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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第二章

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第5話 知らないハル

 広場の中央には、昨日と同じ平岩があった。片側が斜めに欠けている。


 その脇を、一頭の山羊が通っていく。紐を引いているのは、知らない少年だった。山羊が道端の草へ首を伸ばすと、少年は慣れた手つきで引き戻した。


「そっちじゃないって」


 山羊が低く鳴いた。少年は一度だけレオナを見たが、そのまま家々の間へ歩いていった。


 空はもう白み始めていた。


 道沿いの戸が開き、桶を抱えた女が出てきた。屋根のある広い場所では、二人の男が荷車の縄を締め直している。


「そっち持て」


「待て、まだ結べてない」


 木箱を下ろす音が響き、その向こうで馬が鼻を鳴らした。


 平岩の周りには家が並んでいた。


 木組みの壁に土を塗ったものもあれば、下の方を石で組んだものもある。二階が道へせり出し、向かいの軒と影を重ねている家もあった。昨日まで低い柵があった辺りにも、いくつもの屋根が続いていた。


 レオナは平岩へ近づき、手を置いた。


 ざらついた感触は変わらない。


 その向こうを、荷を積んだ荷車が通っていった。


 レオナは広場の外へ目をやった。


 岩喰いがいたのは、あちらだった。


 最後に見たとき、巨体の形はもう崩れていた。岩も肉も骨も散り、そのあと膝が落ちた。息を吸おうとしても空気が入らず、最後に吐いた息のあと、次は来なかった。


 通りかかった男へ声をかけた。


「ねえ。ここに来た岩喰いのこと、知ってる?」


 男は眉を寄せた。


「あっちから来たやつ。ハルの場まで来た」


「ああ。昔、ここで死んだやつか」


 レオナは男を見た。


「逃げてた人たちは?」


 男がレオナを見直した。


「西へ逃げてた。荷車が何台か残ってて、最後の方にトーマがいた。右脚を怪我してた。バルドも近くにいた」


 レオナは少し身を乗り出した。


「あの人たちは逃げられた?」


 男はしばらく答えなかった。


「……あんた、何でそんなこと知ってるんだ?」


「そこにいたから」


 男の目が細くなった。


「誰に昔話を教わったんだ?」


「誰にも」


 男はレオナの顔を見た。それから服へ目を落とし、何か言いかけてやめた。


「そんなに気になるなら、墓でも見たらどうだ。あの岩喰いが来たときに死んだ女のだよ。レオナって名前だったはずだ」


「……レオナ?」


 男は平岩の向こうを指した。


「そこにあるだろ」


 指された先に、大きな石が立っていた。


 目を覚ましたとき、すぐそばにあった石だった。


 レオナがもう一度そちらを見る間に、男は歩き出していた。


 墓標へ戻る。


 朝の光の中では、昨夜には見えなかった苔が、刻まれた文字の溝にまで入り込んでいた。


 レオナ。


 指を当て、ゆっくりなぞる。


 縁は丸くなっている。根元の小石はいくつも土へ沈み、低い草がその隙間から伸びていた。


 レオナは指を置いたまま、しばらく動かなかった。


 広場から笑い声が聞こえる。荷車が平岩の前を横切り、馬の蹄が固い道を叩いた。


 やがて手を離した。


 家の前で荷紐を束ねていた女へ歩み寄った。


「トーマって人、知らない? 岩喰いがここに来たときにいた人なんだけど」


 女は少し考えてから、通りの端を指した。


「昔の話なら、あっちの爺さんに聞いた方が早いんじゃない?」


 老人が、家の前で木箱を直していた。


 レオナはそちらへ向かった。


「ねえ。トーマって人を知らない?」


「どのトーマだ」


「岩喰いが来たときにいた人。右脚を怪我してた」


 老人は手を止めた。


 しばらく釘を持ったまま考え、やがて顔を上げる。


「ああ。東の家のトーマか」


「知ってるの?」


「若いころには、まだいたよ。もうずいぶん年寄りだったけどな」


 レオナは黙った。


「バルドって人は?」


 老人は首を振った。


「そっちは覚えがないな」


「トーマに会いたい」


 老人は手にしていた釘を木箱の上へ置いた。


「とっくに死んでるよ。俺が若いころの話だ」


 レオナは老人を見たまま動かなかった。


 老人も、その顔を見て少し黙った。


「今もあの家には子孫が住んでる。東の方だ。石屋を越えて、二つ目の角を曲がったところ。白い板を壁に立ててる家だ」


「ありがとう」


 レオナは教えられた道へ入った。


 広場から一本離れると、家々の間を細い道が続いていた。二階の軒が頭上へ張り出し、開け放たれた戸の奥から槌の音が聞こえる。向かいの窓では洗った布が風に揺れ、その下を大きな籠を背負った女が歩いていった。


