第51話 ここにいたもの
答える者はいなかった。
広間の中央で、魔獣の丸めた背がゆっくり上下していた。太い前脚は身体の脇へ折り畳まれ、爪の先だけが石床に触れている。
ラウルは通路へ手を向け、五人が下がれる幅を確かめた。
「あとで調べる。今は戻るぞ」
声を落とした、そのときだった。
床を擦る音がした。
魔獣の頭が持ち上がる。
「戻れ」
五人が通路へ向かうより早く、魔獣は前脚を突いて立ち上がった。後脚に比べて前半身が異様に大きいため、立つと肩だけが高くせり上がって見える。
「起きた」
カヤの声から、さっきまでの軽さが消えた。
「走れ!」
魔獣が床を蹴った。
長い前脚で地面を掻き、巨体を引き寄せるように一気に距離を詰めてくる。
「速っ――」
最後尾にいたカヤが身を翻す。
通路までは、あと二歩。
間に合わない。
そう気づいた瞬間、横から強く肩を押された。
ラウルがカヤを通路側へ突き飛ばし、そのまま左腕の盾を前へ出す。
魔獣の前脚が盾へ叩きつけられた。
金属音が広間に響き、ラウルの身体が横へ飛ぶ。床を転がり、右肩から柱の根元へぶつかった。
「ラウル!」
追おうとした魔獣へ、レオナが手を向ける。
押す。
肩へ横から力を加えると、巨体の進路が逸れた。その隙にフィンの飛ばした石片が顔へ続けざまに当たり、魔獣が足を止める。
エリナはすぐにラウルのもとへ走った。
「動かさないでください」
「まだ動ける」
「動けるのと、大丈夫なのは違います」
右肩へ手を添えると、指の間から淡い光が広がった。エリナは肩から腕へ触れる位置を少しずつ変えながら、状態を確かめていく。
「骨は大丈夫そうです。でも、肩をかなり痛めています」
「剣は?」
「振らないでください」
ラウルは左腕に残った盾を見る。
「盾なら?」
「……正面から受けないでください。流すだけです」
ラウルは頷いた。
広間の反対側では、レオナが魔獣を引きつけている。前へ出る速さは異常だったが、長い前脚に比べて後脚が短く、一度走り出すと急には曲がれない。
「レオナ、右!」
カヤの声で横へ跳ぶと、長い前脚がさっきまでいた場所を横薙ぎに払った。爪の先が床を削り、石片が跳ねる。
「これ、当たったら痛いね」
「見れば分かるでしょ!」
レオナは柱を避けながら走り、魔獣が曲がりきれないところへ横から少しずつ力を加えていった。
その間、カヤは攻撃には加わらず、魔獣の動きを追っている。長い前脚が着く位置、後脚が追いつくまでの間、身体を曲げるときの癖。
やがて右前脚へ目を止めた。
「待って。そこ、変」
「どこ?」
「右の前脚。内側」
厚い皮膚の一部だけ色が違っている。関節の近くまで、細長い跡が続いていた。
「傷?」
「あの脚だけ、踏み込むときに浮くんだよ。傷かどうかは分からないけど」
フィンも魔獣の動きを追う。
「右へ体重を掛けていませんね。狙うなら、そちらです」
「レオナ、切れる?」
「やってみる」
レオナが剣を抜いた。
「正面から行くな!」
立ち上がったラウルが声を飛ばす。
「うん」
「カヤ、向こうを向かせろ。フィン、援護」
「了解」
「分かりました」
カヤが広間の反対側へ走った。
「こっち!」
魔獣の顔が動いたところへ、フィンが小石を続けざまに飛ばす。顔の左側へ集中して当てられ、巨体がさらにそちらを向いた。
「今だ!」
レオナが走る。
剣へ魔力を流すと、鍔から刃へ淡い光が伸びた。
広げない。
刃へだけ通す。
狙うのは、右前脚だけ。
魔獣が気づいて脚を引こうとしたが、レオナの方が早かった。傷跡の内側へ刃を滑らせ、硬い感触が返ってきたところで、少しだけ出力を上げる。
刃が通った。
右前脚から力が抜け、前に偏っていた巨体が大きく傾いた。
「離れてください!」
エリナの声に、レオナは後ろへ跳んだ。
魔獣が石床へ倒れ込み、広間全体が低く揺れる。天井から細かな砂が落ちた。
「やった?」
「まだです!」
魔獣は残る三本の脚で、再び身体を起こそうとしていた。
