第57話 今も使われている場所
エリナが壁へ顔を寄せた。
もう一度、咳が聞こえた。短く途切れたあと、息を吸う音が続く。
「人がいます」
ラウルは壁を見た。
「開けられそうか?」
カヤが床の擦り跡をたどる。
「こっちへ開く扉だね。でも、こっち側に開けるものがない」
壁には取っ手も鍵穴もなく、継ぎ目は見えるものの、指をかけられるほどの隙間もなかった。
フィンが灯りを下げる。先ほど見つけた新しい金属板が、壁の下へ入り込んでいる。
「向こう側から閉めたのかもしれません。こちらから開けるには、別の方法が要りますね」
ラウルが壁を叩いた。
「依頼で来た者です。誰かいますか」
返事はなかった。
代わりに、また咳が聞こえる。
レオナが剣の柄に手をかけた。
「切っていい?」
「扉ごとか?」
「ううん。ここだけ」
金属板が入り込む、壁の端を指す。
ラウルは少し考えてから頷いた。
「開かなくなるほど壊すなよ」
「分かった」
レオナが剣を抜き、壁の端へ刃を当てて魔力を通す。
細く光った刃が石の縁へ沈み、途中で硬いものに当たった。
レオナが力を込める。
甲高い音がして、壁の中で何かが落ちた。
石の板が、わずかに手前へ動く。
「動いた」
カヤが隙間へ指をかけ、ラウルも手を添えた。二人でゆっくり引くと、壁の一部がそのまま扉になって開いた。
切れた金属の一部が、床へ転がる。
壁の向こうには細い廊下があった。
床は乾き、端には掃き寄せられた砂が細い筋になっている。壁の灯りには油が満たされ、廊下はさらに奥へ続いていた。
少し先で道が分かれ、右手には上へ向かう階段が見える。
「戻れるようにしておく」
カヤが扉の下へ石片を挟む。
ラウルが廊下の奥を見た。
「俺が声をかける。まず、ここへ出てきてもらおう」
そのとき、左手の部屋から何かが倒れる音がした。
開いた戸口の向こうで、小さな身体が床を這っている。伸ばした手の先には、水の少し残った器が転がっていた。
レオナが一歩出る。
「大丈夫?」
相手が顔を上げた。
大きな耳と、突き出た顎。
カヤの手が腰の短い刃へ伸び、エリナも足を止める。
「ゴブリン」
「レオナ、待って」
カヤが低く言った。
ゴブリンはカヤの手元を見て身体を縮め、それから先頭にいるレオナへ目を移した。
「みず」
声がかすれていた。
誰もすぐには動かなかった。
「……喋った」
カヤが呟く。
ゴブリンが起き上がろうとすると、足首の鎖が鳴った。台の脚へつながれた鎖が張り、身体が床へ戻る。
レオナは器を拾った。
「これ?」
ゴブリンが頷く。
器へ伸ばした手が震えていた。
レオナはその手に渡さず、器を支えたまま顔のそばへ寄せる。
ゴブリンは水を一口飲み、激しく咳き込んだ。
「少し待って」
エリナがしゃがむと、ゴブリンはすぐに後ずさった。差し出しかけた手から逃げ、短い腕で顔を隠して台の下へ身を寄せる。
エリナは手を止めた。
「傷を診せてください。痛いところは、触る前に言ってもらえますか」
相手は動かなかった。
レオナが器を床へ置く。
「この人、私の怪我も見てくれるんだ」
ゴブリンは腕の隙間からエリナを見た。
しばらくして、片手だけが下がった。
***
胸の布をずらすと、縫われた跡が見えた。糸はまだ抜かれておらず、その下で胸が浅く上下している。
エリナは傷の端へ触れ、すぐに手の位置を変えた。
「これ、いつされたんですか」
「……きのう」
「ここで?」
ゴブリンが頷いた。
そのとき、隣の部屋で何かが軋み、続いて息を詰めるような低い声がした。
カヤが戸口を見る。
「まだいる」
ラウルも顔を上げた。
「見てこい。離れすぎるなよ」
「うん」
カヤは腰の刃へ手を添えたまま、隣の部屋を覗く。
同じ高さの台が並んでいた。一つには誰もいないが、枕の位置だけ布が深く窪んでいる。
