第61話 帰れない町
暗くなるまで歩き、三人は斜面の窪みへ入った。
倒れた木の根が、上からの視線を遮っていた。カヤは枝を二本ずらし、外から見える隙間を塞ぐ。
レオナがフィンを下ろすと、彼は歯を食いしばった。
「ごめん」
「大丈夫です」
カヤは膝をついてフィンの脚を確かめた。布の表まで血が滲んでいるが、さっきほど広がってはいない。水を少し使って手を洗い、外側の布を取り替えていく。
その横で、レオナは手元の荷物を探った。あるのは自分の袋とカヤの筒、それに背負うときに預かったフィンの杖だった。
エリナの荷物は、荷台に載せたままだった。
「薬、こっちにはない」
「私が持った分がある」
カヤが小さな瓶を出した。底に少しだけ液が残っている。レオナがそれを見ると、カヤは彼女から目を逸らしてフィンへ瓶を渡した。
「飲める?」
「はい」
フィンは受け取ったものの、すぐには口をつけなかった。
「カヤの腕は」
「浅いから」
「でも」
「今は、そっちが先」
フィンは頷いた。
外の道を馬が通り、カヤがすぐに灯りを消した。三人は動かずに待つ。蹄の音はほどなく遠ざかったが、誰も灯りをつけ直さなかった。
***
翌朝、フィンは立とうとして座り込んだ。杖を地面へ突き、もう一度体重をかけようとしたが、顔から血の気が引く。
「背負うよ」
レオナが前へしゃがんだ。
「すみません」
「謝らなくていい」
答えてから、レオナは黙った。
カヤは荷物をまとめ、昨夜の跡に枯れ葉を戻すと、斜面の下を確かめた。
「街道を使うと、門まで見通されるよ。少し遠回りでも、外から近づこう」
「ユナに話したい」
レオナが言った。
「うん。私も」
カヤは道の先を見た。
「誰か連れて、戻ろう」
少しして、続けた。
「エリナも、あそこにいるから」
レオナは頷いた。
歩き始めてからも、何度も足が止まった。フィンを下ろして休み、布を確かめ、水を飲ませる。昼を過ぎても町は見えなかった。
休憩のあとで荷物を分け直していると、カヤの袋から一枚の紙が落ちた。施設で抜き取ったものだった。
レオナが拾う。
「あの二人の?」
「うん」
「持ってきたんだ」
「名前も処置の跡も載っています。口で説明するだけより、あそこで見たことを伝えられます」
人間の男の名前の下には、ゴブリンのものらしい短い名前も書かれていた。それぞれの名前に、番号と処置の日付が続いている。
レオナは紙の端を持ったまま言った。
「名前、聞いてなかった」
カヤが受け取り、折り目を伸ばす。
「また会えたら、聞こう」
そう言って袋へしまった。
***
ハルの屋根が見えたのは、さらに翌日の昼前だった。
三人は畑の縁で足を止めた。門へ続く道には人と荷車が並び、兵士が一台ずつ荷を開けさせている。
「ここで待ってて」
カヤはレオナの肩から筒を取り、自分の荷物を地面へ置いた。
「門の近くまで見てくる。町には入らない」
「一人で?」
「二人ともここにいて。私も近づきすぎないから」
レオナはフィンを木陰へ下ろした。
「戻ってきてね」
カヤは一度こちらを見て、「戻るよ」と答えた。
畑沿いを歩いていく背中を、レオナは枝の隙間から見送った。
しばらくして、フィンが杖を横へ置いた。
「ラウルは、何と言っていたんですか」
レオナが顔を向ける。
「部屋へ行くときです」
「話を聞くだけだって」
「そうですか」
「でも、出ようとしたら、手をつかまれた」
レオナは左手首を見た。金属帯で擦れたところが、赤く腫れている。
「放してって、言ったんだけど」
フィンはその手首を見たまま黙っていた。
「その後、一度だけ外で呼ばれた。扉が少し開いて、すぐ閉まった。出たときには、もういなかった」
フィンはしばらく黙り、やがて目を閉じた。
「私たちには、すぐ戻ると」
レオナは何も言わなかった。
***
カヤが戻ってきたとき、その後ろには小さな荷車を引いた女がいた。
フィンが杖を取る。
「ギルドの人。門の外で、私たちを探してたって」
カヤが先に言った。
最初にギルドを訪ねたとき、レオナの名を呼んだ受付の女だった。道から見えないところまで荷車を寄せると、フィンの脚に目を止め、積んでいた袋から布と水を取り出す。