ラウルが右手を剣の柄へ伸ばす。
握ったところで顔が歪み、その手を離した。
本来なら、倒れたところへ前衛が入り、そのまま仕留めるはずだった。
「フィン」
「はい」
「代われるか」
フィンの表情が変わった。
魔獣を見てから、天井と柱へ目を走らせる。
「火は使えません。風も、この場所では危険です」
「何ならいける?」
フィンは杖を握り直した。
「凍らせます」
「合図は?」
「杖を上げたら離れてください」
「分かった」
ラウルが盾を持ち上げる。
「ラウル」
エリナが呼んだ。
「約束は守る」
「お願いします」
ラウルはレオナを見る。
「俺が引く。お前は横から止めろ」
「うん」
「カヤ、動きを見てろ」
「分かった」
フィンは広間の後方へ下がり、杖を両手で握った。
ゆっくりと息を吐く。
そのころには、魔獣も立ち上がっていた。
右前脚を傷つけられたせいで、先ほどまでの勢いはない。走り出すたびに身体がわずかに右へ沈み、向きを変えるにも時間がかかっている。
ラウルが盾を叩いた。
乾いた金属音に、魔獣の頭がそちらを向く。
「こっちだ」
巨体が突っ込んでくる。
ラウルは前脚が届く寸前まで動かず、振り下ろされた一撃へ盾を斜めに当てた。正面から受け止めず、その勢いを外へ滑らせる。
傷ついた右脚が踏ん張れず、魔獣の身体が大きく流れた。
その背後で、フィンが口を開く。
「天を閉ざす白銀の王よ。我が声を標に、白き玉座より降り立て」
普段とは違う、低くよく通る声だった。
レオナは一瞬だけ振り返った。
杖の先へ白い靄が集まり始める。
「奔る熱を奪い、荒ぶる血潮を鎮め、すべてを凍てつく夜の底へ沈めよ」
魔獣が体勢を戻し、もう一度ラウルへ踏み込む。
「右から!」
カヤの声でラウルが半歩左へずれた。牙が盾へ触れる寸前で腕を引き、その勢いを外へ逃がす。
そこへレオナが横から押した。
右脚が再び崩れ、魔獣が怒ったように咆哮する。
フィンの詠唱は止まらない。
「白き鎖よ、その身を縛れ。凍れる静寂よ、その息を閉ざせ。ひとひらの熱さえ残さず、星なき夜へ沈めよ」
足元から薄い霜が広がっていく。
魔獣も異変に気づいたらしい。
突然フィンへ顔を向け、そのまま身体を沈めた。
ラウルが盾を鳴らす。
だが、今度は反応しない。
そのままフィンへ走り出した。
ラウルが横から入り、盾を差し出そうとする。
右肩が痛んだのか、一瞬だけ動きが遅れた。
「エリナ、右!」
「はい!」
カヤの声に、エリナが手を向ける。
空気が小さく弾けた。
魔獣の前脚がわずかに外へ流れる。
その数十センチのずれへ、ラウルが盾を差し込んだ。爪が金属の表面を滑り、身体を回しながら衝撃を逃がす。
そこへレオナが魔獣の肩を押した。
フィンへ向かっていた進路が逸れる。
レオナはそのまま前へ回り込み、両手を向けた。
押す。
巨体の足が床を削る。
一歩進まれる。
レオナも一歩下がった。
「重い……」
「右脚!」
カヤの声に、力の向きを変える。
傷ついた右前脚へ重さがかかると、魔獣の身体がまた傾いた。その隙にラウルが盾を鳴らし、注意を引き戻す。
正面から止めきれなくても、右へ傾ければ流せる。
ラウルが受け流し、レオナが押し戻す。カヤは魔獣の動きを読み続け、エリナは二人が崩れそうな瞬間だけ手を出した。
四人が作ったわずかな時間の中で、フィンの声だけが途切れず続いていた。
「星なき夜を統べる白銀の王よ、我が杖に凍れる静寂を。我が敵に、終わらぬ冬を――」
杖の先で白い靄が渦を巻く。
フィンが杖を高く上げた。
「離れて!」
ラウルが叫ぶ。
レオナが横へ跳ぶ。
魔獣が追おうとしたところへ、ラウルが正面から入った。最後の突進をぎりぎりまで待ち、直前で身体をずらす。
盾で頭の向きだけを外へ流す。
傷ついた右脚がまた沈み、魔獣の首が横向きに晒された。
フィンが杖を突き出す。
「凍天を戴く白銀の王よ――その身、その血、その息吹、ことごとく白夜へ沈めよ! 《白夜凍獄》!」
広間の空気が一気に冷えた。
