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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第八章

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第65話 名前を聞く

 レオナが幌のかかった荷台へ上がると、奥のゴブリンが歯を剥き、両腕で頭を覆って柵へ背中を押しつけた。


 幌の外から、低い声がした。


 ゴブリンが顔を上げる。幌を持ち上げていたのはグレイホーンだった。灰色の角を見つめているうちに、頭を覆っていた腕が少しずつ下がっていく。


「もうよい。連れて帰る」


 グレイホーンが言った。


 怯えたゴブリンの隣には、もう一人のゴブリンが横たわっていた。右耳に、小さな穴が三つ並んでいる。


 荷台へ近づいたシグレの足が止まった。


「……ザク」


 返事はない。


 身を乗り出そうとしたシグレを、グレイホーンが腕で制した。


「待て。息はある」


 シグレは横たわる身体を見つめた。よく見ると、胸がかすかに上下している。


「先に運ぶぞ」


「分かっている」


 そう答えてから、シグレはようやく刀を鞘へ戻した。


***


 捕らわれていた四人は荷車に乗せたまま、まず道から離れることになった。カヤが木箱の車から水と布を集めている間、レオナは落馬した男のそばに転がっていた革鞄を拾う。中には小さな帳面と、折り畳まれた紙が何枚か入っていたが、レオナには読めなかったため、そのままカヤへ渡した。


 動ける兵と御者には武器を捨てさせて道の脇へ縛り、倒れていた者もその近くへ寄せた。


 レオナが彼らの足元へ水袋を置いている間、シグレは来た道を見ていた。


「残せば、知らせが行く」


「ああ」


「追ってくるぞ」


 グレイホーンは、すでに小さくなった馬の姿を道の先へ追った。


「馬も逃げた。車が着かなければ、どのみち知れる」


 それから捕虜を乗せた車を見る。


「着かねば知られるのは同じだ。ここで待って、追いつかれる方が悪い。運ぶぞ」


 シグレは縛られた兵たちを一度見た。


「……分かった」


 それ以上は言わず、車の後ろへ回った。


 戻ってきたセイルが馬を引き、荷車を森へ向けた。森の入口で車輪が根に引っかかった。レオナとシグレが持ち上げようとすると、荷台で男が呻き、二人とも力を緩めた。


「待って。布を入れる」


 カヤは男の肩と柵の間へ畳んだ布を挟み、それから足元を確かめた。男の足首から伸びた鎖は隣のゴブリンにつながっており、奪った鍵を一つずつ試しても錠は開かなかった。


 レオナは剣を抜いた。


「切るね」


 カヤが鎖を荷台の端へ寄せ、足から十分に離れていることを確かめる。レオナが刃へ魔力を通すと、輪の一つが割れて金属片が荷台へ落ちた。


 その音にシグレが目を向けたが、何も言わず、残る鎖を確かめるカヤへ場所を譲った。


 日が暮れる前に、道から離れた岩陰へ着いた。


 見張りを立てて四人を車から下ろし、火を小さく起こす。もう一人の人間はまだ意識が戻らず、怯えていたゴブリンも火から少し離れたところで、セイルから受け取った水を両手で抱えていた。


