第63話 戻るために
カヤは筒から地図を出し、敷物の端へ広げた。昼に描いた線の一部は滲んでいたが、どこからどこへ歩いたのかは分かる。
「先に、あの二人を出せるかな」
カヤは施設へ続く線を指でなぞった。
「兵士は増えてると思う。私たちが逃げたのも、もう分かってるし」
壁にもたれていたフィンが、傷のある脚をゆっくり伸ばした。
「施設までの道は描けます。ユナさんを探すには、町の中を知る人が要ります。そこは分けて考えましょう」
「じゃあ、やっぱり場所が二つあるね」
カヤが地図から顔を上げる。
レオナは少し考えてから言った。
「グレイホーンに伝えてくれるって」
「ゴブリンのこと?」
「うん」
「来てくれるかな」
「分かんない。でも、会えたら頼んでみる」
フィンが小さく息をついた。
「人間まで助けてくれるでしょうか」
レオナはすぐには答えず、入口の向こうへ目を向けた。木々の間はもう暗く、見張りの立つ場所だけに灯りが見える。
「聞いてみる。嫌だって言われるかもしれないけど」
***
翌日の午後、セイルが小屋へやってきた。
「返事が来た。少し先まで出られるか」
レオナが立つと、カヤも筒を持った。フィンは杖へ手を伸ばしたものの、入口にいたネラに見られると、その手を止める。
「ここじゃ、駄目ですか」
「小屋の前までは呼べない。ほかの者も通る」
フィンは自分の脚を見下ろした。
「私も行きたいんです」
ネラが眉を寄せる。
「あんたが行って何をするんだい」
「戻るかどうかを決めるんですよね。なら、私の返事も聞いてください」
フィンは少し間を置いた。
「私も、戻りたいので」
ネラはしばらくフィンを見ていたが、やがてレオナへ顔を向けた。
「行くなら背負って。話す間も座らせるんだよ。脚はまだ使わせない」
「うん」
「話が長くなっても、暗くなる前には戻るんだよ」
三人が案内されたのは、沢を渡った先の窪地だった。倒木の脇には大柄なオーガが立っており、その後ろで枝が揺れると、木々の間から覚えのある灰色の角が現れた。
カヤの歩幅が、わずかに小さくなる。
グレイホーンは木の間から上体を出し、レオナを見た。
「戻ったか」
「うん」
その視線がレオナの手首へ落ちた。薬を塗られた跡の両側には、まだ赤みが残っている。そこから背負われているフィンへ目が移った。
「それで、人間の方はよく見えたか」
レオナは一度、自分の手首を見た。
「……うん。見てきた」
「そうか」
グレイホーンはそれ以上何も言わなかった。
「この人も一緒に逃げてきた」
レオナがフィンを下ろそうとすると、そばにいたオーガが倒木の脇へ平たい石を運んできた。カヤは大きな手の動きを目で追ってから、その上へ畳んだ布を置く。
「ありがとうございます」
オーガは答えず、一歩離れた。
フィンが腰を下ろしたのを確かめてから、レオナはグレイホーンを見上げた。
「あのね」
「耳のことは聞いた。ほかに何を覚えておる」
「右の耳に穴が三つあった。腕を留められてた。隣には人間の男の人もいて、二人とも身体に変な跡があった」
それまで黙っていたオーガが顔を動かした。
「耳の先は、欠けていたか」
「そこまでは見てない」
レオナが答える横で、カヤは筒から紙を取り出し、倒木の平らなところへ広げた。
「名前なら、あるかもしれません」
オーガが近づくと、カヤの肩がわずかに上がる。それでも紙から手は離さず、一番下の方を指した。
「この辺です。私たちには読み方が」
オーガは紙へ顔を寄せ、そのまま一か所を見つめた。
「ザク」
低い声が、そこで途切れた。
レオナが顔を上げる。
「知ってる?」
「川下にいた。鉄をいじる」
オーガは紙から目を離さなかった。
「俺の刀を直していた。何度もだ。あいつが捕らわれているなら、俺が行く」
「シグレ」
グレイホーンが呼ぶと、オーガはようやく顔を上げた。
「最後に会ったのはいつじゃ」
「雨が続く前だ。川を見に行ったまま戻らん」
シグレは再び紙へ目を落とした。
「この印は何だ」
「処置した日だと思います」
フィンが答える。
「私たちが入る前から、何度もありました」
グレイホーンの鼻から低く息が漏れた。シグレはしばらく日付の並びを見ていたが、やがて腰の刀の柄を握る。
「行く」
「待て」
グレイホーンが言った。
「ザクがいる」
「おるかもしれん、だ」
「なら確かめる」
「今から行って、どうする」
シグレがグレイホーンを見る。
「連れて帰る」
「入ったところで、ザクがおらねばどうする。兵も、置かれておる場所も、先に確かめねばならぬ」
シグレは答えず、森へ向き直った。
カヤが紙の端を押さえたまま、わずかに身を引いた。
「待ってください」
フィンの声に、シグレの足が止まる。
「私も戻りたいです」
シグレが振り返った。
「あそこには、まだ捕まっている人がいます。置いてきたままです」
「なら、なぜ止める」
フィンはすぐには答えず、傷のある脚へ手を置いた。
「一度、逃げるので精一杯だったからです」
シグレの視線が、その手へ落ちる。
「置いてきました。あそこに」
フィンは一度息をついた。
