第56話 旧施設の魔獣
山道の先で、荷車の轍が石壁の中へ消えていた。
壁は山の斜面に沿って低く続き、その向こうから屋根が二つ見える。門の横には兵士が立っていた。ラウルが依頼書を見せると、一人が奥へ走っていく。
「もっと崩れてるのかと思った」
カヤが門を見上げた。
レオナも、蝶番に塗られた黒い油を見た。
「ここは新しいね」
「調査のために建てたんでしょう。遺跡は奥のようです」
フィンの言葉が終わるころ、短い上着を着た男が現れた。
「王都からの方ですね。案内します」
門の内側では、二人の男が荷車から木箱を下ろしていた。五人はその横を通り、山側の建物へ入る。
廊下の突き当たりで、壁の石が変わった。大きな石を隙間なく積んだ古い壁に、新しい木の枠がはめられている。その先は下りの階段だった。
「ここからが旧区画です。魔獣は下の広間にいます」
案内の男が灯りを掲げる。
階段の途中には太い横木が渡されていた。その下へ、鎖でつながれた柵が立てかけられている。
「入った人は、ここまで逃げてきたの?」
カヤが尋ねた。
「ええ。こいつを倒して道を塞ぎました」
男が柵を指す。一本だけ木が裂け、先端に細い溝が二つ残っていた。
ラウルが左手で溝に触れた。
「この高さまで届くのか」
「下から腕を伸ばされました。柵がなければ、脚を持っていかれていたでしょうね」
エリナが階段を見下ろす。
「怪我をされたのは、そのときですか」
「一人、脛を。もう治療を受けています」
ラウルは案内人を見た。
「俺が戻る合図をします。それを見たら開けてください。最後の一人が通るまでは、塞がずに」
「分かりました」
五人は柵を越えた。
***
階段を下りた先は、地図で見た四角い部屋だった。
右の壁には水の流れる浅い溝があり、天井近くに細い明かり取りが開いている。
カヤは来た階段を振り返り、その向かいの通路へ入った。四人も少し間を空けて続く。
奥で、石を擦る音がした。
ラウルが全員を止める。
灯りの届く端に、曲がった脚が出てきた。
紙で見たものより太い。爪の先が床へ着くと、低い胴がずるりと前へ出た。前脚の間に小さな頭があり、口の両端が耳の近くまで裂けている。
「こっちへ来てる」
レオナが剣を抜いた。
魔獣は通路の半ばで止まった。残る四本の脚を広げ、胴を床へ近づける。
「下がれ」
ラウルの声と同時に、前脚が伸びた。
曲がった爪が灯りをかすめた。カヤが腕を引き、ラウルは盾を斜めに差し出す。金属を削る音がして、爪が外へ滑った。
だが、魔獣の身体は来なかった。
床を掻いた前脚だけが、元の位置へ戻る。
「引き寄せるための腕だね。引っかけられたら、前へ持っていかれる」
カヤが通路の脇へ退いた。
「盾もつかませないで」
「分かった」
ラウルは盾を身体へ寄せた。
魔獣がもう一歩進む。六本の脚が入れ替わり、低い胴はほとんど揺れない。
フィンが通路の幅を見た。
「両側が届く範囲です。ここで止めても、脚へ近づけません」
「ああ。広い方へ出す」
ラウルが下がる。レオナも剣を構えたまま距離を取った。
「出たら、フィンが脚を止めろ。レオナは崩せ」
「分かりました」
「うん」
魔獣はすぐには追ってこなかった。前脚を通路の縁へ掛け、口だけをこちらへ向けている。
「灯りを追ったんだよね」
カヤが言った。
彼女が灯りを右へ動かすと、頭も少し傾いた。
「追ってる」
「置けるか」
「あそこの台に」
階段とは反対の隅に、低い石台があった。
カヤが灯りを置き、戻ろうとすると、魔獣が前脚を床へ下ろした。
ラウルは灯りと階段の間へ立った。
魔獣の後ろ脚が通路を出る。
急に、胴が持ち上がった。
「来る!」
カヤが叫ぶ。
六本の脚が床を蹴り、低い塊が灯りへ飛びついた。ラウルは進路の外へ身をひねり、盾の縁で前脚を払う。
爪が盾へ絡んだ。
左腕が引かれる。
「外します!」
エリナの声がした。
爪の脇で空気が弾け、引っかかっていた先がわずかに浮く。ラウルは盾を下へひねり、盾ごと腕を引き戻した。