その隣の台で何かが動き、カヤの足が止まった。
「……え?」
「どうした」
ラウルが振り向いたが、カヤは答えない。
台に横たわっているのは、人間の男だった。
腕を革帯で留められている。
ゴブリンのいた台にも、同じ革帯が垂れていた。
男がカヤを見ると、乾いた唇が動いた。
「それ……外してくれ」
ラウルが数歩で部屋へ入り、エリナもゴブリンのそばから顔を上げた。
「人……?」
カヤは男の手首を見て、それから隣の空いた台を見る。
同じ台だった。
「どうして……」
声が途中で止まる。
「どうして留められてるの」
「逃げるからだ」
ラウルの表情が変わった。
男のそばへ行き、革帯に手をかける。その下には、何度も擦れた跡が残っていた。
「怪我を治してるんじゃないのか」
「治したら、また切る」
男が顎で隣の台を示す。
「あいつも、歩けるようになったら連れていかれた」
ラウルの手が止まった。
エリナも何も言わない。
カヤは空いている台をもう一度見た。
足元には小さな札が結ばれている。ゴブリンの台にも、同じ形の札があった。
空いた台の札には人の名前と日付が並び、一番下だけ赤い線で消されている。
カヤは札を裏返し、しばらく見たあと元へ戻した。
「……ここ、人間も入れてる」
誰も返事をしなかった。
戸口では、フィンが壁沿いの管を見ていた。そこから細い金属線が各台へ分かれ、継ぎ目には新しい留め具が使われている。その一つには、小さな魔石がはまっていた。
「古い設備を、そのまま使っているわけではありません」
フィンは台へつながる線を追う。
「この固定具は、今の工房でも使います。誰かが作り直しています」
ラウルは男の手首の革帯を外した。
「立てるか」
男は起き上がろうとしたが、片脚がうまく動かなかった。膝を持ち上げても、足先は台の縁から垂れたままだった。
「ゆっくりでいい」
ラウルが左肩を貸した。
隣では、エリナがゴブリンの傷へ手を当てている。淡い光が消えると、苦しげだった呼吸が少し深くなった。
「いきなり治すのは無理です。でも、さっきよりは」
ゴブリンが胸を押さえる。
「いたく、ない」
エリナはその顔を見て、もう一度傷を確かめた。
カヤが鎖の根元へしゃがむ。
「鍵、要るね」
「輪だけなら切れるよ」
レオナが言うと、ゴブリンは剣を見て身を縮めた。
「こっちだけ。足には当てない」
レオナは台の脚にある輪を指す。
相手が足を引いたのを待って剣先を当てると、小さな音とともに金属が開いた。
ゴブリンは自由になった鎖を持ち、切れた先を見ていた。
***
階段の方から足音がした。
全員がそちらを見る。
急ぐ様子のない、軽い足音だった。
やがて、布の束を抱えた若い女が階段を下りてきた。五人の姿を見て足を止めたが、その腕には畳んだ布が積まれ、一番上には新しい包帯が載っている。
「何をしているんですか」
ラウルが男を支えたまま女を見ると、その腕につかまっていた男の身体が強張った。
「……あんた、ここで働いてるのか」
女は答えず、台から下りた男からゴブリンへ視線を移した。
「旧区画にいた方ですよね。こちらへは来ないように言われていたはずです」
ラウルが眉を寄せる。
「俺たちのことを知ってるのか」
女は答えなかった。
カヤが一歩出る。
「この人たちがいることも?」
女は布を抱え直した。
「私は、お答えできません」
「この子は、昨日ここで胸を切られたと言っています」
エリナが立つ。
「誰が処置をしたんですか」
女はゴブリンを見た。
「私は、手当ての後を任されているだけです」
エリナの手が止まる。
「……手当ての、後?」
女は答えなかった。
「担当の人を呼んでください」
「上へ、聞いてきます」
女は来た階段へ向かった。
「上?」
カヤが聞き返したが、女は振り返らず、そのまま階段を上っていく。
