第5話 知らないハル
広場の中央には、昨日と同じ平岩があった。片側が斜めに欠けている。
その脇を、一頭の山羊が通っていく。紐を引いているのは、知らない少年だった。山羊が道端の草へ首を伸ばすと、少年は慣れた手つきで引き戻した。
「そっちじゃないって」
山羊が低く鳴いた。少年は一度だけレオナを見たが、そのまま家々の間へ歩いていった。
空はもう白み始めていた。
道沿いの戸が開き、桶を抱えた女が出てきた。屋根のある広い場所では、二人の男が荷車の縄を締め直している。
「そっち持て」
「待て、まだ結べてない」
木箱を下ろす音が響き、その向こうで馬が鼻を鳴らした。
平岩の周りには家が並んでいた。
木組みの壁に土を塗ったものもあれば、下の方を石で組んだものもある。二階が道へせり出し、向かいの軒と影を重ねている家もあった。昨日まで低い柵があった辺りにも、いくつもの屋根が続いていた。
レオナは平岩へ近づき、手を置いた。
ざらついた感触は変わらない。
その向こうを、荷を積んだ荷車が通っていった。
レオナは広場の外へ目をやった。
岩喰いがいたのは、あちらだった。
最後に見たとき、巨体の形はもう崩れていた。岩も肉も骨も散り、そのあと膝が落ちた。息を吸おうとしても空気が入らず、最後に吐いた息のあと、次は来なかった。
通りかかった男へ声をかけた。
「ねえ。ここに来た岩喰いのこと、知ってる?」
男は眉を寄せた。
「あっちから来たやつ。ハルの場まで来た」
「ああ。昔、ここで死んだやつか」
レオナは男を見た。
「逃げてた人たちは?」
男がレオナを見直した。
「西へ逃げてた。荷車が何台か残ってて、最後の方にトーマがいた。右脚を怪我してた。バルドも近くにいた」
レオナは少し身を乗り出した。
「あの人たちは逃げられた?」
男はしばらく答えなかった。
「……あんた、何でそんなこと知ってるんだ?」
「そこにいたから」
男の目が細くなった。
「誰に昔話を教わったんだ?」
「誰にも」
男はレオナの顔を見た。それから服へ目を落とし、何か言いかけてやめた。
「そんなに気になるなら、墓でも見たらどうだ。あの岩喰いが来たときに死んだ女のだよ。レオナって名前だったはずだ」
「……レオナ?」
男は平岩の向こうを指した。
「そこにあるだろ」
指された先に、大きな石が立っていた。
目を覚ましたとき、すぐそばにあった石だった。
レオナがもう一度そちらを見る間に、男は歩き出していた。
墓標へ戻る。
朝の光の中では、昨夜には見えなかった苔が、刻まれた文字の溝にまで入り込んでいた。
レオナ。
指を当て、ゆっくりなぞる。
縁は丸くなっている。根元の小石はいくつも土へ沈み、低い草がその隙間から伸びていた。
レオナは指を置いたまま、しばらく動かなかった。
広場から笑い声が聞こえる。荷車が平岩の前を横切り、馬の蹄が固い道を叩いた。
やがて手を離した。
家の前で荷紐を束ねていた女へ歩み寄った。
「トーマって人、知らない? 岩喰いがここに来たときにいた人なんだけど」
女は少し考えてから、通りの端を指した。
「昔の話なら、あっちの爺さんに聞いた方が早いんじゃない?」
老人が、家の前で木箱を直していた。
レオナはそちらへ向かった。
「ねえ。トーマって人を知らない?」
「どのトーマだ」
「岩喰いが来たときにいた人。右脚を怪我してた」
老人は手を止めた。
しばらく釘を持ったまま考え、やがて顔を上げる。
「ああ。東の家のトーマか」
「知ってるの?」
「若いころには、まだいたよ。もうずいぶん年寄りだったけどな」
レオナは黙った。
「バルドって人は?」
老人は首を振った。
「そっちは覚えがないな」
「トーマに会いたい」
老人は手にしていた釘を木箱の上へ置いた。
「とっくに死んでるよ。俺が若いころの話だ」
レオナは老人を見たまま動かなかった。
老人も、その顔を見て少し黙った。
「今もあの家には子孫が住んでる。東の方だ。石屋を越えて、二つ目の角を曲がったところ。白い板を壁に立ててる家だ」
「ありがとう」
レオナは教えられた道へ入った。
広場から一本離れると、家々の間を細い道が続いていた。二階の軒が頭上へ張り出し、開け放たれた戸の奥から槌の音が聞こえる。向かいの窓では洗った布が風に揺れ、その下を大きな籠を背負った女が歩いていった。
