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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第八章

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第68話 呼んでも

 カヤは一歩だけ前へ出た。


 エリナの顔は、灯りの下でも白かった。髪は後ろで短く切られ、首から胸へ、幅の違う金属の帯がいくつも巻かれている。その身体を支えるように、下には四本脚の獣がいた。獣の胴の左右にはエリナの足が下がり、靴は履いていなかった。


「エリナ」


 カヤが呼ぶと、伏せていた顔がゆっくりそちらへ回り、唇がわずかに開いた。カヤはもう一歩近づいたが、その唇から声は出なかった。


「エリナ。私だよ」


 少し離れたところからレオナが呼ぶ。今度は顔が、同じような速さでレオナの方へ動いた。けれど、その目は彼女の顔で止まらず、少し横へ流れていった。


 直後、獣が頭を低くした。


 石床を蹴る音と同時にグレイホーンが前へ出て、両腕を獣の肩へ当てた。巨体同士がぶつかる鈍い音が響き、踏ん張った足が半歩ぶん後ろへ滑る。


「シグレ!」


 グレイホーンが獣の首を右へ押す。空いた側へシグレが踏み込み、前脚へ刀を振るった。


 刃が届く寸前、エリナの右手が上がった。


 弾けた空気がシグレの手首を横から押す。刃筋が外れ、刀が石床を浅く削った。


 獣の頭が振られる。シグレが身体を沈めると、骨の盛り上がった額が頭上を通り過ぎた。


 その動きに合わせてグレイホーンが首を押し返す。獣は前脚で踏ん張ったが勢いを殺しきれず、左肩から石壁へぶつかった。


 裂けた皮膚から血が流れた。


 するとエリナの手が下がり、傷ついた肩へ触れる。淡い光が広がるにつれて皮膚が閉じていき、その手は傷をたどるように少しずつ位置を変えた。


 レオナは、その指の動きを知っていた。傷の端を確かめ、少しずつ場所を移す。フィンの脚を治していたときも、同じだった。


「エリナ」


 もう一度呼んだが、今度は顔も動かなかった。傷が塞がると手が離れ、獣は再びグレイホーンへ身体をぶつけた。


 レオナは剣に手を伸ばせないまま、その場に立っていた。


***


 グレイホーンが正面から獣を押さえ、その周囲をシグレが動いた。


 右から刀が入ればエリナの右手が動き、刃先が逸れる。左へ回れば、今度は左手が上がった。


 吹き飛ばすほどの力はない。それでも、ほんの少し刃先をずらされるだけで、深くは届かなかった。


 ようやく傷をつけても、シグレが距離を取り直すころには、エリナの手がそこへ伸びている。


 攻撃を逸らし、傷を治す。


 どちらも、レオナが何度も見てきた魔法だった。


 その横で、カヤは別のものを見ていた。


 獣を運んできた台車のそばに、鎧を着ていない男がいる。手にした短い金属棒の先端には、小さな魔石が埋め込まれていた。


 男が棒を向けると、先端の魔石が一度光った。


 ほぼ同時に獣の首元でも同じ色が瞬き、獣がグレイホーンから離れるように身体を振る。


 カヤが見ているうちに棒の魔石がもう一度光り、今度は獣の向きが変わった。


 カヤは男へ走った。


 気づいて背を向けた男へ手を伸ばし、上着をつかむ。だが、襟だけが裂けて身体は前へ抜け、その拍子に金属棒が床へ落ちた。


 カヤが拾い上げると、男は一度振り返った。グレイホーンの方から獣の咆哮が上がり、男はそのまま西側の扉へ走っていく。


 カヤは追わず、棒を獣へ向けて魔力を流した。


 先端の魔石が淡く光り、獣の首元でも遅れて光が瞬いた。床を掻いていた前脚が止まる。


「止まった……」


 しかし、グレイホーンが首を押さえ込むと、獣はすぐに抵抗を始めた。


 カヤはもう一度魔力を流す。首元の魔石が再び光り、動きはわずかに鈍ったものの、グレイホーンの腕から逃れようと身体を振る力までは消えなかった。


 カヤは台車を振り返った。


