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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第一章

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第3話 最後尾

 先に行けと言ったはずのトーマたちが、まだ後ろに残っていた。


 押す。


 巨体の頭がわずかに持ち上がった。


 それでも前脚は地面へ降りた。次の脚を持ち上げるまでが少し長くなっただけで、岩喰いは変わらずこちらへ進んでくる。


 レオナは力を強めた。


 右腕の奥が重くなる。


 これ以上の力は、普段なら使わない。


「止まらない!」


 後ろからトーマの声が飛んだ。


「分かってる!」


 バルドが道の脇へ走った。


 何台もの荷車が通った跡に深い轍が残り、その先には雨で削られたらしい窪みがある。


「ここ、崩せ!」


 鍬を持った男が土を掻いた。ほかの者も板や木切れを手に取り、窪みの柔らかい縁を崩していく。


 窪みそのものは大きくない。荷車の車輪が二つほど入る程度の幅しかなかったが、縁は柔らかく、踏めばさらに崩れそうだった。


「そっちも寄せろ!」


 窪みの反対側には、折れた柵材や薪が積まれた。


 岩喰いが近づく。


「離れろ!」


 作業していた人々が散った。


 バルドが窪みを指す。


「レオナ、こっちへ!」


 レオナは岩喰いの右肩を横から押した。


 巨体の頭がわずかに流れる。


 前へ出した脚も、そちらへずれた。


 額に汗が浮く。


 岩喰いは薪を踏み砕いた。


 もう一歩。


 レオナはさらに肩を押す。


 前脚が窪みの縁へ乗った。


 土が崩れた。


 脚が落ちる。


 巨体が大きく傾いた。


「入った!」


 岩喰いが脚を引き抜こうとする。


 レオナは反対側の肩を押した。


 戻りかけた身体が、また傾く。


 背を覆う岩が擦れ合った。


 傾いた胴が地面へ触れた。


「倒れるぞ!」


 右腕に鈍い痛みが走った。


 レオナは歯を食いしばる。


 岩喰いの後脚が滑った。


 巨体がゆっくり傾いていく。


 戻らない。


 そのまま地面へ倒れ込んだ。


 背中の岩が叩きつけられ、腹の底まで響く音がした。土が跳ね、近くの薪や箱が転がった。


「倒れた!」


 岩喰いは横たわったままだった。


 地響きの余韻が、しばらく足の裏に残った。


 太い脚が一度、土を掻く。


 それでも巨体は起き上がらない。


 レオナは右手を下ろした。


 腕が震えていた。


「レオナ」


 トーマが顔を覗き込む。


「大丈夫か?」


「うん」


「顔、真っ白だぞ」


 レオナは額を拭った。


 バルドはもう西を見ていた。


「今だ! 出せ!」


 馬が引かれ、荷車が次々に西へ向かう。


 人と荷車の流れが戻った。


 レオナが一度、息を吸った。


 地面が揺れた。


 横倒しになっていた岩喰いが前脚を土へ突き立て、背中の岩で地面を削りながら巨体を起こした。


「下がれ!」


 人々が散る。


 岩喰いが身体を振った。砕けた柵材や土が周囲へ飛び、その一本がトーマの右腿を打った。


「トーマ!」


 脚を払われるように倒れる。


 トーマは上体を起こし、右脚へ力を入れた。


 顔が歪んだ。


 立てない。


 岩喰いが西へ向きを変えた。


 その先では、荷車が逃げている。


 前脚が上がった。


 まだトーマがいる。


 レオナは岩喰いの肩を横から押した。


 右腕に鋭い痛みが走る。


 巨体がわずかに流れ、前脚がトーマの脇へ落ちた。地面が沈み、土が跳ね上がる。


「早く!」


 バルドともう一人が飛び込んだ。


 トーマの両脇へ腕を入れる。


「立てるか!」


「無理!」


「運ぶぞ!」


 二人が引きずる。


 岩喰いがまた西へ向こうとした。


 レオナは首の付け根を押した。


 頭が流れ、次の脚が別の場所へ出る。


 胸の奥が痛んだ。


 息が深く入らない。


「今だ!」


 バルドたちがトーマを荷車まで運ぶ。


「上げろ!」


 何本もの腕が伸び、トーマを荷台へ引き上げた。


 レオナはようやく右手を下ろした。


 力を抜くと、腕が重く垂れた。