 レオナは耳に穴のあるゴブリンのそばへ座ると、水を入れた椀を差し出した。


「名前、ザクで合ってる?」


 椀へ伸びかけた手が止まった。


「誰、聞いた」


「あの人」


 レオナがシグレを示すと、ザクはそちらへ顔を向けた。シグレも黙って見返している。


「俺だ」


 しばらくして、ザクの目がシグレの腰へ落ちた。


「刀」


「ある」


「折った?」


「折ってない」


「そう」


 ザクはそれ以上聞かず、レオナの差し出した椀を両手で受け取った。シグレも何も言わなかったが、その場を離れず、ザクが水を飲むのを見ていた。


「私はレオナ。前にも、部屋で会ったよ」


「知ってる。来た」


「うん」


 ザクは椀を膝へ置いた。


「また、来た」


 レオナは頷いた。何か続けようとしたが、ザクがもう一度水を飲み始めたため、黙って隣に座っていた。


 少し離れたところでは、カヤが施設から持ち出した紙を人間の男に見せていた。


「この名前、あなたですか」


「セトだ。……それ、持ってたのか」


 男は紙へ目を落としたものの、処置の日付が並ぶところまで来ると顔を背けた。カヤはそれ以上見せずに紙を引き、今度は道で拾った革鞄から出てきた書類を広げる。


「ハル東附属院……」


 カヤが顔を上げた。


「ここへ運ばれるところだったんですか」


「ああ。王宮の東にある。俺はそっちにもいた」


 セトは一度、ほかの三人を見た。


「お前たちが逃げたあと、あそこにいた奴らを順番に移してる。俺たちも今朝、まとめて出された」


「全員、ハルへ?」


「たぶんな。少なくとも、俺が聞いたのはそうだ」


 そこまで言ったところで、セトは咳き込み、椀へ口をつけた。カヤは急かさず、書類に目を落としたまま待つ。


「門の上に、割れた石の飾りがある。車はそこから中へ入る」


 セトは息を整えてから続けた。


「今夜、着くはずだった」


 書類にはハル東附属院という名と、収容棟らしい番号、受け取る者の名前が記されている。しかし、場所そのものを示すものはなかった。


「この建物の中、分かりますか」


「全部は知らない。俺たちは薬を飲まされるときだけ奥へ連れていかれた」


 カヤは一度頷き、書類を持ってグレイホーンのところへ行った。


 行き先を読んだグレイホーンは、しばらく紙を見たあとでセイルを呼ぶ。


「車が着かねば、いずれ捜しに出る。道の方にも見張りを置いてくれ。この者らを少し休ませたら、また動く」


 セイルが頷いて離れると、近くにいたシグレが書類へ目を落とした。


「ほかの名前は」


「この紙にはないみたいです」


 カヤが答えると、シグレはザクの方を一度見てから離れていった。


 カヤがセトのそばへ戻ると、セトはその袖へ触れた。


「一緒にいた男は」


 カヤが振り返る。


「盾を持った、背の高い」


「ラウル?」


 セトが目を伏せたのを見て、火の向こうにいたレオナも顔を上げた。


「施設で見た。お前たちが逃げたあとだ。王の命令を偽って人を連れ込み、兵を傷つけたって、読み上げられてた」


「偽った?」


「俺が聞いたのは、そうだ」


 カヤは筒から王の依頼書を抜きかけた。しかしセトは、その手元を見る前に続ける。


「中庭に出されてた。俺たちも窓から見えるところへ並べられて。次に逆らえば同じだって」


 カヤの手が止まった。


「どうなったんですか」


 セトは答える前に水を飲んだ。椀が歯へ当たり、小さな音がする。


「殺された。剣で」


 火の向こうで、レオナの手も止まった。


 カヤは男を見たまま動かなかった。


「間違い、ないですか」


「右腕を吊ってた。名前も、ラウルと呼ばれてた」


「何か言ってました?」


 セトは首を振ると、自分の口へ手を当てた。


「布を噛まされてた」


 カヤは抜きかけた依頼書を筒へ戻した。端が引っかかり、入れ直そうとしても、また同じところで折れかける。


 隣へ来たレオナが筒を押さえた。


「いつですか」


 カヤが尋ねると、セトは少し考えてから答えた。


「四、五日前だったと思う」


 カヤは一度頷き、もう一度頷いてから、セトの前に置かれていた椀を取った。


「水、替えてきます」


「まだある」


「……はい」


 椀を戻した拍子に、中の水が少しこぼれた。


 レオナは何も言わずにカヤの横へ座った。少し離れたところでは、怯えていたゴブリンが火のそばまで寄ってきており、意識の戻らないもう一人の人間にはセイルが布を掛け直していた。


 ザクが空になった椀を足元へ置くと、シグレがそれを拾い、水を足した。


 その小さな音にカヤが顔を向ける。


 しばらくしてから、レオナが言った。


「フィンにも、話さないと」


「うん」


 カヤは筒を抱えたまま、火を見ていた。


「私、まだ聞いてないんだよ」


 レオナが横を見る。


「どうして、あんなことしたのか」


 カヤは返事を待たず、膝の間へ顔を伏せた。


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