 その両側には、片端を金属枠へ固定された太い革帯が何本も垂れている。獣を台車の中央へ載せれば、反対側まで回して身体を押さえられるようになっていた。


 あれなら。


 そう考えたとき、グレイホーンが獣の首を両腕で抱え込んだ。


「大人しくせんか!」


 獣が激しく身を振る。首を抱え込んだことで、グレイホーンの左腕はエリナの身体のすぐ前まで上がっていた。


 そこへ、エリナの左手が伸びた。


 掌が腕へ触れる。


 淡い光が灯り、レオナが声を上げた。


「離れて!」


 治療するときと変わらない静かな光が、その腕へ広がっていく。筋が一度大きく引きつり、グレイホーンの指が開いた。


「……何だ」


 左腕が落ちる。


 獣が首を振ると、片腕だけでは支えきれず、グレイホーンの身体が肩から壁へ叩きつけられた。


「グレイホーン!」


 カヤの声と同時にシグレが間へ入り、刀を横薙ぎに振るった。空気に押されて刃筋が外れたものの、切っ先が獣の肩を浅く裂く。


 シグレは身を振る獣から一歩退き、グレイホーンを庇うように立った。


「腕は」


 グレイホーンは左腕を上げようとしたが、肘から先はほとんど動かなかった。


「力が入らん」


 レオナはエリナだけを見ていた。淡い光も、腕へ触れる手つきも知っている。違うのは、そのあとに起きたことだった。


「今の……治してない」


 エリナの顔がレオナの方へ動いた。


 すぐ近くでグレイホーンが荒く息を吐くと、今度はそちらへ顔が少し向く。


 レオナは何も言えなくなった。


***


「台車を使う」


 カヤは金属棒を腰へ差し、革帯を引き出した。


「倒せれば、これで押さえられるかもしれない」


 グレイホーンが片腕で壁から身体を起こす。


「何をすればよい」


「右へ向く前に、左の前脚を大きく出してる。そこに台車を置く」


「俺が寄せる」


 シグレが刀を構え、グレイホーンも動く方の腕を伸ばした。


 再び突っ込んできた獣を、グレイホーンは真正面から受けず、身体を横へずらして首だけを抱え込む。そこへシグレが左から刃を見せると、エリナの右手が上がった。


 空気に押された刀が外へ流れ、その刃を避けるように獣が身体を右へ振る。


 その前に、左の前脚が大きく前へ出た。


「今!」


 カヤは、その踏み出す先へ台車を押し込んだ。


 左前脚が板へ乗る。


 重みを受けた車輪が横へ滑り、台車が大きく傾いた。踏み直そうとした脚が板から外れ、獣の巨体が崩れる。


 グレイホーンが上から首を押さえ込んだ。


「早くせい!」


 カヤは革帯を引き出し、倒れた獣の胴へ回そうとする。


 だが、獣は台車の中央から大きくずれていた。片側へ固定された帯では、反対側まで届かない。


 台車をさらに寄せようとして、カヤの手が止まった。


 目の前にエリナの足が下がっている。


「エリナ」


 顔が、声のした方へ回った。


 カヤが少し横へ動く。


 目は合わないまま、顔だけが遅れてそちらへついてきた。


「聞こえる?」


 伸ばした手を、空気が横から叩いた。腕が台車の縁へぶつかり、カヤは息を詰めたが、それでも顔を上げる。


「私だよ」


 返事はなかった。


 背後で兵が怒鳴る。


 エリナの顔が、今度はそちらへ動いた。


 カヤの口が閉じる。


 獣は身体を起こそうともがき、グレイホーンが片腕で押さえ続けていた。その上でエリナの身体が傾き、金属枠の陰に隠れていた背中が見える。


 衣服は背で切られ、皮膚の内側から何本もの細い管が伸びていた。管は獣の背へ入り込み、その中心では、ひときわ太い一本がエリナの身体の奥からつながっている。


 首から胸を覆う帯だけではなかった。


 獣を止め、帯を外せば降ろせると思っていたカヤは、革帯を握ったまま動けなくなった。


「……返事、してよ」


 レオナも、その背中を見ていた。


 剣なら切れるかもしれない。けれど、何を切ればエリナを助けられるのか分からなかった。どこからがエリナで、どこからが獣なのかも分からず、柄へ手を伸ばすことさえできない。


