーマ、ずっと持ってたの?」


「ああ。手放さなかったよ」


 母親がすぐに答えたので、レオナは顔を上げた。


「知ってるの?」


「知ってるよ。私がこの家に来たころ、まだ生きてたからね」


 ユアンが振り返る。


「俺が生まれる前か。母さんも一緒に暮らしてたんだな」


「何年かね。奥の部屋にいたよ。あんたが生まれるずっと前だ」


 レオナは母親を見た。


「会ったことあるの?」


「毎日顔を見てたよ」


 レオナはしばらく何も言えなかった。


 母親は卓を拭きながら続ける。


「もうずいぶん年寄りだったけどね。身体が思うように動かなくなっても、何でも自分でやりたがってさ。薪を割るなって言っても聞かないし、荷の縄も人が結ぶと必ず引っ張って確かめる」


 レオナの口元が少し動いた。


「変わってない」


 母親がちらりと顔を上げる。


「若いころからそうだったのかい」


「うん」


「へえ」


 母親はまた卓へ目を戻した。


 少しして、レオナが訊いた。


「右脚は、ずっと悪かった?」


 布を動かしていた手が止まった。


 母親が顔を上げる。


「……右脚?」


「うん」


「誰に聞いたんだい」


「誰にも」


 母親はレオナを見た。


「じゃあ、どうして右だって知ってる」


「右脚を怪我してたから」


 ユアンも縄から手を離していた。


 母親はしばらく黙っていた。


「いつの話をしてるんだい」


 戸の外から声が飛んだ。


「ユアン! まだか!」


 ユアンが顔をしかめる。


「今行く!」


「さっきも聞いたぞ!」


「だったら一袋持ってけ!」


 外から笑い声が返り、そのまま遠ざかっていった。


 ユアンはため息をつき、縛り終えた袋を抱え上げる。


「仕事に行く。母さん、トーマのこと、もう少し話してやってくれ」


「何を話せっていうんだい」


「俺が覚えてないころのことも知ってるだろ」


 そう言い残して外へ出ていった。


 すぐに荷台へ袋を載せる音がして、そのあと縄を引く音が続いた。


 娘は匙を集め終えると、籠を抱えて奥へ戻っていった。


 母親は卓を拭き終え、水を一杯ついでレオナの前へ置いた。それから向かいの椅子へ腰を下ろす。


「それで」


「うん」


「どこでトーマに会ったんだい」


「ハル」


「いつ?」


「昨日」


 母親は眉を上げた。


「昨日」


「うん」


「うちのトーマに?」


「昨日まで一緒にいた」


 母親はレオナの顔を見たあと、少し息を漏らした。


「そりゃまた、ずいぶん昔に行ってきたもんだ」


 レオナは何も言わない。


 外ではユアンが荷を動かしている。木箱を置く音、縄の擦れる音、誰かと短く言葉を交わす声が、開いた戸から入ってきた。


「冗談じゃないのかい」


「違う」


「だったら、何なんだろうね」


 母親は水の器をレオナの方へ少し押した。


「私が知ってるトーマは、髪なんてほとんど白かったよ」


 レオナの中に浮かんだのは、荷車の横で喋り続けていた男だった。日に焼けた顔に、まだ濃い髪。


「白くなかった」


「そりゃ若ければね」


 母親は笑った。


 レオナも器へ手を伸ばす。けれど、そのまま水には触れなかった。


「石は?」


「石?」


「トーマが持ってた?」


「いつも身につけてたわけじゃないよ。普段はしまってた」


 母親は腰のあたりを指した。


「遠くへ行くときは持ってたけどね。人に触らせるのを嫌がった」


「どうして?」


「さあ」


 少し考える。


「一度だけ聞いたことがあるよ。私がこの家に来て、まだそんなに経ってなかったころ。光る石なら使えばいいのにって言ったんだ」


 レオナは続きを待った。


「これは使うものじゃないって」


「それだけ?」


「自分が生きて帰れたから、ここにあるんだってさ」


 レオナの手が、水の器の脇で止まった。


 母親は戸口の向こうへ目をやる。


「それからは聞かなかったよ。年寄りが大事にしてるものを、無理に聞き出すこともないからね」


 外でユアンが誰かと話している。石の数と荷車の空きを数えているらしく、いくつか数字が聞こえてきた。


 母親がレオナへ視線を戻す。


「レオナって名前なら、トーマ本人から何度も聞いたよ。岩喰いが来た日の話でね」


「何度も?」


「ああ。毎回同じ話をするんだよ」


 母親は少し笑った。


「細かいところは、そのたび違ったけどね」


「どんな話?」


「自分は逃げた。あの子は残った」


 母親の指が卓をなぞる。


「そこだけは、いつも同じだった」


 レオナは黙っている。


「右脚を怪我して、自分じゃ立てなくなった。バルドたちに運ばれて、荷車に上げられたって」


 レオナが顔を上げた。


「バルド」


 母親の指が止まる。


「何だって?」


「運んだ人の一人。背が高くて、髭があった」


「……その名前は聞いたことがあるよ」


 母親はレオナを見た。


「ほかには?」


 レオナは少し考えた。


「岩喰いが起き上がったとき、折れた柵が飛んだ」


 母親の手が卓から離れた。


「右脚に当たった」


 今度は、母親が何も言わなかった。


「荷車に上げられてから、トーマが私に『戻れ』って叫んだ」


「レオナ」


 母親が呼んだ。


 最初に名乗ったときとは違う声だった。


 レオナは顔を上げる。


「トーマも言ってたよ。荷車の上から戻れって呼んだのに、あの子は残ったって」


 レオナの掌がゆっくり閉じた。


 母親はしばらくその顔を見ていた。


「……本当に、あんたなのかもしれないね」


 レオナは答えなかった。


 しばらくして、娘が籠を置いて奥から戻ってきた。母親のそばまで来ると、レオナを見上げる。


「お父さんのお守り、知ってるの?」


「うん」


「ほんとに守ってくれる?」


 レオナは少し考えた。


「大事にしてたみたい」


「だれが?」


「トーマ」


 娘は分かったような分からないような顔をして、それでも頷いた。


 母親が笑う。


「この子にとっちゃ、もう大昔だよ」


 戸口に影が差した。


「そろそろ出る」


 ユアンだった。腰には守り石が下がっている。


「母さん、昼は向こうで食う」


「分かったよ」


 娘が駆け寄る。


「お守り」


「持ってる」


「ちゃんと持って帰ってきてね」


「石を?」


「お父さんも」


 ユアンは娘の頭を撫でた。


「分かった」


 レオナも立ち上がる。


「山って、どっち?」


「北。採掘場まで荷を運ぶ」


 レオナは戸口まで出た。


「サナの方?」


 ユアンが振り返る。


「知ってるのか」


「サナの村、私の故郷」


 母親がレオナを見る。


「山の手前で、川が二つに分かれるところ」


「ああ。そこなら通る」


 レオナの肩から、少し力が抜けた。


「そうなんだ」


 戸の外から北を見た。


「その辺まで、一緒に行っていい?」


 ユアンは答えなかった。


 レオナが振り返ると、母親も黙っている。


「どうしたの?」


 ユアンは戸口で足を止めた。


「場所は分かる」


「うん」


「道もある」


 レオナは続きを待った。


 ユアンは腰の守り石を一度握った。


「でも、村ならもうないぞ」


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