第65話 名前を聞く
レオナが幌のかかった荷台へ上がると、奥のゴブリンが歯を剥き、両腕で頭を覆って柵へ背中を押しつけた。
幌の外から、低い声がした。
ゴブリンが顔を上げる。幌を持ち上げていたのはグレイホーンだった。灰色の角を見つめているうちに、頭を覆っていた腕が少しずつ下がっていく。
「もうよい。連れて帰る」
グレイホーンが言った。
怯えたゴブリンの隣には、もう一人のゴブリンが横たわっていた。右耳に、小さな穴が三つ並んでいる。
荷台へ近づいたシグレの足が止まった。
「……ザク」
返事はない。
身を乗り出そうとしたシグレを、グレイホーンが腕で制した。
「待て。息はある」
シグレは横たわる身体を見つめた。よく見ると、胸がかすかに上下している。
「先に運ぶぞ」
「分かっている」
そう答えてから、シグレはようやく刀を鞘へ戻した。
***
捕らわれていた四人は荷車に乗せたまま、まず道から離れることになった。カヤが木箱の車から水と布を集めている間、レオナは落馬した男のそばに転がっていた革鞄を拾う。中には小さな帳面と、折り畳まれた紙が何枚か入っていたが、レオナには読めなかったため、そのままカヤへ渡した。
動ける兵と御者には武器を捨てさせて道の脇へ縛り、倒れていた者もその近くへ寄せた。
レオナが彼らの足元へ水袋を置いている間、シグレは来た道を見ていた。
「残せば、知らせが行く」
「ああ」
「追ってくるぞ」
グレイホーンは、すでに小さくなった馬の姿を道の先へ追った。
「馬も逃げた。車が着かなければ、どのみち知れる」
それから捕虜を乗せた車を見る。
「着かねば知られるのは同じだ。ここで待って、追いつかれる方が悪い。運ぶぞ」
シグレは縛られた兵たちを一度見た。
「……分かった」
それ以上は言わず、車の後ろへ回った。
戻ってきたセイルが馬を引き、荷車を森へ向けた。森の入口で車輪が根に引っかかった。レオナとシグレが持ち上げようとすると、荷台で男が呻き、二人とも力を緩めた。
「待って。布を入れる」
カヤは男の肩と柵の間へ畳んだ布を挟み、それから足元を確かめた。男の足首から伸びた鎖は隣のゴブリンにつながっており、奪った鍵を一つずつ試しても錠は開かなかった。
レオナは剣を抜いた。
「切るね」
カヤが鎖を荷台の端へ寄せ、足から十分に離れていることを確かめる。レオナが刃へ魔力を通すと、輪の一つが割れて金属片が荷台へ落ちた。
その音にシグレが目を向けたが、何も言わず、残る鎖を確かめるカヤへ場所を譲った。
日が暮れる前に、道から離れた岩陰へ着いた。
見張りを立てて四人を車から下ろし、火を小さく起こす。もう一人の人間はまだ意識が戻らず、怯えていたゴブリンも火から少し離れたところで、セイルから受け取った水を両手で抱えていた。
レオナは耳に穴のあるゴブリンのそばへ座ると、水を入れた椀を差し出した。
「名前、ザクで合ってる?」
椀へ伸びかけた手が止まった。
「誰、聞いた」
「あの人」
レオナがシグレを示すと、ザクはそちらへ顔を向けた。シグレも黙って見返している。
「俺だ」
しばらくして、ザクの目がシグレの腰へ落ちた。
「刀」
「ある」
「折った?」
「折ってない」
「そう」
ザクはそれ以上聞かず、レオナの差し出した椀を両手で受け取った。シグレも何も言わなかったが、その場を離れず、ザクが水を飲むのを見ていた。
「私はレオナ。前にも、部屋で会ったよ」
「知ってる。来た」
「うん」
ザクは椀を膝へ置いた。
「また、来た」
レオナは頷いた。何か続けようとしたが、ザクがもう一度水を飲み始めたため、黙って隣に座っていた。
少し離れたところでは、カヤが施設から持ち出した紙を人間の男に見せていた。
「この名前、あなたですか」
