第4話 残されたもの
バルドは、レオナが消えた場所に立っていた。
人ひとりが横たわっていた形に草が倒れている。
血も、服も、何も残っていない。
少し離れた荷車では、トーマが右脚を伸ばしたまま座っていた。添え木を当てられ、布がきつく巻かれている。
「……本当に、何もないのか」
「ない」
トーマは倒れた草を見たまま黙っていた。
遠くには岩喰いだったものが散っている。赤黒い塊の間に、白い骨と、岩のような殻がいくつも転がっていた。
「俺、二回も助けられたな」
「ああ」
「なのに、あいつのこと、ほとんど何も知らない」
バルドが振り返った。
トーマは自分の右脚へ目を落とした。
「山の手前の村から来たって、それしか聞いてない。村の名前も、帰りを待ってる人のことも」
「昨日会ったばかりだからな」
「うん」
少し間があった。
「昨日は、それでよかったんだけどな」
トーマはまた、倒れた草を見た。
「今日もいると思ってたから」
バルドは答えなかった。
昨日の朝に道で会い、一緒に歩いて、同じ鍋を食べた。それだけの付き合いだった。
その女が岩喰いを止め、自分たちを逃がし、死んだ。
そして、死体まで消えた。
バルドはしばらく草の上を見ていた。
「……何だったんだ、あいつ」
トーマは少し考えた。
「分からない」
朝の光が、少しずつ草原を照らしていった。
***
日が高くなるころ、西へ逃げていた人々が、少しずつハルの場へ戻り始めた。
最初に戻った者たちは、死骸へ近づかなかった。
置いてきた荷を拾い、散った麦を袋へ戻し、倒れた柵を起こす。その間も、何度も岩喰いの方を見る。
岩喰いは動かない。
昼近くになって、長い棒を持った男が一人、死骸へ歩いていった。
肉の塊から数歩離れたところで止まり、棒を伸ばす。
突く。
反応はない。
もう一度。
「……死んでるぞ」
男はしばらく待った。
何も起きない。
さらに一歩近づき、今度は殻を叩いた。
硬い音が響いた。
離れて見ていた一人が近づいた。
男の横まで来て、殻を足先で軽く押す。
やはり動かない。
そのあとから、もう一人が来た。
近くで見る岩喰いは、生きていたとき以上に奇妙だった。
背を覆っていたものは岩そのものに見えたが、割れた断面には薄い層が何重にも重なっている。大きなものは、人が両腕を広げても足りない。
その間から白い骨が露出していた。
一本だけでも、人の腕よりはるかに太い。
男が斧を持ってきた。
「これ、持って帰れないか」
骨へ刃を当てて振り下ろす。
硬い音がした。
白い傷がついただけだった。
もう一度。
男は斧を見て顔をしかめた。
「刃が欠けた」
隣にいた女が笑った。
「骨に負けたのか」
「お前の斧を貸せ」
「嫌だよ」
別の場所では、二人が殻へ石を打ちつけていた。
何度叩いても、表面が少し欠けるだけだった。
「こんなの、どうやって割るんだ」
足元には、すでに砕けた破片がいくつも落ちていた。
一人がその中から、手のひらほどのものを拾った。
厚い部分と、薄く尖った縁がある。
男はその縁を指でなぞり、そのまま大きな殻へ擦りつけた。
ざり、と音がした。
手が止まった。
もう一度擦る。
灰色の表面に白い筋が残った。
「……削れた」
近くにいた者が覗き込んだ。
男は何度か破片を往復させた。
細い溝ができる。
今度は骨へ当てた。
ざり、と白い粉が落ちた。
「貸せ」
別の男が受け取り、折れた柵材へ押し当てる。
木の表面が薄く削れた。
「こっちにもあるぞ」
誰かが別の破片を拾った。
それを見て、周囲の者も散った殻を探し始めた。薄く尖ったものや、手に収まりやすい破片から拾われていく。
「それ、どうする」
「持って帰って試す」
「こっちの方が薄いぞ」
大きな骨を動かそうとしていた二人は諦め、折れた先端だけを荷車へ積んだ。
別の者は細い骨を拾った。
その横では、殻の破片で殻へ溝を入れていた男が、削れたところを指で確かめている。
昼を過ぎるころには、岩喰いの周囲を歩き回る者の方が多くなっていた。
骨を動かそうとしていた男が、肉の間に青いものを見つけた。
「おい」
手を入れて引き出す。
石だった。
黒に近い表面のところどころに青みがあり、その奥で淡い光が揺れている。
「これ」
誰かが言った。
「昨日の石じゃないか」
ハルの場で石を扱っていた女が寄ってきた。
男から受け取り、しばらく眺める。
「似てる」
その近くから、もう一つ見つかった。
さらに一つ。
肉の間や砕けた殻の下から、大小さまざまな青黒い石が出てきた。
どれも弱く光っている。
「こんなのが腹に入ってたのか」
「昨日のやつも、これを食おうとしてたのかもな」
「知らないよ」
女は一つを手に取った。
「これ、貰うよ」
「何に使う」
「まだ知らない」
女は自分の荷の中へ石を入れた。
それを見ていた男も一つ拾った。
少し離れたところでは、別の者が二つを並べ、光り方を見比べている。
やがて、見えていた青黒い石はほとんどなくなった。
***
日が傾き、草原に影が伸び始めたころ、トーマは荷車の縁に腰を掛けていた。
昼の間、岩喰いの周囲には人が絶えなかった。殻や骨を拾う者たちの声も、少しずつ減っている。
トーマはその向こうを見ていた。
レオナが消えた場所だった。
やがて、草の間で青白いものが淡く光った。
トーマが目を細める。
「……バルド」
荷をまとめていたバルドが顔を上げた。
「何だ」
「あそこ、光ってる」
トーマが指した。
「どこだ」
「レオナがいたところ」
