第2話 青い石
もう一度、木の折れる音がした。
今度は、近かった。
誰も動かなかった。
柵の内側では、馬だけが落ち着きなく首を振っていた。短く張った綱が軋み、蹄が乾いた地面を何度も掻く。さっきまで吠えていた犬は腹を地面につけ、暗闇へ鼻先を向けたまま低く唸っている。
その向こうには何も見えない。
焚き火の明かりは、荷車と低い柵を照らすところで途切れていた。明かりの端では乾いた草の穂だけが風に揺れ、その先には黒い草原が続いている。丘も、夜空との境目がかろうじて分かるだけだった。
見張りの男が松明を掲げた。
火が照らしたのは、少し先の地面と低い草だけだった。
さらに向こうで、細い枝がいくつも裂けた。続いて、もっと太いものが押し倒されるような、低く長い音がする。
音が途切れる。
少し遅れて、足の裏を揺れが通り過ぎた。
熾火のそばの木椀が、小さく鳴った。
レオナは柵の外を見た。
丘の端で何かが動いた。
最初は、風で木が揺れたのだと思った。
違った。
一本の木が、ゆっくり横へ傾いていく。根元から押され、そのまま地面へ倒れた。
その後ろから、それまで丘の一部にしか見えなかった黒い塊がせり上がる。
背中だった。
土と岩を貼りつけたような背が、木々の向こうをゆっくり動いていた。
太い脚が地面へ落ちる。
揺れが来た。
そのまま進路上の岩へ頭らしい部分がぶつかった。
鈍い音が響く。
岩に亀裂が走った。
巨体は止まらない。
さらに押し込む。
岩が割れた。
昼間、壊れた荷車のそばにいた男が息を呑んだ。
「岩喰いだ」
ハルの場が弾けた。
「馬を出せ!」
「西だ!」
「荷は捨てろ!」
人が走り、馬が嘶き、眠っていた子供が泣き出した。
荷車の間に残っていた焚き火を誰かが飛び越え、鍋が蹴られて地面を転がる。毛布の上に置かれていた椀が踏まれ、まだ火の残る薪が土の上へ散った。大屋根の下からも人が飛び出し、柵に繋がれていた山羊が甲高く鳴きながら引かれていった。
さっきまで人が寝ていた荷車の間を、今は馬と人が同じ出口へ押し合うように進んでいた。
西側の出口へ何台もの荷車が押し寄せた。
前の一台がつかえる。
「どけ!」
「動かない!」
「柵を壊せ!」
男たちが横木へ取りついた。
その脇を、綱の切れた馬が駆け抜ける。
「レオナ!」
振り向くと、トーマが三台目の荷車を指していた。片側の車輪が土へ沈み、馬が身体を前へ倒しても動いていない。
「押せるか!」
レオナは荷車の後ろへ手を向けた。
馬が引くのに合わせて押す。
沈んでいた車輪が土を跳ね上げ、窪みを越えた。
「行け!」
荷車が西へ走り出した。
レオナも続こうとしたところで、地面が大きく揺れた。
岩喰いは、もう柵の近くまで来ている。
西へ向かう人の流れから外れ、岩喰いは柵の南側に残った一台の荷車へまっすぐ進んでいた。
「なんでこっちなんだ!」
馬を引いていた女が叫んだ。
昼間、石を並べていた女だった。
馬が横へ跳ねる。
荷車が曲がった。
岩喰いも曲がる。
女が綱を引き戻す。
荷車の向きが変わる。
岩喰いも、また変わった。
馬がとうとう暴れ、女の手から綱が抜ける。
荷車の片輪が木箱へ乗り上げ、大きく傾いた。荷台から箱が落ち、その一つが地面へぶつかって蓋を開く。
石が散った。
灰色。
赤茶色。
黒。
その中に、割れ目の奥だけが青く見える石があった。
昼間に見たものだった。
岩喰いが向きを変えた。
荷車ではない。
地面の青い石へ向かっている。
「……あれか」
レオナは石へ手を向けた。
強く押す。
石が地面を跳ね、人のいない南側の草地へ飛んだ。
岩喰いが止まった。
大きな頭が、石の飛んだ先へ向く。
そのまま進路を変えた。
一歩。
もう一歩。
人々から離れていく。
少し離れたところで岩喰いが頭を下げた。
硬いものが砕ける音がした。
地面の揺れが弱くなる。
馬が一歩下がり、張りつめていた綱が緩んだ。誰かが泣いていた子供を抱き直した。