「セトだ。……それ、持ってたのか」
男は紙へ目を落としたものの、処置の日付が並ぶところまで来ると顔を背けた。カヤはそれ以上見せずに紙を引き、今度は道で拾った革鞄から出てきた書類を広げる。
「ハル東附属院……」
カヤが顔を上げた。
「ここへ運ばれるところだったんですか」
「ああ。王宮の東にある。俺はそっちにもいた」
セトは一度、ほかの三人を見た。
「お前たちが逃げたあと、あそこにいた奴らを順番に移してる。俺たちも今朝、まとめて出された」
「全員、ハルへ?」
「たぶんな。少なくとも、俺が聞いたのはそうだ」
そこまで言ったところで、セトは咳き込み、椀へ口をつけた。カヤは急かさず、書類に目を落としたまま待つ。
「門の上に、割れた石の飾りがある。車はそこから中へ入る」
セトは息を整えてから続けた。
「今夜、着くはずだった」
書類にはハル東附属院という名と、収容棟らしい番号、受け取る者の名前が記されている。しかし、場所そのものを示すものはなかった。
「この建物の中、分かりますか」
「全部は知らない。俺たちは薬を飲まされるときだけ奥へ連れていかれた」
カヤは一度頷き、書類を持ってグレイホーンのところへ行った。
行き先を読んだグレイホーンは、しばらく紙を見たあとでセイルを呼ぶ。
「車が着かねば、いずれ捜しに出る。道の方にも見張りを置いてくれ。この者らを少し休ませたら、また動く」
セイルが頷いて離れると、近くにいたシグレが書類へ目を落とした。
「ほかの名前は」
「この紙にはないみたいです」
カヤが答えると、シグレはザクの方を一度見てから離れていった。
カヤがセトのそばへ戻ると、セトはその袖へ触れた。
「一緒にいた男は」
カヤが振り返る。
「盾を持った、背の高い」
「ラウル?」
セトが目を伏せたのを見て、火の向こうにいたレオナも顔を上げた。
「施設で見た。お前たちが逃げたあとだ。王の命令を偽って人を連れ込み、兵を傷つけたって、読み上げられてた」
「偽った?」
「俺が聞いたのは、そうだ」
カヤは筒から王の依頼書を抜きかけた。しかしセトは、その手元を見る前に続ける。
「中庭に出されてた。俺たちも窓から見えるところへ並べられて。次に逆らえば同じだって」
カヤの手が止まった。
「どうなったんですか」
セトは答える前に水を飲んだ。椀が歯へ当たり、小さな音がする。
「殺された。剣で」
火の向こうで、レオナの手も止まった。
カヤは男を見たまま動かなかった。
「間違い、ないですか」
「右腕を吊ってた。名前も、ラウルと呼ばれてた」
「何か言ってました?」
セトは首を振ると、自分の口へ手を当てた。
「布を噛まされてた」
カヤは抜きかけた依頼書を筒へ戻した。端が引っかかり、入れ直そうとしても、また同じところで折れかける。
隣へ来たレオナが筒を押さえた。
「いつですか」
カヤが尋ねると、セトは少し考えてから答えた。
「四、五日前だったと思う」
カヤは一度頷き、もう一度頷いてから、セトの前に置かれていた椀を取った。
「水、替えてきます」
「まだある」
「……はい」
椀を戻した拍子に、中の水が少しこぼれた。
レオナは何も言わずにカヤの横へ座った。少し離れたところでは、怯えていたゴブリンが火のそばまで寄ってきており、意識の戻らないもう一人の人間にはセイルが布を掛け直していた。
ザクが空になった椀を足元へ置くと、シグレがそれを拾い、水を足した。
その小さな音にカヤが顔を向ける。
しばらくしてから、レオナが言った。
「フィンにも、話さないと」
「うん」
カヤは筒を抱えたまま、火を見ていた。
「私、まだ聞いてないんだよ」
レオナが横を見る。
「どうして、あんなことしたのか」
カヤは返事を待たず、膝の間へ顔を伏せた。




