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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第八章

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第63話 戻るために

 カヤは筒から地図を出し、敷物の端へ広げた。昼に描いた線の一部は滲んでいたが、どこからどこへ歩いたのかは分かる。


「先に、あの二人を出せるかな」


 カヤは施設へ続く線を指でなぞった。


「兵士は増えてると思う。私たちが逃げたのも、もう分かってるし」


 壁にもたれていたフィンが、傷のある脚をゆっくり伸ばした。


「施設までの道は描けます。ユナさんを探すには、町の中を知る人が要ります。そこは分けて考えましょう」


「じゃあ、やっぱり場所が二つあるね」


 カヤが地図から顔を上げる。


 レオナは少し考えてから言った。


「グレイホーンに伝えてくれるって」


「ゴブリンのこと?」


「うん」


「来てくれるかな」


「分かんない。でも、会えたら頼んでみる」


 フィンが小さく息をついた。


「人間まで助けてくれるでしょうか」


 レオナはすぐには答えず、入口の向こうへ目を向けた。木々の間はもう暗く、見張りの立つ場所だけに灯りが見える。


「聞いてみる。嫌だって言われるかもしれないけど」


***


 翌日の午後、セイルが小屋へやってきた。


「返事が来た。少し先まで出られるか」


 レオナが立つと、カヤも筒を持った。フィンは杖へ手を伸ばしたものの、入口にいたネラに見られると、その手を止める。


「ここじゃ、駄目ですか」


「小屋の前までは呼べない。ほかの者も通る」


 フィンは自分の脚を見下ろした。


「私も行きたいんです」


 ネラが眉を寄せる。


「あんたが行って何をするんだい」


「戻るかどうかを決めるんですよね。なら、私の返事も聞いてください」


 フィンは少し間を置いた。


「私も、戻りたいので」


 ネラはしばらくフィンを見ていたが、やがてレオナへ顔を向けた。


「行くなら背負って。話す間も座らせるんだよ。脚はまだ使わせない」


「うん」


「話が長くなっても、暗くなる前には戻るんだよ」


 三人が案内されたのは、沢を渡った先の窪地だった。倒木の脇には大柄なオーガが立っており、その後ろで枝が揺れると、木々の間から覚えのある灰色の角が現れた。


 カヤの歩幅が、わずかに小さくなる。


 グレイホーンは木の間から上体を出し、レオナを見た。


「戻ったか」


「うん」


 その視線がレオナの手首へ落ちた。薬を塗られた跡の両側には、まだ赤みが残っている。そこから背負われているフィンへ目が移った。


「それで、人間の方はよく見えたか」


 レオナは一度、自分の手首を見た。


「……うん。見てきた」


「そうか」


 グレイホーンはそれ以上何も言わなかった。


「この人も一緒に逃げてきた」


 レオナがフィンを下ろそうとすると、そばにいたオーガが倒木の脇へ平たい石を運んできた。カヤは大きな手の動きを目で追ってから、その上へ畳んだ布を置く。


「ありがとうございます」


 オーガは答えず、一歩離れた。


 フィンが腰を下ろしたのを確かめてから、レオナはグレイホーンを見上げた。


「あのね」


「耳のことは聞いた。ほかに何を覚えておる」


「右の耳に穴が三つあった。腕を留められてた。隣には人間の男の人もいて、二人とも身体に変な跡があった」


 それまで黙っていたオーガが顔を動かした。


「耳の先は、欠けていたか」


「そこまでは見てない」


 レオナが答える横で、カヤは筒から紙を取り出し、倒木の平らなところへ広げた。


「名前なら、あるかもしれません」


 オーガが近づくと、カヤの肩がわずかに上がる。それでも紙から手は離さず、一番下の方を指した。


「この辺です。私たちには読み方が」


 オーガは紙へ顔を寄せ、そのまま一か所を見つめた。


「ザク」


 低い声が、そこで途切れた。


 レオナが顔を上げる。


「知ってる?」


「川下にいた。鉄をいじる」


 オーガは紙から目を離さなかった。


「俺の刀を直していた。何度もだ。あいつが捕らわれているなら、俺が行く」


「シグレ」


 グレイホーンが呼ぶと、オーガはようやく顔を上げた。


「最後に会ったのはいつじゃ」


「雨が続く前だ。川を見に行ったまま戻らん」


 シグレは再び紙へ目を落とした。


「この印は何だ」


「処置した日だと思います」


 フィンが答える。


「私たちが入る前から、何度もありました」


 グレイホーンの鼻から低く息が漏れた。シグレはしばらく日付の並びを見ていたが、やがて腰の刀の柄を握る。


「行く」


「待て」


 グレイホーンが言った。


「ザクがいる」


「おるかもしれん、だ」


「なら確かめる」


「今から行って、どうする」


 シグレがグレイホーンを見る。


「連れて帰る」


「入ったところで、ザクがおらねばどうする。兵も、置かれておる場所も、先に確かめねばならぬ」


 シグレは答えず、森へ向き直った。


 カヤが紙の端を押さえたまま、わずかに身を引いた。


「待ってください」


 フィンの声に、シグレの足が止まる。


「私も戻りたいです」


 シグレが振り返った。


「あそこには、まだ捕まっている人がいます。置いてきたままです」


「なら、なぜ止める」


 フィンはすぐには答えず、傷のある脚へ手を置いた。


「一度、逃げるので精一杯だったからです」