「清潔な布です。あと、水。薬は持っていません」
「ありがとうございます」
フィンが答えた。
レオナは立ち上がり、女を見る。
「ユナは?」
女はすぐには答えなかった。少し視線を落としてから、口を開く。
「今朝、連れていかれました」
「どこに」
「王宮の方です。私が見たのは、通りへ出るところまで」
レオナは木の幹へ手をついた。
その横で、カヤが畳んだ紙を取り出した。端は乱暴に破られている。
「門の手前に、これがあった」
書かれていたのは、レオナ、カヤ、フィンの三人の名だった。その下には、王家の施設を損壊し、管理下の者を連れ出そうとした、とある。見つけた者は兵士へ知らせること。匿った者も処罰すること。
ラウルとエリナの名はなかった。
「私たちが、あそこでしたことは――」
カヤは紙を強く握った。
「こんなのじゃない」
女が頷いた。
「ユナさんも、そう言っていました」
荷車の板の隙間から、今度は別の紙を取り出す。
「昨日のうちに、ギルドへ持ち込まれたものです。署名するように、と」
紙には、レオナが王家の研究へ自ら長期協力を申し出た、と書かれていた。
「私、言ってない」
「ユナさんもそう言いました。それで、署名を断ったんです」
フィンが紙を受け取り、王の印と、空欄の署名欄を確かめた。
「これも、持っていていいですか」
「そのために持ってきました」
カヤが手配書と重ね、筒へ入れた。
レオナが女を見る。
「私たちと話して、大丈夫なの?」
「見つかったら、たぶん」
女はそこで口を閉じ、荷車へ目を落とした。
「でも、ユナさんが連れていかれるのを見て……戻ってくる皆さんに、知らせないとと思って」
カヤが荷車の取っ手へ手をかける。
「もう戻って。布、ありがとう」
「治療師を呼びたいけれど、町の中は兵士が聞いて回っています。誰を信じていいか、私には」
「分かった。無理しないで」
女は頷いたが、すぐには行かなかった。
「エリナさんと、ラウルさんは?」
カヤの手が取っ手から離れた。
「エリナは、死んだ」
女が息を止めた。
「ラウルは、向こうにいる。どうなったかは知らない」
カヤはそれ以上言わず、荷車から一歩退いた。
***
女が去った後も、レオナは町を見ていた。
「ユナのいる場所を、確かめたい」
フィンが顔を上げる。
「今、行くんですか」
「分かんない。でも、ここから離れたら」
「今行っても、どこにいるか分かりません。私も歩けない。何か起きても、ついていけません」
レオナは彼の脚を見た。
カヤは新しい布を用意しながら言った。
「ドルンの工房も、今は頼れないかもしれない」
「どうして」
「門の近くで、工房の印がある箱を積んだ車を見た。そばに二人、手を縛られた人がいた」
フィンが彼女を見る。
「工房の人だったんですか」
「分かんない。荷を渡せって言われて、一人が『人を留めるために作ったんじゃない』って怒ってた。そこで兵士に口を塞がれた」
レオナは左手首を握った。
カヤは包帯を巻き直し、端を結ぶ。
「リードは?」
「遠すぎます。この脚では、宿場を避けて進めません」
「そっか」
カヤが水袋の口を閉じた。
レオナはもう一度町を見て、畑の陰から一歩だけ出た。遠くには、門へ向かう荷車の列がまだ続いている。
背後で杖が地面を擦り、続いてフィンが息を詰める音がした。
振り返ると、フィンは杖へ体重を預けていた。傷ついた脚を地面につけようとしていたが、すぐに浮かせる。
レオナはしばらく彼を見てから、畑の陰へ戻った。
「森へ行こう」
「どこの?」
「前にいた、エルフの里」
カヤが顔を上げる。
「人間を、入れてくれるかな」
レオナは少し黙った。
「頼んでみる。二人も一緒に」
カヤは目を伏せたが、やがてフィンの杖と荷物をまとめて持ち上げた。
「そっちへ行こう」
フィンも頷く。
「今は、治療を受けられる場所が必要です」
レオナは彼の前へしゃがんだ。背中へ腕が回るのを待って立ち上がる。
もう一度だけ、屋根の並ぶ方を見た。
カヤは袋を肩にかけ、先に畑の陰へ入っていく。
門を目指す荷車の列から離れ、三人は森の方へ歩き出した。