 女の上着の肩には厚い皮が縫い当てられ、胸元には見慣れない形の金具がついていた。


 軒先では、男が板を削っていた。木の柄の先に灰色の刃が固定され、板の上を滑るたびに薄い木屑が落ちている。


 レオナは数歩通り過ぎてから戻った。


「それ、何?」


 男が手を止めた。


「削り殻だよ」


「何の殻?」


「岩喰い」


 レオナは道具を覗き込んだ。


「ここ、触っていい? 岩より硬いかな」


 男は柄の方を差し出した。


 受け取る。


 柄は長く使われているらしく、握るところだけ黒ずんでいた。先についた灰色の殻は手のひらに収まるほどで、薄い層が幾重にも重なっている。縁は何度も研がれたのか、ところどころ形が揃っていない。刃先には削った木の白い粉が残っていた。


 レオナは道具を傾けた。灰色の刃には、昨日、目の前まで迫ってきた巨大な背中と同じ層が重なっていた。


「これで木を削るの?」


「木も骨も。欠けたらまた研ぐ」


 男はそう言って手を出した。


 レオナはもう一度刃を見てから返した。


「ありがとう」


 男はすぐに作業へ戻り、板の表面を薄く削っていった。


 レオナは歩き出した。


 その先の店には、黒い角や爪、厚い皮が籠ごとに積まれていた。客が角を一本取り上げて先端を確かめ、その横を、鱗のような模様の皮を肩へ当てた男が通っていった。


 道の反対側では、二人の女が水桶を荷車へ載せていた。


 一人が桶の縁へ手を添えると、水面を揺らしながら桶が地面を滑った。もう一人が受け取り、そのまま荷台へ引き上げる。


「次」


「ちょっと待って」


 女は手首を振って笑った。


 その先では、子供が洗った布を竿へ掛けようとしていた。腕を伸ばしても届かず、何度か跳ねている。


「そこだけ上げて」


 家の中から声がした。


 子供は布の端へ指を向けた。


 ふわりと持ち上がり、竿へ掛かった。


「できた!」


「次もそこだけでいいよ」


 子供は嬉しそうに二枚目を手に取った。


 レオナは少しだけ笑って、その横を通った。


 やがて、道の先に石を積んだ一角が見えてきた。


 拳ほどのものから、人の頭ほどもあるものまで、籠や木箱に分けて置かれている。その中に、青黒い石もあった。


 レオナは歩みを緩めた。


 光のない石が入った籠の隣に、奥が淡く青白く見えるものがいくつか並んでいる。


 一人の女が腰の袋から青黒い石を取り出し、店の男へ差し出した。


「これ、少し足して」


 男は石を掌に載せ、指を添えた。しばらくすると、黒い表面の奥にあった青白い光がゆっくり濃くなっていく。


 レオナは足を止めた。


 男はそのまましばらく指を添えていたが、やがて手を離した。


「ほら」


 女は石を受け取り、そのまま腰の袋へ戻した。すぐ後ろから別の客が自分の石を差し出し、男はそちらへ手を伸ばす。


 レオナの視線は、一度女の腰の袋を追ってから、また男の手元へ戻った。


 男は次の石にも同じように指を添えた。


「買う?」


 声を掛けられて顔を上げた。


「ううん」


「じゃあ、そこ空けてくれる?」


 振り返ると、箱を抱えた二人が待っていた。


「あ、ごめん」


 道を空けると、二人は青黒い石の入った箱を地面へ下ろした。


 レオナはもう一度石屋を見てから歩き出した。


 少しして、足が止まった。


 石屋を越えて、二つ目の角。


 振り返ると、二つ目の角ももう後ろにあった。


「……行き過ぎた」


 戻って角を曲がった。


 先ほどまでの通りより静かだった。


 軒先で女が野菜の外葉を落とし、その向こうでは犬が日の当たり始めた地面へ身体を伸ばしている。小さな子供が犬の腹に頭を載せても、犬は片目を開けただけだった。


 どこかの家で鍋の蓋が鳴った。


 焼いた麦の匂いが流れてくる。


 少し先に、白っぽい板を壁へ立てかけた家があった。


 その前で、一人の若い男が荷を縄でまとめている。


「ねえ」


 男が顔を上げた。


「何?」


「トーマって人の家は、ここ?」


 男は少し考えた。


「うちの先祖に、トーマって人はいるけど」


 レオナが答えようとして、止まった。


 男の腰に、青黒い石が下がっていた。


 一歩近づく。


 男が眉を寄せる。


「どうした?」


 レオナは答えず、石を見た。


 身体の奥に、かすかな感覚が引っかかった。


 強く魔力を使ったあとに残るものと、どこか似ている。


 レオナは目を細めた。


「その石、少し見せて」


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