第66話 入る道、帰る道
フィンは、森へ戻った二人からラウルの話を最後まで聞いた。
途中で一度だけ、いつのことかを尋ねた。カヤが答えると、小屋の入口へ目を向け、それからしばらく何も言わなかった。
膝の上には、移送隊から奪った書類がある。フィンはそれを開き直し、行き先の下に記された時刻を目で追った。
「到着する時間まで決めてあったんですね」
指が、そこで止まる。
「ラウルさんのことは、あんなふうに書き換えられるのに」
カヤは返事をしなかった。
助けて連れ帰った四人は、沢の向こうで手当てを受けている。そこへ運ぶ椀を重ねていたレオナが、手を止めた。
「フィン」
「はい」
「無理に、今読まなくていいよ」
フィンは首を振る。
「読みます。まだ、向こうにいる人がいますから」
***
その朝、ハルへ知らせを運ぶ役は、人間の炭焼きが引き受けた。
森の縁で炭を焼き、ハルへ売りに行く男で、セイルが以前から知っていた。里へは入れず、街道から外れた作業場で短い手紙を渡す。
「返事がなくても、探し回らないでください」
「ギルドの受付に渡すだけでいいんだな」
「はい。危なそうなら、渡さなくていいです」
「それを決めるのは俺だろ」
男は手紙を上着へしまった。
戻ってきたのは翌日の夕方だった。返事の代わりに、次に荷を出す日時と場所を聞いてきている。
指定された畑の脇には、以前と同じ小さな荷車が止まっていた。
ギルドの受付をしていた女は、道から人影が消えるのを待って近づいてくる。
「脚を怪我した方は?」
「治療してもらってます」
「よかった」
女は町の方を振り返った。
「兵の荷車が襲われたとかで、警備が厳しくなっています。附属院にも、昨日から兵が増えたそうです」
カヤとレオナは顔を見合わせた。
「それと――ユナさんですが。東の附属院にいるそうです。食器を運んだ人が、今朝も声を聞いています」
「ちゃんと話せてた?」
「少なくとも、声はしっかりしていたそうです。誰かの名前を何度も呼んでいたと」
レオナの肩から、わずかに力が抜けた。
カヤが移送の書類を見せると、女は行き先を確かめて頷く。
「同じところです」
「中へ入る道を教えてください。今あるかどうかは、こちらで確かめます」
「そう言うと思って、探しておきました」
荷車から、折り畳んだ紙を取り出す。
カヤは一度女の顔を見た。
「……ありがとうございます」
以前ギルドが運搬を請け負ったときの図だった。建物の外側しか描かれていないが、炊事場の下へ細い線が伸びている。
「水を捨てる溝だと思います。今もあるかは分かりません」
「今夜、見てきます」
レオナは、図を隠していた荷車を見た。
「これ、探してくれたことが分かったら、大丈夫?」
「分かりません。今のところ、ギルドまでは調べられていませんけど」
「もし、このことで町にいられなくなったら、森まで来られる?」
女は少し黙った。
「母がいるんです。足が悪くて、森まではとても」
カヤが別の紙へ、炭焼きの作業場までの道を書き込んだ。
「作業場までは荷車で来られます。困ったら、お母さんとここまで来てください」
「そこから先は?」
「私たちが迎えに来ます」
女は道順を何度か目で追い、紙を小さく折って上着へしまった。
***
森へ戻ると、カヤは図を広げた。
「私たちが入れる場所、グレイホーンたちが通れる場所、それから帰る道。この三つを見てくる」
セイルが同行を申し出たが、カヤは断った。人数は少ない方がいい。フィンはまだ長く歩けず、グレイホーンたちは町の近くでは目立つ。
二人は日が落ちてから森を出た。
***
附属院は王宮の東端に接し、外側だけが町の城壁より張り出していた。
南側へ回ると、炊事場の下を細い溝が通っていた。図と同じ位置だ。
奥には鉄の柵がある。
レオナが肩を入れる。
「通れそう」
「私たちならね」
「柵は切れるよ」
「音は?」
「たぶん、そんなにしないと思う」
「そこは後で試す」
二人はそのまま壁沿いに東へ回った。
大型の荷車が通れる門の上には、片側の欠けた石の飾りが見えた。
カヤはセトの話と図を確かめた。木戸の手前に鉄格子があり、門脇の詰所から鎖が伸びている。巻き取る軸の位置を書こうとしたとき、レオナが鎖へ手を伸ばした。
「切った格子が落ちるよ。門を開ける前に、下へ誰も入れないで」
レオナは手を戻し、木戸と鎖を見比べた。
カヤは軸の形を図へ描き足し、今度は東門から続く道を見る。
道は少し先で浅い切通しへ入り、城壁から見えなくなっていた。片側には細い排水溝が沿っており、底を水が流れている。
「車、置けそう」
「ここまで連れてくればいい?」
「うん」
レオナが門と切通しを見比べる。
「帰る方も使えそうだね」
残るのは、兵の動きだった。
***
夜明け前にもう一度来ると、門の兵が交代していた。申し送りを終えた一人は詰所の奥へ入り、格子のそばには一人だけが残る。
