第60話 連れて帰る
レオナの手の下で、布が濡れていった。
「これでいい?」
エリナは小さく頷いた。右手を自分の脇へ寄せると、指の間に淡い光がともる。
すぐに消えた。
彼女は息を整え、もう一度手を当てた。
カヤが荷物を開ける。薬の包みを幾つか出し、エリナに見せた。
「どれ?」
「小さい、瓶を……」
カヤは栓を抜いた。
エリナの頭を支え、口元へ寄せる。少し飲んだところで咳き込み、残りが顎を伝った。
「ごめん」
「大丈夫、です」
エリナは目を閉じた。
扉の外で、兵士が動く音がした。
フィンが杖を向ける。荷台が扉へ押しつけられ、軋んだ。
「長くは、持ちません」
彼の脚にも血が滲んでいた。杖を握ったまま、傷ついた方の足だけを少し後ろへ引いている。
エリナが顔をそちらへ向けた。
「脚は……」
「さっきより、血は止まっています。自分の方を」
フィンが答えた。
レオナは傷を押さえる手へ力を込めた。
「私の力、使えない?」
エリナが薄く目を開けた。
「力は、まだ……あります」
彼女の指が、傷の周りを少しずつ動いた。
「中が、うまく……」
言葉が途切れた。
レオナはそれ以上聞かなかった。エリナの手が動く場所を避け、布を押さえ続けた。
カヤは奥の低い戸を開けていた。冷たい空気が入り、水音が強くなる。
「外に出る。坂の下、洗い場みたいなところ」
「人は?」
「今は見えない。でも、上に窓がある」
カヤは戻り、別の荷台を引き寄せた。布を外すと、四隅に車輪がついた狭い台だった。
「これに乗せよう。外に出れば、まだ……」
「待って」
エリナが言った。
カヤの手が止まる。
「少し、待ってください」
エリナは傷へ手を当て直した。今度は光が続いた。
レオナはその顔を見ていた。
眉間に力が入り、閉じた目の端から涙が落ちる。
カヤはエリナの手が届く場所へ、薬の包みを並べた。
「どれでも取るから」
返事はなかった。
扉が一度、内側へ跳ねた。
フィンが杖を両手で握り、壁際の机を動かして荷台の後ろへ重ねる。
「レオナ、そちらは」
「まだ、治してる」
レオナが答えた。
エリナの光が弱くなった。
彼女は手を離し、天井へ顔を向けた。口を開くが、吸う息が短い。
「エリナ?」
カヤが顔を近づけた。
「ここにいるよ」
エリナの目が動いた。カヤを見て、それからレオナを見る。
唇が何かの形になった。
「何?」
レオナは身をかがめた。
声は聞こえなかった。
エリナが、もう一度息を吸った。
傷へ当てていた右手が、床へ落ちた。
レオナはその手を戻した。
「ここ。さっきのところ」
光はともらなかった。
カヤが肩を揺すり、すぐにやめた。
「エリナ」
フィンは杖を脇へ置き、床を這うようにエリナへ近づいた。
手首に触れ、それから首元へ指を移す。
長い間、そのままだった。
「フィン」
カヤが呼んだ。
彼は指の位置を変えた。
レオナは傷を押さえていた。手の下の布はもう、これ以上色が濃くならなかった。
フィンの手が下がった。
「……もう」
続きを言わなかった。
「何かできるでしょ」
カヤは薬の包みを一つ持ち上げた。
「まだ、こんなにある」
フィンは包みを見たが、受け取らなかった。
廊下で足音が増えた。
レオナはエリナの胸を見た。
しばらく待っても、次の息は来なかった。
「連れて帰る」
レオナが言った。
カヤは頷いた。開けたままの瓶に栓をし、自分の袋へ入れる。
「うん」
***
エリナを荷台へ寝かせた。
レオナが身体を持ち上げ、その下へカヤが布を敷く。揺れても落ちないよう帯を回そうとして、カヤの手が止まった。
「きつくないかな」
誰も答えなかった。
カヤはしばらく帯を持ったままでいたが、やがて緩まない程度に締め、解けないことを確かめた。
「ラウルは?」
レオナが聞くと、カヤは部屋の奥にある低い戸口へ目を向けた。
「戻ってこなかった。今どこにいるかも、分からない」
レオナも廊下の方を見た。扉の向こうからは兵士の声が聞こえていたが、ラウルの声はない。
レオナは床の剣を腰へ戻した。エリナの荷物を荷台の端へ載せている間に、フィンが壁へ手をついて立ち上がる。顔をしかめて傷ついた脚を何度か床へつけたが、体重をかけると膝が揺れた。
「私につかまって」
カヤが左肩を差し入れた。
「腕は」
「そっちじゃないから」
フィンは一度首を振ったが、もう一歩踏み出したところで、カヤの肩へ手を置いた。
レオナは荷台を押した。
低い戸口をくぐると、通路はすぐに高さを取り戻し、緩い下り坂になっていた。レオナが荷台を押して先を進み、その後ろを、フィンを支えたカヤがゆっくりと下ってくる。最初は足を引きずりながら自分で歩いていたフィンも、坂を下るうちに、少しずつカヤへ預ける体重が増えていった。
坂の先で通路が開けた。
そこは石壁に囲まれた洗い場らしく、細い水路と石壁のあいだを、荷車が一台通れるほどの石敷きの道が続いていた。
