第1話 死ななかった日
「準備できたぞ」
レオナは聖剣を肩に乗せた。
「じゃあ、遠慮はしないから」
ドワーフは一瞬だけ黙った。
「……そのための試験だ」
試験場の向こうには、乾いた平原が広がっていた。
少し離れたところでは、治療師たちがポーションを用意し、大盾を持った冒険者が何人か控えていた。さらに遠く、町の城壁には見物人まで並んでいる。
ドワーフが、レオナの腕と腰につけた装具を最後に確かめた。
「剣は?」
「壊れん」
「それならいい」
「お前も壊れるなよ」
レオナは聖剣を構えた。
「いくよ」
まずは、いつも使う程度の魔力を流した。
白い刃の奥に淡い光が灯り、腕の装具が低く鳴る。少しずつ出力を上げても、聖剣は静かなままそれを受け止めていた。腕にも、胸にも痛みはない。
治療師の一人がポーションへ手を掛けた。
レオナはそのまま数秒、出力を保った。
何も壊れない。
レオナは笑った。
さらに魔力を込めると、空気が大きく震えた。装具の音が高くなり、足元の砂が一気に吹き払われる。大盾を構えた冒険者たちが、押されるように一歩下がった。
聖剣の光が膨らみ、白く滲んで刃の輪郭を消していく。
それでも、痛くない。
剣も壊れない。
もう、残さなかった。
一度だけ柄を握り直す。
「これで全部」
振り抜いた。
白い光が平原を走った。
一拍遅れて大地が割れ、押し退けられた土砂が左右へ噴き上がる。さらに遅れて轟音が届き、衝撃が平原を駆け抜けて、遠くの城壁まで震わせた。
音が去ったあと、レオナの前には、さっきまでなかった巨大な裂け目が地平へ伸びていた。
聖剣は手の中に残っている。腕も動く。息を吸っても、胸は痛まない。
レオナはしばらく黙っていた。
「……死ななかった」
少し遅れて、城壁から歓声が上がった。
レオナは聖剣を持ち直す。
「もう一回――」
「やめろ!」
何人もの声が重なった。
三日後、勇者レオナは聖剣を携え、仲間とともに魔王領へ向かう。
***
数百年前。
勇者が魔王を倒しに行く――そんな世界が、まだどこにもなかった頃。
同じ右手が、何も持たずに荒野へ向けられていた。
人々は巨大な獣から逃げていた。荷を捨て、馬を走らせ、それでも追いつかれようとしていた。
その最後尾で、レオナが足を止めた。
この日、彼女は初めて全力を出した。
そして、死んだ。
***
その前日の昼。
五台の荷車が、乾いた草原を西へ進んでいた。
朝から続く悪路で、車輪は何度も轍を外れかけていた。前を行く一台が浅い窪みに車輪を取られ、大きく傾いた。
積んであった木箱が一つ、荷台の端へずれる。
トーマが振り返るより先に、レオナが片手を上げた。
滑っていた箱が止まり、そのまま荷台の奥へ押し戻された。
「助かった」
トーマは箱を押さえ、緩んでいた縄を引き直した。
「塩だからな。落ちた箱から集め直すのは勘弁だ」
「ずいぶん重いね」
「だから二重に縛ったんだけどな」
そう言いながら、今度は三重に巻き直した。
「今の、魔力で押したのか?」
「うん」
「よくあれが動くな」
レオナは箱を見た。
「そう?」
「俺なら、あそこから押しても動かん」
荷車が再び進み始めたので、二人もその横を歩き出した。
少しして、トーマが横目でレオナを見た。
「そういや、お前、どこまで行くつもりなんだ?」
「決めてない」
「行き先も決めずに乗ったのか」
「行けるところまで」
トーマは眉を上げた。
「帰る場所はあるんだろ?」
「あるよ。山の手前に、小さい村がある」
「なら、いつ帰るんだ」
「ひと通り見たら」
「そのひと通りが、どこまであるんだ」
レオナは少し考えた。
「それを見に来たの」
トーマは何か言おうとして、やめた。
道は、人や荷車が繰り返し通ったところだけ草が薄くなっていた。轍はところどころで途切れ、その先でまた現れる。低い草原の向こうには赤茶けた丘が重なり、風が吹くたび、斜面から乾いた土が薄く舞った。
一行は、交易のため西の市場へ向かっていた。
朝、道で出会ったレオナに、バルドは同行するなら荷運びを手伝えと言った。代わりに食事は出すという。レオナにも都合がよく、そのまま五台の荷車と一緒に歩いていた。
午後になると、地平近くに細い煙が何本か見え始めた。
「あれがハルの場?」
「ああ」
トーマが目を細めた。
近づくにつれ、低い丸太の柵と、その内側に寄り集まった建物が見えてきた。柵の外には馬や山羊が繋がれ、別の道から来た荷車が何台も止まっている。
「もっと大きいところかと思ってた」
「人が集まる日は、あれでもいっぱいになるぞ」
その言葉どおり、柵を抜けると、いくつもの声が一度に押し寄せてきた。