 シグレの視線が、その手へ落ちる。


「置いてきました。あそこに」


 フィンは一度息をついた。


「逃げた道は説明できます。でも、今の兵の数は言えません。そこを確かめてから入りたい」


 カヤが紙をフィンの方へ少し寄せる。フィンはその上へ目を落としてから、もう一度シグレを見た。


「だから、今度はちゃんと連れて帰りたいんです」


 しばらく、沢を流れる水の音だけが聞こえた。


「その脚で、お前も戻るのか」


「歩けるようになったら」


 フィンの返事を聞いても、シグレはしばらく動かなかった。やがて腰の刀の柄から手を離し、短く息を吐く。


「分かった」


 フィンも小さく頷いた。


 それまで紙を見ていたセイルが、二人の間へ声を挟んだ。


「先に外だけ見るなら、俺が行けるよ」


 グレイホーンがそちらを向く。


「近づけるか」


「場所次第だけど、森から回って様子を見るくらいなら。人間の道には出ないようにする」


「一人で行く気か」


「いや。戻って、誰か一人連れてくる」


 シグレは口を挟まなかった。


 カヤが別の紙を広げる。


「中は、ここまで分かっています」


 レオナも隣へしゃがみ、捕らわれていた部屋と、自分が連れていかれた場所を指した。


「二人がいたのはここ。私はこっち」


「ほかにも部屋がありました。でも、奥までは見ていません」


 フィンが続けると、グレイホーンは地図へ顔を近づけた。


「兵は」


「逃げるときは、ここと、こっちから来ました」


 カヤが二か所へ印をつける。


「逃げたあとなら、増えてるかもしれない」


「そうじゃろうな」


 グレイホーンとシグレは、そのまま地図を見ていた。


 説明が一通り終わっても、しばらく誰も口を開かなかった。


「そのゴブリンも、人間も、助けたい」


 レオナが言うと、シグレの目が向いた。


「ユナも捕まった。私に、研究に協力するっていう紙へ名前を書かせるために」


「ユナとは誰じゃ」


「ニナの子孫。今はギルドにいる」


 グレイホーンは、しばらく何も言わなかった。


「……あやつのか」


「うん」


 その視線が、再びレオナの手首へ向く。


「おぬしは承知したのか」


「してない」


「そうか」


 レオナは地図の端へ手を置いた。


「だから、戻りたい。手伝ってほしい」


 すぐには返事がなかった。


 グレイホーンは紙の上に引かれた線を見たあと、セイルへ目を向ける。


「まず外から見てこい。兵がどれほどおるか、どこから近づけるか。それを見てからじゃ」


「分かった」


 セイルが頷く。


「一緒に来てくれるの?」


 レオナが尋ねると、グレイホーンはシグレを見る。


「ザクが捕らわれておるなら、連れ戻す」


 シグレが続けた。


「帰らぬ者がほかにもいる。ザクだけ探して終わりにはしない」


 今度は、グレイホーンも止めなかった。


「おぬしらは、逃げてきた道を描いておけ。森へ入るところまででよい」


「夕方に取りに行くよ」


 セイルが言った。


「分かった」


***


 小屋へ戻る途中、カヤは沢を渡ったところで一度振り返った。木々の向こうに、グレイホーンたちの姿はもう見えない。


「ちゃんと、話を聞いてくれたね」


「グレイホーン?」


「うん。もっと、私たちも敵みたいに見られると思ってた」


 レオナは背中のフィンを抱え直した。


「怒ってたよ」


「そうだけど、私たちに怒ってる感じじゃなかった」


 カヤはしばらく森を見てから、筒の蓋へ手を置いた。


「あの紙、持ってきてよかったね」


「まだザク本人かは分からないけど」


「うん」


 背中から、フィンの声がした。


「でも、確かめには行けます」


 レオナは頷いて、また歩き出した。小屋が見えてきたところで、背中のフィンの身体が少しずれた。


「脚、痛い?」


「……少し」


「ネラに怒られるね」


「それは、たぶん」


***


 小屋へ戻ると、ネラはフィンを敷物へ座らせ、そのまま脚を伸ばさせて布の端をめくった。傷の周りを確かめるうちに、眉間の皺が深くなる。


「少しじゃないだろう。座ってただけでも腫れるんだよ」


 フィンがレオナを見ると、レオナもその視線を受けて少し困った顔をした。


「……聞こえてた?」


「聞こえてたよ」


 ネラが布を巻き直す横で、カヤは筒を開ける。


「道だけ描いたら、今日は終わりにするから」


「その子は寝かせておきな」


「でも――」


「覚えてるところを言わせな。描くのまで、その子にやらせなくていいだろう」


 フィンは一度口を閉じたあと、諦めたように敷物へ身体を預けた。


 カヤが紙を広げ、レオナもその隣へ座る。


「ここは描かない方がいいよね」


「ええ。森へ入るところまでで」


 カヤが最初の線を引く。


「ここ、右だっけ」


「右です」


 横になったままフィンが答えた。


「左じゃなかった?」


「左へ行こうとして、レオナが戻ったところです」


「あ、木が倒れてたところか」


 レオナがその少し先を指す。


「そこで休んだ。水があったよ」


 カヤは小さな印を足した。


 三人で記憶を確かめながら、途切れていた線を少しずつつないでいく。


 日が傾き始めた頃、カヤが鉛筆を置いた。


「ここまでかな」


 フィンは敷物から紙を眺め、少し考えてから頷いた。


「ええ。森へ入るところまでは、これで分かると思います」


 カヤは丸まろうとする紙の端へ、小さな石を一つ置いた。


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