魔獣が前脚を踏み直した。その先には、石台から離れようとしていたカヤがいる。
「カヤ!」
「見えてる!」
カヤが石台の陰へ飛び込んだ。
爪が台の端を欠き、砕けた石が灯りへ落ちる。
火が消えた。
明かり取りから差す細い光だけが残る。
魔獣の頭が揺れた。
フィンの杖の先に、小さな光がともる。
「こちらです」
頭がそちらを向いた。
フィンが後ずさる。魔獣は石台に掛けた前脚を引き戻そうとしたが、爪が抜けなかった。
「今! 右の爪、石の裏に入ってる!」
カヤの声が飛ぶ。
レオナは床を蹴った。
石台へ掛かった脚を剣で狙う。刃を細く光らせ、曲がった爪の根元へ振り下ろした。
硬いものが割れた。
爪を残して脚が引かれる。魔獣が口を開き、残った前脚をレオナへ振った。
レオナは剣を引きながら後ろへ跳ぶ。
「レオナ、離れてください!」
フィンが杖を向けた。
床を白い霜が走り、魔獣の片側の脚へ絡みつく。
魔獣が身体をひねった。
「今です!」
レオナが剣を握り直す。
魔獣の横腹へ力をかけた。
凍りついた脚が床に残り、胴だけが傾いていく。
さらに押す。
氷が砕ける。
そのまま魔獣の身体がひっくり返り、重い胴が床へ落ちた。六本の脚が天井へ向く。
「首の下!」
カヤが石台から出て指した。
胴と頭の間に、薄い皮膚が見える。
ラウルが残る爪の前へ盾を出した。掴ませず、届く寸前で引く。前脚がそちらへ伸びた間に、レオナは頭の横へ回り込む。
刃を当て、魔力を通した。
剣が首の下へ沈む。
身体が大きく反り、宙を掻いていた脚が止まった。
レオナは剣を抜いて離れる。
しばらく待っても、魔獣は起き上がらなかった。
***
「腕、見せてください」
エリナがラウルの盾を外した。
「引っ張られただけだ」
「確かめてから言ってください」
エリナが左腕をゆっくり曲げさせる。ラウルは黙って従った。
「傷めてはいないようですね。でも、今日はもう無理をしないでください」
「ああ」
エリナはレオナへ顔を向けた。
「レオナは、胸が重くなりませんでしたか」
「ちょっとだけ。でも、もう平気だよ」
エリナが腕に触れた。腕に、先日の流れは感じられなかった。彼女が手を離すと、レオナも肩を回した。痛みはなかった。
レオナは剣を拭き始めた。
カヤは拾い直した灯りに火をつけ、砕けた台へ近づく。
「爪、報告の絵より曲がってたよ」
石の裏へ残った爪を指す。
フィンが覗き込んだ。
「細かい形までは見えなかったんでしょう。直しておきましょうか」
「うん」
カヤは荷物から紙を取り出した。
全員に大きな怪我がないことを確かめ、階段の上へ討伐の完了を知らせた。
案内人は入口に残り、上で待つ兵士へ声をかけた。五人が奥へ進む間に、階段を上っていく足音が聞こえた。
五人は魔獣が出てきた通路へ進む。
突き当たりの部屋には、写しで見た石台が二つ並んでいた。台の縁に金属の輪があり、一つは外れて床へ落ちている。
カヤがすぐに紙を広げた。
「残ってる。溝も見えるよ」
レオナは台の横へ立った。腰ほどの高さがある。輪の間を見てから、自分の手首をそばへ寄せた。
「このくらい?」
「たぶん。触らないでね」
「分かってる」
フィンは台から床へ伸びる溝を追っていた。
壁の手前で、その足が止まる。
「こちらの金属だけ、新しくありませんか」
古い溝の一部に、細い板がはめ直されている。黒ずんだ縁の間で、そこだけ赤みを帯びていた。
ラウルが案内図を広げた。
「調査で直したのかもしれないな」
「その先、どこにつながってる?」
カヤが灯りを寄せる。
金属板は壁の下へ入り込んでいた。壁際の床には、半円を描く薄い擦り跡がある。
カヤはしゃがみ、その跡を指でなぞった。
「ここ、開きそう」
図には、壁としか描かれていなかった。
レオナが近づく。
継ぎ目の向こうで、小さな音がした。
金属を置く音。
それから、誰かが咳をした。