場の中央近くには、片側が斜めに欠けた大きな平たい岩があった。荷を置いて縄を締め直す者もいれば、端に腰掛けて話している者もいる。人の流れは、その岩を避けるようにいくつもに分かれていた。
大きな屋根の下には麻袋や木箱、束ねた毛皮が並び、その隙間を人が絶えず行き来していた。袋を抱えて重さを確かめる者がいれば、布を日の光へ透かしている者もいた。干した魚を指で押しながら首を振る男の横を、山羊を引いた子供がすり抜けていった。
「それじゃ少ない」
「なら魚を二束つける」
「三束だ」
「二束と、この豆でどうだ」
奥からは槌の音が響き、焼けた肉や獣脂、乾いた草の匂いが土埃の中で混ざり合っていた。笑い声のすぐ隣で言い争いが起こり、その向こうでは、話のまとまった二人が互いの荷を運び始めている。
トーマたちの荷車にも、すぐ人が寄ってきた。
「塩か?」
「南のだ」
「見せろ」
箱を開けると、男が白い塊を一つ摘まんで舐めた。
「去年のよりましだな」
「去年は俺たちじゃない」
「なら、今年は当たりだな」
男は別の塊を手に取り、今度は指で崩して確かめ始めた。
レオナも自分の分の荷を降ろし終えると、人の流れに混じった。
干した木の実、何に使うのか分からない骨、色の濃い布、小さな陶器。敷物の上に並べられた石の中には、黒っぽい表面の奥が青く見えるものもあった。
レオナが少し足を緩めた。
「その石、どこで採れたの?」
売り手の女は別の客と話しながら答えた。
「知らないよ。北から来たやつが持ってきた」
後ろから人が来たので、レオナは道を空け、そのまま隣の露店へ目を移した。
日が傾き始めたころ、バルドは東から来た一団と話していた。
その一団の荷車は片側が大きく割れ、車輪には色の違う新しい木が継ぎ足されている。馬も一頭しか残っておらず、もう一頭を繋いでいたらしい縄が荷台の横で切れていた。
話を終えたバルドが戻ると、何人かが集まった。
「明日は南を回る」
トーマが眉をひそめた。
「東の道じゃないんですか」
「岩喰いが出た。赤岩の手前だ」
「あいつらが見た?」
「ああ」
トーマは壊れた荷車を見た。
「じゃあ南ですね」
隣にいた男も頷いた。
「赤岩なら半日は離れてるだろ」
「それでも東を通る理由はない」
「まあな」
壊れた荷車の持ち主らしい男が、こちらへ顔を向けた。
「昨日は近すぎた。馬が一頭、荷台ごと転んだ」
「追われたのか?」
「いや。岩を割りながら進んでた。こっちが邪魔だっただけだ」
レオナが男を見た。
「岩を食うの?」
「たぶんな。だから岩喰いだ」
男はそれだけ言うと、自分の荷車へ戻っていった。
車輪の脇に残った板には、何か重いものに押し潰されたようなひびが、端から端まで走っていた。
夜は、ハルの場の外れで過ごすことになった。
荷車を寄せ、その間に火を起こす。一人の男が薪へ手をかざすと、枯れ草の端がじわりと赤くなり、何度か息を吹きかけるうちに炎が広がった。
鍋には麦と干し肉、それに昼間手に入れた苦い根が入っていた。トーマによれば腹にいいらしい。
食事が済むころには、空はすっかり暗くなっていた。
それでも、ハルの場から人の気配が消えるわけではなかった。別の荷車のそばではまだ誰かが話し、少し離れた焚き火から笑い声が届いていた。荷を動かす音や馬をなだめる声も、夜が深くなるまであちこちから聞こえていた。
それらが、時間とともに一つずつ減っていった。
レオナは荷車の車輪に背を預けた。最後まで話していた二人もやがて毛布へ潜り、離れた焚き火が赤い点になって残った。
暗い丘の上には星が並んでいた。
レオナも目を閉じた。
夜半、馬の嘶きで目を覚ました。
近くに繋がれた馬だけではなかった。柵の内側にいた何頭もの馬が首を上げ、同じ方角へ身体を向けていた。綱を短く引き、落ち着きなく蹄で地面を掻くものもいる。
見張りの男が熾火のそばから立ち上がった。
「どうした?」
犬が吠え始めた。
一匹、二匹と声が増え、少し離れた野営地でも人が起き出す。馬をなだめる声が飛び、柵の向こうでは山羊が甲高く鳴き続けていた。
レオナも身体を起こした。
赤く残った火の向こうに、荷車と柵がぼんやり浮かんでいた。その先は暗く、丘の形さえ分からない。
一頭の馬が大きく身体を引いた。杭が土の中で傾き、男が慌てて綱を掴んだ。
そのとき、地面が揺れた。
火のそばの木椀が、かたりと鳴った。
周囲の話し声が止まる。
バルドが立ち上がった。
少し間を置いて、二度目の振動が来た。今度は荷車の車輪まで軋み、馬が一斉に綱を引いた。一本の杭が抜け、逃げかけた馬を二人がかりで押さえる。
山羊はまだ鳴いていた。
人間だけが、黙っていた。
その静けさの中で、遠くから太い木が折れる音がした。