バルドは目を凝らした。
明るいうちは草や土に紛れて見えなかったのだろう。暗くなり始めた今は、小さな光だけが浮いて見えた。
トーマは立とうとしたが、右脚へ力を入れたところで顔をしかめた。
バルドがそれを見る。
「いい。俺が行く」
倒れた草のところまで歩く。
近づくと、草の根元に青黒い石が半ば埋もれていた。
拾い上げる。
岩喰いの中から見つかったものとよく似ていた。
バルドは掌の上で一度転がし、そのまま荷車へ戻った。
「これだ」
トーマは手を伸ばした。
受け取った石を掌へ載せる。
淡い青白い光が、指の間から漏れていた。
「岩喰いの中にあったやつと同じかな」
「たぶんな」
バルドは石を顎で示した。
「お前が見つけたんだ。持ってろ」
トーマはもう一度、石を見た。
しばらくして、布で包む。
「……じゃあ、そうする」
自分の荷の奥へしまった。
バルドは何も言わなかった。
トーマの視線は、またレオナが消えた場所へ戻っていた。
その日のうちに、何人かがレオナの消えた場所へ石を運んだ。
平たい石を一枚立て、その根元へ小さな石を積んだ。
埋めるものはなかった。
トーマは昼に持ち帰られた殻の破片を一つ手に取った。
立てた石へ、その尖った縁を当てる。
何度も擦る。
少しずつ線が刻まれていった。
バルドが横から見ていた。
「何て書く」
「レオナ」
「それだけか」
トーマはしばらく黙った。
「……それしか知らない」
「そうだったな」
殻がまた動いた。
やがて、石の表面に名前が残った。
レオナ。
それだけだった。
***
現在のハル旧市域からは、交易地として利用されていた時代の遺構が複数確認されており、その中でも特徴的なのが、巨大生物「岩喰い」に由来する殻片と骨である。古い層から見つかる殻片の多くは加工されていない不定形のままだが、一部には木材や骨材を繰り返し削った痕跡が残る。後の層では、縁を意図的に整えたものや木の柄に固定したとみられるものが現れ、交易記録にも「岩喰いの殻」「白い骨」といった単純な記載に加えて、「削り殻」「細骨」など形や用途を区別した表現が見られるようになる。さらに後には、殻や骨が束や荷車単位で記録されており、岩喰い由来の素材が継続して流通していたことが確認できる。
同じ時期の文書には、「青い石」「光る石」と呼ばれる青黒い鉱物についての記録も現れる。後には「灯石」「宿り石」「岩喰い石」など地域ごとに異なる呼称が使われているが、魔力を与えた後も光が残ったとする記述や、出土した鉱物の性質から、これらは現在でいう魔石であったと推察されている。初期には珍しい石としてそのまま運ばれたとみられるものが多いが、後の遺構ほど出土範囲が広がり、意図的に魔力を蓄えさせて使用した痕跡を持つものも増えている。
岩喰いに関する文書も、時代が下るにつれて内容を変えている。古い記録では、出現を知って道を変えたことや、荷を捨てて逃れたことが多い。だが後の記録には、殻や骨を求めて岩喰いを追ったことや、複数の集落から人を集めて待ち受けた例が現れる。さらに時代が下ると、参加した人数や用いた道具、持ち帰った素材の量まで記録されるようになった。
ハルそのものについても、初期の文書では「ハルの場」「ハルで会う」「ハルへ荷を持っていく」といった記載が多く、複数の交易路が交わる場所として利用されていたことがうかがえるが、後には「ハルに住む者」「ハルの家」「ハルで冬を越す」といった表現が増え、発掘された建物跡もこれに対応して拡大している。さらに時代が下ると名称から「場」が失われ、文書上でも単に「ハル」と記されるようになる。建物や道路の位置はその後大きく変化しているが、最初期の記録にも記載される片側の斜めに欠けた平岩は、現在までほぼ同じ位置に残されている。
***
空はまだ暗かった。
草の間に、淡い白い光が滲んだ。
誰も見ていなかった。
光はゆっくりと広がり、何もなかった地面に人の輪郭が現れていく。
やがて光が薄れた。
一人の女が横たわっていた。
しばらく動かなかった。
胸が大きく動く。
「――っ」
レオナが息を吸った。
身体を折るようにして咳き込む。
もう一度、息を吸う。
空気が入った。
最後に息を吐いて、その次が来なかった。
そこまでは覚えている。
「……死んだ」
なのに、胸は動いていた。
レオナはゆっくり身体を起こした。
傷はない。
血もない。
身につけている服も、昨日までと同じだった。
右腕を動かしても、胸にも肩にも痛みはなかった。
何が起きたのか分からない。
顔を上げる。
すぐ近くに、大きな石が立っていた。
見覚えはない。
表面に文字が刻まれている。
レオナは立ち上がり、近づいた。
レオナ。
自分の名前だった。
指で文字をなぞった。
硬い石の感触が指先に残った。
レオナは手を離し、振り返った。
建物があった。
一軒や二軒ではない。
道の両側に並び、その向こうにも屋根が続いている。
石を使った壁。
大きな家。
知らない形の窓。
遠くには灯りがあり、人の声がする。荷車が走る音も聞こえた。
どれにも見覚えがない。
レオナは立石から離れ、道へ出た。
少し先に広場が見えた。
その中央に、大きな平たい岩がある。
片側が斜めに欠けていた。
足が止まった。
知っている。
荷が置かれ、人が腰掛け、その横を山羊を引いた子供が通っていた。
昨日見たばかりの岩だった。
レオナは周囲の建物を見る。
もう一度、平たい岩を見る。
「……ここ、ハルの場なの?」




