第67話 開いた檻
炊事場には、洗い終えた椀が伏せてあった。
レオナは濡れた靴の底を布で拭き、カヤが溝の格子を戻すのを待った。戸の隙間から廊下を覗くと、角の向こうに灯りがある。
兵士が一人、椅子に座っていた。膝の上の紙を読みながら、ときどき壁の向こうへ声をかけている。
「門の人じゃないね」
カヤが囁いた。
兵士の奥には、鉄の桟が入った戸があった。その向こうから咳が聞こえる。
レオナはカヤを見た。彼女は頷き、戸の陰から小石を転がした。
兵士が顔を上げる。椅子を離れて炊事場へ近づいたところで、レオナがその身体を壁へ押さえた。声が出る前にカヤが口へ布を当て、腰の鍵と短剣を抜く。
「動かないで」
レオナが言った。
兵士は彼女の顔を見ると、目を見開いた。膝で蹴ろうとしたが、脚は壁から離れなかった。
口の布を留め、椅子へ手足を縛り終えてから、カヤが鉄の戸へ近づいた。
「ユナさん」
低く呼ぶ。
暗がりで誰かが動いた。
「カヤさん?」
レオナは戸へ駆け寄りかけ、縛った兵士を振り返った。カヤが鍵を探す間、彼女は兵士の手元を見ていた。
「開いた」
戸の向こうにユナが立っていた。頬が痩せ、上着の片袖に乾いた染みがあったが、自分の足でこちらへ歩いてくる。
「レオナさん」
「迎えに来た」
ユナの手が、彼女の両腕へ触れた。
「怪我は」
「私は大丈夫。ユナは歩ける?」
「はい。私だけではありませんけど」
部屋の奥に五人いた。一人は壁にもたれたまま立てず、隣の男がその肩を支えていた。
カヤは廊下を確かめる。
「まだ外へ出る門を開けてません。少しだけ、ここで待ってもらえますか」
「案内できます」
ユナが言う。
「東門までなら分かります」
***
門の詰所には二人いた。
近づいてくるユナを見て、一人が立つ。ユナの肩越しにレオナが手を向けると、男は椅子を巻き込んで後ろへ押しやられた。もう一人が壁の鐘へ手を伸ばしたが、カヤの投げた短剣がその前の板へ刺さる。
手が止まった間にレオナが距離を詰めた。
「鳴らさないで」
その腕を下ろさせ、床へ押し伏せる。ユナが詰所の戸を閉めた。
二人の武器を取り上げ、口を塞いで柱へ縛りつけると、カヤは板から短剣を抜き、鐘へ伸びる縄を切った。
木戸を開け、レオナが巻き上げを手伝った。ユナは廊下を見張る。格子が上がると、カヤは軸へ二本の楔を噛ませた。
レオナが力を緩めても、格子は下がらなかった。ユナが灯りを上着で二度覆った。
やがて外の暗がりが動いた。灰色の角が現れると、ユナは灯りを下げたまま後ずさり、レオナへぶつかった。
「一緒に来てくれたんだ」
レオナが言う。
グレイホーンは角を傾けて門をくぐり、その後ろからシグレと数人のゴブリンが入った。シグレが二人を門に残す間も、ユナは彼とグレイホーンを交互に見たまま動かなかった。
「捕まってる人、ほかにもいる?」
レオナが尋ねると、ユナはようやくそちらへ顔を戻した。
「……はい。中庭の向こうから、声がします。人間の声だけじゃありません」
グレイホーンがユナを見た。
「道を示せ」
ユナは答えず、レオナを見る。レオナが頷くと、唇を結んで灯りを持ち直した。
「こちらです」
***
グレイホーンとシグレを連れ、レオナたちは拘束者のいる部屋へ戻った。
人間の拘束者を東門まで移す途中で、一人がシグレを見て叫んだ。
男は足を止めた。次の瞬間、支えようとした仲間の手を振りほどき、来た道へ戻ろうとする。
「待って、違います」
ユナが追う。
「この人たちも、捕まった仲間を助けに来たんです」
「嘘だ。食われる」
カヤは男の前に回った。腕をつかむと振り払われ、治りかけの傷が壁へ当たった。
「こっちにも兵が来るよ。部屋へ戻っても、鍵をかけられるだけ」
男は彼女を見たが、首を振り続けた。
廊下の奥で戸が開いた。