道の先には、太い鎖で吊られた鉄格子が天井近くまで引き上げられている。格子の下には、それを受ける細い溝が道を横切り、その向こうにも水路沿いの道が続いていた。
「あそこから行けそう」
カヤが鉄格子を指した。
ほかに進めそうな場所はない。
「先に行って」
レオナが言うと、カヤはフィンを支えたまま水路脇の道へ進んだ。
レオナも荷台を押して後を追う。石の継ぎ目を越えるたびに車輪が跳ね、そのたびにエリナの身体も小さく揺れた。頭の下へ入れた布がずれたところで足を止め、直そうと身を屈める。
頭上で窓の開く音がした。
「止まれ!」
声とほとんど同時に、矢が石床で弾けた。
レオナは荷台から手を離して窓を見上げた。弓を構えていた兵士の胸元を押すと、男の姿が窓の奥へ消える。
「行って!」
カヤはフィンを急かし、二人で鉄格子の下をくぐった。
レオナも荷台を押して続こうとしたところで、頭上から鎖の走る音が響いた。
鉄格子が落ち始める。
レオナはすぐに片手を向け、下から力を加えた。格子が途中で止まる。
「そのまま行って!」
カヤがフィンを連れて格子の向こうへ進む間に、レオナは荷台の前へ回り、もう一方の手で引き棒をつかんだ。格子を押し上げたまま荷台を引くと、引き棒が格子の下を越え、前の車輪が溝へ近づいた。
もう少しだった。
前輪の一つが、格子の手前側で溝へ落ちた。荷台が大きく傾き、レオナは慌てて引き棒を持ち上げる。
「待って、今――」
足で車輪を押してみるが、溝の縁に引っかかって動かない。
背後で戸の開く音がした。
兵士たちが、先ほど通ってきた坂から洗い場へ出てくる。
格子の向こうで、フィンの傷を負った脚が崩れた。カヤが支えようとしたものの、急にかかった体重を受けきれず、二人は道を横切るようによろめき、水路の縁まで出た。
「フィン!」
カヤが腕を引いたが、その足まで滑った。二人の身体が水路へ傾く。
レオナは荷台の引き棒を放した。
格子を押し止めたまま、その下を駆け抜ける。抜けたところで力を解き、倒れかけたフィンの上着をつかむと、同時にカヤの背を壁側へ押した。
二人の身体が石敷きの道へ戻る。
背後で鉄が落ちた。
続いて、木の割れる乾いた音が響く。
レオナが振り返ると、落ちた格子が荷台の引き棒を途中で挟み、折っていた。
エリナは向こう側にいた。
レオナは剣を抜いた。
「ここで待ってて」
格子へ戻り、一本の鉄棒へ刃を当てる。魔力を通して上下を切り離し、脇へ倒してから隣の一本へ刃を移した。
上から弦の鳴る音がした。
レオナが身を引くと、矢は背後の石壁へ当たり、フィンの肩のすぐそばで砕けた。
洗い場では、追いついた兵士が荷台へ手をかけている。
「触らないで!」
レオナが叫んだ。
兵士は答えず、荷台を洗い場の奥へ引き戻した。折れた引き棒が格子の下を擦りながら抜け、荷台が遠ざかっていく。
最後まで見えていたのは、エリナの靴だった。
それも戸口の奥へ消え、車輪の音だけが遠ざかっていく。
レオナは切りかけた鉄棒を握った。
あと一本。
「レオナ!」
カヤの声で振り向いた。
フィンは壁にもたれたまま地面へ座り込んでいた。脚に巻いていた布がずれ、傷口からまた血が滲んでいる。カヤが押さえているが、フィンは立ち上がれそうになかった。
「傷、開いてる。レオナ、こっち持って」
レオナは格子へ手をかけたまま、荷台が消えた戸口を見た。
それから手を離した。
フィンのそばへ戻り、カヤの手と入れ替わるように傷の上へ布を押し当てる。カヤは荷物から新しい布を引き出して巻き始めたが、何度も指が滑り、そのたびに結び直した。
「エリナを……」
レオナは言った。
その先が出なかった。
「……分かってる」
カヤは顔を上げずに答えた。
格子の向こうでは、兵士たちが鎖を巻き上げ始めていた。
***
レオナはフィンを背負い、カヤが残り少なくなった灯りを持って、水路脇の暗い道をそのまま進んだ。
背後から追手の声が聞こえるたびに足を速めたが、傷を負った脚が揺れないよう、レオナは何度もフィンを背負い直した。どこまで続いているのかは分からず、水の流れる音だけが暗がりの先まで続いている。
やがて、前方に薄い光が見えた。
近づくと、水路沿いの道を鉄柵が塞いでいた。その向こうには草が生え、傾きかけた日の光が差し込んでいる。
レオナはフィンを一度下ろし、剣で鉄を切った。人が通れるだけの隙間を作って外へ出ると、夕方の光が目に痛いほど明るかった。
上の方から人の声が聞こえる。
カヤはすぐに草の深い方へ入り、レオナもフィンを背負い直して後を追った。
斜面をしばらく下ったところで、レオナは一度だけ振り返った。
水路の口は、低い枝に隠れてもう見えなかった。
背中で、フィンが息をした。
レオナは彼を背負い直し、カヤのつけた足跡を追った。