カヤが追おうとした。
「待て」
ラウルが止める。
「でも――」
「離れるな」
ラウルは階段を見たまま言った。
「……うん」
誰もすぐには動かなかった。
レオナも階段を見上げる。
「あっちから来たんだ」
ラウルは答えない。
カヤは戻って床に落ちていた男の靴を拾った。
「履ける?」
「右だけでいい」
片方を手渡し、動かない足の靴は荷物へ押し込む。
レオナが戸口へ立った。
「連れて帰ろう」
「まず、来た方へ戻る」
ラウルが言う。
「あの案内の男にも話を聞く」
「ほかの部屋にもいるかもしれない」
カヤが廊下の奥を見る。
「いると思う。でも、今は奥へ行けない」
ラウルは男を左肩で支え直した。
「俺たちだけで全員を運べるかも分からない。外で知らせよう」
フィンが頷く。
「先に出口を見てきます。皆さん、ここにいてください」
フィンが廊下へ出た。
カヤは階段を見たあと、棚に積まれた紙へ目を移す。
一番上には、日付の並んだ記録があった。男の名前が書かれ、その下には別の記号と数字が続いている。
カヤはゴブリンを見る。
右耳に、三つの小さな穴が並んでいた。
もう一度、紙へ目を戻す。
階段から足音は聞こえない。
カヤは一枚だけ抜き取り、二つに折って腰の袋へ入れた。
ゴブリンはエリナの服の端をつかんでいた。レオナが腕を貸そうとすると、一度その顔を見上げたあと、ゆっくり手を移す。
歩幅を合わせて廊下へ出ると、少し先に旧区画へ戻る扉が見えた。
その手前にフィンが立っている。
動いていなかった。
「フィン?」
カヤが呼ぶ。
フィンがこちらを振り返る。その向こうに立つ人影を見て、カヤの足も止まった。
兵士だった。
***
開けてきた石の扉は半分ほど閉じられ、その前を二人の兵士が塞いでいた。挟んでおいた石片は脇へ押しやられている。扉の向こうにも、槍を持った兵士が並んでいた。
ラウルが男を支えたまま止まった。
兵士の胸当てに刻まれた意匠を見て、カヤも息を呑む。
「……王宮の」
数日前、城へ入ったときに見たものと同じだった。
先頭の兵士が一歩出る。
「旧区画へは戻れません」
フィンが杖を握る。
「なぜです。魔獣は倒しました」
兵士の視線が杖へ落ちた。
「それを下ろしてください」
「待て」
ラウルが前へ出る。
「俺たちは王都から依頼を受けてここへ来た。帰れない理由を説明してくれ」
兵士は答えなかった。
「ここにいる人たちも外へ連れていく。怪我をしています」
「こちらで治療します。引き渡してください」
男がラウルの上着を強く握った。
「やめろ」
かすれた声だった。
「戻したら……またやられる」
レオナの隣でも、ゴブリンが首を振る。
「いやだ」
エリナが一歩前へ出た。
「担当の方から説明を受けていません。昨日の処置について聞きたいんです」
「ここではお話しできません」
ラウルが兵士の向こうへ目をやり、その動きが止まった。
案内してきた男がいた。
「あんた……」
男は目を合わせなかった。
ラウルの声が低くなる。
「あんたなら分かるだろ。俺たちは依頼を受けて来たんだ。魔獣は倒した。もう帰る」
案内の男は答えず、そのまま脇へ退いた。
代わりに、鎧を着た年長の男が進み出る。
手には一枚の紙があった。ラウルの目が、その端に押された王都の正式な印で止まる。
「皆さんは、ここで待機してください」
「いつまで?」
カヤが聞く。
「次の指示があるまでです」
そのとき、背後から重なった足音が聞こえた。
レオナが振り返る。
部屋の並ぶ廊下の奥からも、別の兵士たちがこちらへ歩いてきていた。
カヤが小さく息を吸う。
「こっちにも……」
フィンが杖を握り直した。
ラウルは男をカヤへ預け、仲間の前へ立つ。
「まず、何の指示なのか説明してください」
鎧の男が紙を開いた。