「兵が来ます!」


 門側からユナの声が飛んだ。


 盾を打つ音が近づき、獣が大きく身を振ると、押さえていたグレイホーンの身体が浮いた。


 カヤは我に返り、革帯を引き寄せる。


「まだ止められる」


 獣の腹の下へ先を通そうとしながら、もう一度引いた。


「これを回せれば、まだ――」


 獣の肩の傷へ、エリナの手が伸びた。


 淡い光が灯るのを見て、シグレが踏み込む。


「させるな」


 振るった刀身を空気が押した。刃が逸れた隙に光が傷へ広がり、裂けていた皮膚が閉じていく。


 獣が前脚を突っ張った。


 台車の板が割れる。


 カヤは革帯ごと後ろへ引かれ、グレイホーンの腕も外れた。獣は砕けた板を踏んで立ち上がる。


***


「下がれ!」


 グレイホーンが叫ぶと、シグレはカヤの前へ入り、振り下ろされた前脚を刀で横へ逃がした。まともには受けていないのに、その衝撃だけで身体が一歩ずれる。


 グレイホーンが動く方の腕を獣の首へ回した。


 エリナの左手がまたそちらへ伸びる。


 シグレは刀の腹で払おうとしたが、空気に押されて外れた。獣が首を持ち上げると、グレイホーンの身体まで浮く。


 門へ続く道では、ユナたちの近くまで盾を構えた兵が迫っていた。シグレの連れてきたゴブリンたちが武器を構え、救出した者を壁際へ下がらせている。


 カヤは壊れた台車と、手元に残った革帯を見た。


「もう一回……」


 言いながら獣を見上げる。


 どこへ台車を入れるのか。


 どうやって帯を回すのか。


 もう答えは浮かばなかった。


 シグレが刀を両手で持ち直した。


 その切っ先の向きに気づき、レオナが声を上げる。


「待って」


 シグレの動きが止まった。


「エリナ」


 顔がゆっくりレオナの方へ向き始めた。


 門の方から兵の怒鳴り声が響く。


 顔はレオナのところで止まらず、そのまま門の方まで回った。


「私だよ」


 獣が身をよじり、グレイホーンの踏ん張っていた足が滑った。エリナの手が上がり、淡い光が灯り始める。


「待って」


 レオナはもう一度言った。


 その先が続かなかった。


 助けられるとも、まだ方法があるとも言えず、このままにしておいてほしいとも言えなかった。


 シグレはレオナを見なかった。


 一度だけ獣と、その背にいるエリナを見てから前へ出る。


 エリナの右手が上がり、空気がシグレの手首を押した。刃先がずれてもシグレは止まらず、踏み込んだ足へさらに体重を乗せると、刀を引き戻して短く突いた。


 刃が、エリナから伸びる管の集まる根元へ入る。


 硬いものに当たる手応えがあっても、シグレは両手へ力を込め、さらに奥へ沈めた。


 獣の身体が大きく跳ねる。


 グレイホーンが動く方の腕で押さえ込んだ。


 シグレは刀を抜き、もう一度、同じ場所へ振り下ろす。


 硬いものが砕けた。


 獣の脚から力が抜け、その身体が石床へ落ちた。エリナの手にはまだ淡い光が残り、指先が獣の傷へ向かおうとしていた。


 途中で止まる。


「エリナ」


 レオナが呼んだ。


 今度は、顔も動かなかった。


 しばらくして、掌に残っていた光が消えた。


***


 シグレは獣の背から刀を抜き、刃についた血を振り落として鞘へ戻した。


 誰も何も言わなかった。


 グレイホーンは動かない腕を押さえながら獣から離れ、カヤはその横を通ってエリナへ近づいた。


「エリナ」


 顔にかかった髪を払い、頬へ触れる。


 もう動かなかった。


 カヤは布を取り出し、開いたままの目を覆った。


 レオナは少し離れたところに立っていた。


「レオナ」


 呼ばれて、ようやく近づく。


「この帯、外して」


「……うん」


 それならできた。


 グレイホーンが動く方の腕でエリナの身体を支え、その間にレオナは首から胸を支えていた金属の帯を外した。カヤは壊れた台車から使える板を取り出して並べ、その上へ布を敷く。


 レオナは剣を抜いた。


 戦っている間には、抜けなかった剣だった。


 金属の枠を切り、外せる管を一本ずつ外していく。どうしても抜けないものだけは、つながっている位置を確かめながら切った。


 カヤはその手元を見ていたが、途中から顔を伏せた。それでも、身体を包む布の端は離さなかった。


 板へ身体を移したところで、門へ続く道に怒号が響き、グレイホーンが顔を上げた。


「急ぐぞ」


 カヤは布を結ぼうとしたが、指がうまく動かず、一度ほどけた。もう一度結び直そうとする手へレオナが手を伸ばすと、カヤは首を振った。


「そこ、押さえてて」


「うん」


 レオナは言われた通り、布の端を押さえた。


 二人で結び終えると、カヤが板の前へ回り、レオナは後ろへ回った。


 持ち上げた身体は、さっきまで中庭を揺らしていた獣より、ずっと軽かった。


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