魔獣の首へ白い霜が走り、それが一瞬で枝分かれしながら盛り上がった肩から胸へ広がっていく。黒い板状の皮膚の隙間まで白く染まり、魔獣は身体を振って抗った。
一歩踏み出す。
口から漏れた息は白かった。
二歩目で動きが鈍る。
長い前脚を上げようとして、途中で止まった。
そのまま前半身が沈み、巨体が横へ倒れ込む。
重い音が広間に響いた。
今度こそ、動かなかった。
***
誰もすぐには近づかなかった。
フィンは杖を向けたまま肩で息をしている。エリナが慎重に魔獣へ近づき、胸元と口元を確かめてから振り返った。
「大丈夫です」
そこでようやく、フィンが杖を下ろした。
レオナはすぐに隣へ行く。
「さっきの、何?」
「何がです?」
「『白銀の王よ』ってやつ」
フィンの動きが止まった。
「……詠唱です」
「いつもは言わないよね」
「簡単な魔法なら必要ありません。今みたいなのは操作が多いので、決まった言葉と一緒に手順を覚えてるんです」
「言った通りに魔法が動くの?」
「そういうわけではありません。同じ言葉と一緒に何度も練習すると、身体が操作を思い出しやすいんですよ」
「じゃあ、言葉は何でもいいの?」
「本人が分かれば」
カヤがそちらを見た。
「待って。それ、自分で考えたの?」
「……はい」
「『天を閉ざす白銀の王よ』も?」
「はい」
「『白き玉座より降り立て』も?」
「……はい」
「『星なき夜を統べる白銀の王よ』も?」
「やめてください」
「《白夜凍獄》も?」
「やめてください」
カヤが吹き出した。
少し離れたところでは、エリナが口元を押さえている。
フィンがそちらを見る。
「エリナまで笑ってますよね」
「笑ってません」
そう言いながら、肩が少し揺れていた。
レオナは真面目な顔でフィンを見る。
「でも、格好よかったよ」
「もういいです」
「私も作ろうかな」
「やめてください」
今度はラウルまで笑った。
笑いながらも、右腕は下ろしたままだった。
***
やがてラウルが倒れた魔獣へ目を向けると、笑い声も自然に止まった。
「調べるぞ。ただし、長居はしない」
カヤとフィンは広間の周囲を確認し、レオナとエリナは魔獣の身体を見ることになった。
カヤとフィンが一周して戻ってきた。別の入口はなく、水も食べた跡も見つからなかった。
「子どものときに入ったとか?」
レオナは狭い通路を見た。
「だったら、ここで何を食べて大きくなったんだろう」
カヤは空の広間を見回した。フィンも返事をせず、記録の紙へ目を落とした。
倒れた身体には、戦闘中に見つけた右前脚以外にも、不自然な跡が残っていた。
腹に一本。
首の後ろにも一本。
どれも皮膚の色が変わり、似たような幅をしている。
「これ、怪我の跡かな」
「分かりません。でも、少し変です」
エリナは三つの跡を見比べた。
「普通の傷なら、こんなに幅が揃うでしょうか」
「同じもので切った?」
「そうかもしれません」
そのとき、魔獣の向こう側へ回っていたカヤが足を止めた。
「ちょっと来て」
巨体に隠れていた床に、大きな円形の窪みがあった。
さっきまでの部屋にあったものよりはるかに大きく、その周囲には等間隔で穴が並んでいる。フィンがしゃがんで覗くと、穴の内側には金属が残っていた。
「魔石を入れていたみたいですね」
円の中央から、細い溝が何本も伸びている。
「さっきの部屋と似てる」
「石台の下にあったものと、構造は近そうです」
カヤが壁へ灯りを向ける。
「こっちにもある」
魔獣が倒れたことで、それまで隠れていた壁が見えていた。
薄く削られた線が残っている。
長く太い前脚。
短い後脚。
盛り上がった肩と、その間へ埋まる頭。
背中には、何枚も重なった板のようなものまで描かれている。
図には三つの印が刻まれていた。
右の前脚。
腹。
首の後ろ。
レオナは壁から、倒れた魔獣へ視線を移した。
三つの印と、三つの傷跡。
位置が同じだった。
カヤも、フィンも、もう何も言わなかった。