女の上着の肩には厚い皮が縫い当てられ、胸元には見慣れない形の金具がついていた。
軒先では、男が板を削っていた。木の柄の先に灰色の刃が固定され、板の上を滑るたびに薄い木屑が落ちている。
レオナは数歩通り過ぎてから戻った。
「それ、何?」
男が手を止めた。
「削り殻だよ」
「何の殻?」
「岩喰い」
レオナは道具を覗き込んだ。
「ここ、触っていい? 岩より硬いかな」
男は柄の方を差し出した。
受け取る。
柄は長く使われているらしく、握るところだけ黒ずんでいた。先についた灰色の殻は手のひらに収まるほどで、薄い層が幾重にも重なっている。縁は何度も研がれたのか、ところどころ形が揃っていない。刃先には削った木の白い粉が残っていた。
レオナは道具を傾けた。灰色の刃には、昨日、目の前まで迫ってきた巨大な背中と同じ層が重なっていた。
「これで木を削るの?」
「木も骨も。欠けたらまた研ぐ」
男はそう言って手を出した。
レオナはもう一度刃を見てから返した。
「ありがとう」
男はすぐに作業へ戻り、板の表面を薄く削っていった。
レオナは歩き出した。
その先の店には、黒い角や爪、厚い皮が籠ごとに積まれていた。客が角を一本取り上げて先端を確かめ、その横を、鱗のような模様の皮を肩へ当てた男が通っていった。
道の反対側では、二人の女が水桶を荷車へ載せていた。
一人が桶の縁へ手を添えると、水面を揺らしながら桶が地面を滑った。もう一人が受け取り、そのまま荷台へ引き上げる。
「次」
「ちょっと待って」
女は手首を振って笑った。
その先では、子供が洗った布を竿へ掛けようとしていた。腕を伸ばしても届かず、何度か跳ねている。
「そこだけ上げて」
家の中から声がした。
子供は布の端へ指を向けた。
ふわりと持ち上がり、竿へ掛かった。
「できた!」
「次もそこだけでいいよ」
子供は嬉しそうに二枚目を手に取った。
レオナは少しだけ笑って、その横を通った。
やがて、道の先に石を積んだ一角が見えてきた。
拳ほどのものから、人の頭ほどもあるものまで、籠や木箱に分けて置かれている。その中に、青黒い石もあった。
レオナは歩みを緩めた。
光のない石が入った籠の隣に、奥が淡く青白く見えるものがいくつか並んでいる。
一人の女が腰の袋から青黒い石を取り出し、店の男へ差し出した。
「これ、少し足して」
男は石を掌に載せ、指を添えた。しばらくすると、黒い表面の奥にあった青白い光がゆっくり濃くなっていく。
レオナは足を止めた。
男はそのまましばらく指を添えていたが、やがて手を離した。
「ほら」
女は石を受け取り、そのまま腰の袋へ戻した。すぐ後ろから別の客が自分の石を差し出し、男はそちらへ手を伸ばす。
レオナの視線は、一度女の腰の袋を追ってから、また男の手元へ戻った。
男は次の石にも同じように指を添えた。
「買う?」
声を掛けられて顔を上げた。
「ううん」
「じゃあ、そこ空けてくれる?」
振り返ると、箱を抱えた二人が待っていた。
「あ、ごめん」
道を空けると、二人は青黒い石の入った箱を地面へ下ろした。
レオナはもう一度石屋を見てから歩き出した。
少しして、足が止まった。
石屋を越えて、二つ目の角。
振り返ると、二つ目の角ももう後ろにあった。
「……行き過ぎた」
戻って角を曲がった。
先ほどまでの通りより静かだった。
軒先で女が野菜の外葉を落とし、その向こうでは犬が日の当たり始めた地面へ身体を伸ばしている。小さな子供が犬の腹に頭を載せても、犬は片目を開けただけだった。
どこかの家で鍋の蓋が鳴った。
焼いた麦の匂いが流れてくる。
少し先に、白っぽい板を壁へ立てかけた家があった。
その前で、一人の若い男が荷を縄でまとめている。
「ねえ」
男が顔を上げた。
「何?」
「トーマって人の家は、ここ?」
男は少し考えた。
「うちの先祖に、トーマって人はいるけど」
レオナが答えようとして、止まった。
男の腰に、青黒い石が下がっていた。
一歩近づく。
男が眉を寄せる。
「どうした?」
レオナは答えず、石を見た。
身体の奥に、かすかな感覚が引っかかった。
強く魔力を使ったあとに残るものと、どこか似ている。
レオナは目を細めた。
「その石、少し見せて」