近くにいた男が、大きく息を吐いた。
「……今だ」
バルドが言った。
すぐに声を張る。
「出るぞ!」
人々が再び動き始めた。
荷車が一台ずつ柵を抜ける。乗れる者は荷台へ乗り、動かせない荷はその場へ置いた。倒した柵の隙間から馬を外へ出し、道を塞いでいた箱は脇へ寄せる。拾われない荷が、火の消えかけた野営地にいくつも残った。
さっきのように誰もが同時に出口へ飛び込むことはなかった。
レオナも女の荷車を起こすのを手伝い、トーマたちの方へ走った。
「今の、石か?」
「石を投げたら、そっちを追ったよ」
「何なんだ?」
「知らない」
トーマが走りながら振り返った。
「分からんものを投げて、あいつの気を引いたのか」
「うん」
「違ったら?」
「こっちを向いたら、私も走るつもりだった」
トーマは岩喰いとの距離を見た。
「間に合ったか?」
レオナも振り返る。
「……危なかったかも」
「だろうな」
五台の荷車も柵を抜けた。
ハルの場が後ろへ遠ざかっていく。
車輪の軋む音と馬の息が、少しずつ揃ってきた。
レオナは一度だけ振り返った。
岩喰いはまだ南側にいた。
頭を下げている。
「行けそうだな」
トーマが言った。
レオナも前を向いた。
そのとき、足の裏に小さな揺れが来た。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
トーマが振り向く。
「……まさか」
岩喰いが頭を上げていた。
身体がこちらへ向く。
「石、食ったんじゃないのか」
巨体が歩き始めた。
西へ。
先頭近くを走る一台の荷車が、道に沿って右へ寄る。
少し遅れて、岩喰いも右へ曲がった。
「まだある」
トーマがレオナを見る。
「何が」
「青い石」
レオナは前を指した。
「あの荷車!」
声が前へ飛んだ。
「青い石を探せ!」
「石?」
「荷の中だ!」
「どれだ!」
走る荷車の上で箱が開けられた。
袋が探られる。
夜明け前の暗さの中、積み荷が次々と動かされていく。
「分からん!」
荷台にいた男が箱を一つ抱え上げた。
「じゃあ全部落とせ!」
木箱が道へ落ちた。
すぐ後ろの荷車が大きく横へ避ける。
それを見た別の荷車からも、麻袋が投げ捨てられた。
「道に捨てるな!」
怒鳴り声が飛ぶ。
後ろの馬が驚いて首を振った。
御者が綱を引く。
荷車の速度が落ち、後続の荷車が追いついた。
「止まるな!」
「前が動かない!」
一台が木箱を避けようと横へ振れた。
隣を走る荷車と車輪同士がぶつかる。
木が軋んだ。
一台が止まり、その後ろも、そのまた後ろも止まった。
「荷をどけろ!」
人が道へ飛び出した。
箱を抱え、袋を引きずり、脇へ退けていく。
地面が揺れた。
レオナが後ろを見る。
岩喰いの背が、荷車越しにもはっきり見えるほど近づいていた。
前では男たちが道を塞ぐ荷を運び、一台がようやく動き出す。その後ろも、少し遅れて進み始めた。
また地面が揺れた。
前では最後の荷車がようやく動き始めていた。その横を、若い男の肩につかまった老人が必死についていく。
レオナはもう一度、岩喰いを見た。
「みんながここを離れるまで、どれくらい?」
バルドが振り向いた。
「何をする気だ」
「止める」
トーマも足を止めた。
「あれを押す気か」
「うん」
岩喰いの脚が地面へ落ちた。
揺れが来る。
トーマがレオナの腕を掴んだ。
「一緒に来い」
レオナは前を見た。
最後の荷車の脇には、まだ人が走っていた。
「みんなが逃げられるなら、そうする」
トーマの手を外した。
「先に行って」
「レオナ」
「止められたら追いつく」
レオナは岩喰いへ向き直り、逃げていく人々とは逆へ歩いた。
少し離れたところで足を止める。
どこまで押せるのかは、自分にも分からない。
今まで、試したことがなかった。
岩喰いが迫ってくる。
レオナは右手を上げた。
まずは、いつも使うくらいで。
岩喰いへ手を向けた。