朝の荷車は、木戸を開けて荷台を確かめてから通された。格子が下りるまで、カヤは鎖の動きを見ていた。二人は交代の時刻を書き留め、物陰を離れた。
***
森へ戻ると、カヤは図を広げた。
南から入り、東門を開け、助けた者を切通しへ出す。
フィンが道を指した。
「ここから追われたら?」
「門を押さえても、ずっとは無理だと思う」
「水はありますか」
「切通しの脇に排水溝があった。道まで流せれば、それなりに濡らせると思う」
フィンは杖へ目を落とした。
「私が水を使います。馬車が抜けたあとなら、追ってくる者だけを止められます」
その日の夕方、古い炭焼き場で桶の水を土へ流した。
木箱に腰掛けたフィンが杖を向けると、水面から白さが走り、薄い氷が地面を這っていく。
「その辺まで」
カヤが示した少し手前で止まる。
「これくらいなら?」
「足止めにはなるね」
「馬は嫌がると思います。走ってくる人も」
フィンは杖を下ろした。
「皆さんが抜けたあとなら使えます」
立ち上がろうとして顔を歪めると、レオナが腕を取った。
「やっぱり走れないね」
「走る予定はありません」
「立つ予定もないよ」
後ろからネラの声がした。
「足をつけてみただけで、治ったことにするんじゃないよ。今の腫れを見てごらん」
「確認しただけです」
「朝から三回目だよ」
フィンは黙って座り直した。
その間にも、エルフたちは水と布を荷車へ積み、ネラは薬を確認していた。
「何人連れてくるつもりだい」
「分からない。中にいる人は、できるだけ」
「なら、車は歩けない者を優先するよ」
ネラたちは炭焼き場で救出者を受け入れる。フィンは切通しに残り、追手が来たときだけ道を凍らせる。
レオナも古い金具で切る音を確かめ、切れた方を落とさずに受け止めることにした。
そこまで決まったころ、グレイホーンたちが現れた。
レオナとカヤが地面へ図を広げる。
「私とカヤが南の溝から入る。兵が交代した直後に東門を開ける。灯りを二回隠したら来て」
「しくじれば、こちらからは手が出せぬぞ」
「開かなかったら、合図しない」
「合図がなければ、いつまで待つ」
「夜が明けきるまで。それまでになかったら戻って」
レオナがカヤを見る。
「私たちも?」
「戻れるなら戻る。でも、外から助けに入るのはなし」
少し間を置いて、レオナは頷いた。
カヤは移送書類を図の横へ置く。
「この番号。セトたちが運ばれる予定だった収容棟だと思う。門を開けたら、まずこれを手掛かりに探す」
「ユナもいる?」
「分からない。でも、誰か見つけられれば場所を聞けるかもしれない」
グレイホーンが図を覗き込む。
「わしらは魔物を探す。門を押さえる者も要るな」
シグレへ顔を向けた。
「シグレ、何人か選べ」
「分かった」
カヤは鉄格子の軸を描いた。
「もう一つ。開けた格子をどうするか」
ザクが近づき、絵を指す。
「ここ。留める」
落ちていた木片を拾い、軸と枠の間へ斜めに差し込む仕草をした。
「ああ。上げてから、軸が戻らないように噛ませる?」
「二つ」
カヤが角材を見せると、ザクは首を振り、先を斜めに削る仕草をする。
ゴブリンが刃物を抜き、カヤが木を押さえた。二本の木片が楔の形になっていく。
「これなら切らなくていいんだ」
レオナが覗き込む。
カヤは出来上がった楔を袋の外へ結んだ。
レオナは周囲を見回す。
「あと、一つ。中の兵も、必要がなければ殺さないでほしい」
グレイホーンは少しの間レオナを見た。
「邪魔せぬ者まで追って斬る気はない。じゃが、剣を向けられてまで手加減するとは言わぬぞ」
「うん」
カヤはネラたちへ渡す図に、切通しの印を足した。中から連れてくる人数は、まだ空欄のままだった。
袋の外に結んだ二本の楔を確かめ、図を畳んだ。
***
夜が明ける少し前、附属院の炊事場にはまだ灯りが一つだけ残っていた。
東門近くにはグレイホーンたちが潜み、そこから離れた切通しでは、フィンが荷車の中で待っている。
レオナとカヤは南側の壁に沿って進んだ。
溝を前にして、カヤが腰の袋へ触れる。二本の楔を確かめた指が、その隣の筒へ当たった。
ほんの一瞬、手が止まる。
「カヤ?」
「ううん。行こう」
二人は溝へ降りた。
レオナが柵を留める金具へ剣を当て、細く魔力を通す。
金属が短く鳴った。
傾く柵をカヤが受け止め、二人で泥の上へ寝かせる。レオナが先に身体を滑り込ませた。
奥は低く、背中が石へ擦れた。湿った水の匂いの向こうから、煮た野菜の匂いがする。
カヤも続き、最後の曲がり角でレオナが止まった。
頭上にもう一枚の格子があり、その向こうには桶の底が見える。
「押せる?」
「桶が落ちるかも」
「少しだけ。手を入れる」
レオナが格子を持ち上げ、カヤができた隙間へ腕を入れる。
桶を少しずつ横へずらす。
中の水が揺れ、一滴だけ石床へ落ちた。
二人とも動かなかった。
遠くで何かが軋む。
足音ではない。
しばらく待ってから、カヤが小さく頷いた。
レオナはもう一度、格子へ力をかけた。