「逃げた道は説明できます。でも、今の兵の数は言えません。そこを確かめてから入りたい」
カヤが紙をフィンの方へ少し寄せる。フィンはその上へ目を落としてから、もう一度シグレを見た。
「だから、今度はちゃんと連れて帰りたいんです」
しばらく、沢を流れる水の音だけが聞こえた。
「その脚で、お前も戻るのか」
「歩けるようになったら」
フィンの返事を聞いても、シグレはしばらく動かなかった。やがて腰の刀の柄から手を離し、短く息を吐く。
「分かった」
フィンも小さく頷いた。
それまで紙を見ていたセイルが、二人の間へ声を挟んだ。
「先に外だけ見るなら、俺が行けるよ」
グレイホーンがそちらを向く。
「近づけるか」
「場所次第だけど、森から回って様子を見るくらいなら。人間の道には出ないようにする」
「一人で行く気か」
「いや。戻って、誰か一人連れてくる」
シグレは口を挟まなかった。
カヤが別の紙を広げる。
「中は、ここまで分かっています」
レオナも隣へしゃがみ、捕らわれていた部屋と、自分が連れていかれた場所を指した。
「二人がいたのはここ。私はこっち」
「ほかにも部屋がありました。でも、奥までは見ていません」
フィンが続けると、グレイホーンは地図へ顔を近づけた。
「兵は」
「逃げるときは、ここと、こっちから来ました」
カヤが二か所へ印をつける。
「逃げたあとなら、増えてるかもしれない」
「そうじゃろうな」
グレイホーンとシグレは、そのまま地図を見ていた。
説明が一通り終わっても、しばらく誰も口を開かなかった。
「そのゴブリンも、人間も、助けたい」
レオナが言うと、シグレの目が向いた。
「ユナも捕まった。私に、研究に協力するっていう紙へ名前を書かせるために」
「ユナとは誰じゃ」
「ニナの子孫。今はギルドにいる」
グレイホーンは、しばらく何も言わなかった。
「……あやつのか」
「うん」
その視線が、再びレオナの手首へ向く。
「おぬしは承知したのか」
「してない」
「そうか」
レオナは地図の端へ手を置いた。
「だから、戻りたい。手伝ってほしい」
すぐには返事がなかった。
グレイホーンは紙の上に引かれた線を見たあと、セイルへ目を向ける。
「まず外から見てこい。兵がどれほどおるか、どこから近づけるか。それを見てからじゃ」
「分かった」
セイルが頷く。
「一緒に来てくれるの?」
レオナが尋ねると、グレイホーンはシグレを見る。
「ザクが捕らわれておるなら、連れ戻す」
シグレが続けた。
「帰らぬ者がほかにもいる。ザクだけ探して終わりにはしない」
今度は、グレイホーンも止めなかった。
「おぬしらは、逃げてきた道を描いておけ。森へ入るところまででよい」
「夕方に取りに行くよ」
セイルが言った。
「分かった」
***
小屋へ戻る途中、カヤは沢を渡ったところで一度振り返った。木々の向こうに、グレイホーンたちの姿はもう見えない。
「ちゃんと、話を聞いてくれたね」
「グレイホーン?」
「うん。もっと、私たちも敵みたいに見られると思ってた」
レオナは背中のフィンを抱え直した。
「怒ってたよ」
「そうだけど、私たちに怒ってる感じじゃなかった」
カヤはしばらく森を見てから、筒の蓋へ手を置いた。
「あの紙、持ってきてよかったね」
「まだザク本人かは分からないけど」
「うん」
背中から、フィンの声がした。
「でも、確かめには行けます」
レオナは頷いて、また歩き出した。小屋が見えてきたところで、背中のフィンの身体が少しずれた。
「脚、痛い?」
「……少し」
「ネラに怒られるね」
「それは、たぶん」
***
小屋へ戻ると、ネラはフィンを敷物へ座らせ、そのまま脚を伸ばさせて布の端をめくった。傷の周りを確かめるうちに、眉間の皺が深くなる。
「少しじゃないだろう。座ってただけでも腫れるんだよ」
フィンがレオナを見ると、レオナもその視線を受けて少し困った顔をした。
「……聞こえてた?」
「聞こえてたよ」
ネラが布を巻き直す横で、カヤは筒を開ける。
「道だけ描いたら、今日は終わりにするから」
「その子は寝かせておきな」
「でも――」
「覚えてるところを言わせな。描くのまで、その子にやらせなくていいだろう」
フィンは一度口を閉じたあと、諦めたように敷物へ身体を預けた。
カヤが紙を広げ、レオナもその隣へ座る。
「ここは描かない方がいいよね」
「ええ。森へ入るところまでで」
カヤが最初の線を引く。
「ここ、右だっけ」
「右です」
横になったままフィンが答えた。
「左じゃなかった?」
「左へ行こうとして、レオナが戻ったところです」
「あ、木が倒れてたところか」
レオナがその少し先を指す。
「そこで休んだ。水があったよ」
カヤは小さな印を足した。
三人で記憶を確かめながら、途切れていた線を少しずつつないでいく。
日が傾き始めた頃、カヤが鉛筆を置いた。
「ここまでかな」
フィンは敷物から紙を眺め、少し考えてから頷いた。
「ええ。森へ入るところまでは、これで分かると思います」
カヤは丸まろうとする紙の端へ、小さな石を一つ置いた。