槍を持った兵士が二人、顔を出す。そのまま走ってきた一人へ、シグレが横から踏み込んだ。刀は抜かず、鞘を兵士の胸元へ押し当てる。勢いのまま壁へ叩きつけられ、兵士が崩れた。
もう一人は踵を返した。
「待って」
レオナが手を向ける。男の身体が前へ進めなくなったところへシグレが間合いを詰め、鞘の先を腹へ打ち込んだ。兵士が膝をつく。
「二人とも縛る。急いで」
カヤが言い、武器を遠ざけた。口を布で塞いで手足を縛り、二人を廊下の端へ寄せる。
男は壁際からその様子を見ていた。
「行くよ」
カヤが促すと、今度は抵抗しなかった。
東門まで戻ると、レオナたちは拘束者を外へ出した。門に残ったゴブリンが切通しの方を指し、動ける者が負傷者を支えて歩き始める。
「ユナさんも」
カヤが外を指したが、ユナは首を振った。
「あの棟の道は私が案内します。何度も連れていかれましたから」
「でも」
「歩けます。案内させてください」
レオナは少し迷ってから頷いた。
最後に門を出た男が、振り返った。視線の先にいたシグレは何も言わず、廊下の奥を見ていた。男はそのまま仲間を追った。
そのとき、遠くで戸の開く音がした。
「牢が空だ!」
怒鳴り声に続いて、別の棟で鐘が鳴る。
グレイホーンが振り返った。
「急げ」
***
中庭の向こうの棟には、大きさの違う檻が並んでいた。
グレイホーンを見て、奥から声が上がる。彼は檻ごとに返事をし、レオナはその横で錠を切った。カヤが戸を押さえ、一つ開くたびに動ける者から廊下へ出す。
小さなゴブリンが、戸口で足を止めた。
「出られるよ」
カヤが手を差し出すと、相手は奥へ戻ろうとした。レオナが声をかけても、壁を背にして両腕を振る。
足元に、もう一人いた。
脚を固定する板が膝から下へ巻かれ、立ち上がれずにいた。先に出ようとしたゴブリンは、その腕を引いていた。
「二人、一緒ね」
カヤはしゃがんだ。手を伸ばすと歯を剥かれたので、持っていた布を床へ敷く。
レオナがグレイホーンを呼んだ。短い言葉が交わされ、ようやくゴブリンの手が緩む。
「ここに寝かせて。脚は、そのまま」
隣の檻から出たゴブリンが手を貸し、カヤと二人で負傷者を布へ移した。その両端を持って身体を浮かせると小さな悲鳴が上がり、カヤはすぐに高さを下げる。
「ごめん。低くする」
小さなゴブリンも、その脇について歩き出した。レオナは運び出される二人を見てから、次の戸へ向かった。
その先の檻からも、トロルが二人出てきた。一人は自分で歩き、もう一人は仲間に肩を借りている。
さらに奥にはオーガがいた。
一人は生きていた。呼びかけに目を開き、床へついた手を動かした。もう一人には、その反応がなかった。
倒れた方の顔を見たところで、グレイホーンの足が止まった。
しばらく動かなかった。やがて膝をつき、腕に残った金属の帯へ手をかける。留め具は動かない。指に力が入り、金属が音を立てて潰れた。
レオナは声をかけなかった。グレイホーンが立ち上がるまで、シグレも動かなかった。
中にはもう誰もいない部屋もあった。棚には大きさの違う拘束具と、切り取られたままの衣服が残されていたが、ユナが灯りを向けても、持ち主は見つからなかった。
廊下の向こうで兵士が叫ぶ。足音も、さっきより近い。
グレイホーンは生きていたオーガへ肩を貸した。
「歩けるか」
相手は片脚を引きずりながら頷いた。
***
中庭へ戻ると、東門へ続く道に盾が並んでいた。
こちら側には、救い出した魔物たちがいる。ユナが動ける者を壁際へ寄せ、カヤが運んでいたゴブリンを一度下ろした。グレイホーンは支えていたオーガをシグレに預け、レオナと前へ出る。
兵士たちの後ろで、低い車輪の音がした。
盾の列が左右へ分かれ、柵のついた台車が押し出された。
柵が開く。
中にいたものが地面へ降りた。
脚が四本あった。低い獣の身体から、人間の上体が起き上がる。
「エリナ?」