「レオナ、来い!」


 バルドが呼んだ。


 レオナは岩喰いへ背を向けた。


 二歩進んだところで、後ろから重い足音がした。


 振り返る。


 岩喰いはもう西へ向かって歩いていた。


 レオナは右手を上げた。


 押す。


 歩みが遅くなる。


 それだけだった。


「レオナ!」


 荷車の上からトーマが叫ぶ。


「戻れ!」


 西へ逃げる荷車は、もう小さく見えた。


「もう少し下がって」


「お前も来るんだぞ」


「うん」


 岩喰いが一歩進んだ。


 レオナの顔が歪む。


「だから、もう少し」


 バルドはしばらくレオナを見ていた。


「お願い」


 バルドが荷車へ手を上げた。


「下げろ!」


 馬が動いた。


 バルドたちも距離を取る。


 レオナは岩喰いへ向き直った。


 遅くなってはいる。


 それでも、止まらない。


 右手が震えていた。深く息を吸うと、胸が痛む。


 口の中には、いつの間にか鉄の味がしていた。


 ここから先は、使ったことがない。


 後ろを見る。


 バルドたちはまだ見える。


 その向こうで、逃げていく荷車がさらに小さくなっていた。


「もっと離れて!」


 荷車がまた下がる。


 トーマが何か叫んでいる。


 もう言葉までは聞こえなかった。


 レオナは前を向いた。


 さらに力を強めた。


 岩喰いの歩みが、ようやく止まる。


 その瞬間、レオナの肩の奥で何かが切れた。


 身体が揺れる。


 それでも力を緩めない。


 さらに出す。


 胸の内側で何かが潰れた。


 血の味が濃くなる。


 息が入らない。


 それでも、まだ出る。


 こんなに出るんだ。


 それなら。


 全部。


 視界が白く潰れた。


 ほとんど同時に、腹の底まで震わせる轟音が響いた。草が一斉に伏せ、土が高く巻き上がる。岩喰いのいた場所は、一瞬で何も見えなくなった。


 土煙の中から岩片が落ちた。


 遅れて、赤黒い塊が地面を叩く。


 煙が流れていく。


 そこに、もう巨体の形はなかった。


 岩も肉も骨も、広い範囲へ散っていた。中には、大きな塊のまま残ったものもある。


「レオナ!」


 遠くからトーマの声がした。


 レオナは手を下ろそうとした。


 動かなかった。


 膝が落ちる。


 口から血がこぼれた。


 息を吸おうとする。


 入らない。


 もう一度。


 駄目だった。


 左手を地面につく。


 遠くでバルドたちが走り出した。


 胸の奥で、大きく一度、鼓動が鳴った。


 間があった。


 次は弱い。


 死ぬんだ。


 そう分かった。


 まだ、行ったことのない場所があった。


 昼間の青い石が何だったのかも、結局分からなかった。


 少し、残念だった。


 レオナは息を吐いた。


 次の息は来なかった。


 胸の鼓動も止まった。


 支えていた左腕から力が抜け、レオナは地面へ倒れた。


 レオナは死んだ。


***


「レオナ!」


 バルドたちは走っていた。


 トーマも荷車から降りようとしたが、右脚をつけず、その場に崩れた。


「俺も行く!」


「待ってろ!」


 トーマは荷台の縁を掴んだまま、レオナを見ていた。


 レオナの指先が淡く白んだ。


「……何だ?」


 輪郭が薄れていく。


 指先から手へ。


 腕へ。


 光っているというより、そこにあったものが淡い光に変わり、そのまま失われていった。


「レオナ!」


 バルドたちも気づいた。


 身体の輪郭が少しずつ欠けていく。服も、その下の身体と一緒に消えていった。


 やがて、胸元の血まで白く滲み始めた。草へ落ちていた赤い染みも薄れていく。


 バルドがたどり着くころには、残っていたのは顔と胸の一部だけだった。


「レオナ!」


 淡い光が広がった。


 消えた。


 地面に残っていた血も、最後には跡を失った。


 バルドが足を止めた。


 人ひとりが横たわっていた形に、草だけが倒れていた。


「……消えたのか」


 少し離れた荷車から、トーマの声がした。


 バルドは答えなかった。


 風が吹いた。


 倒れた草が、わずかに揺れた。


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