第45話 残っているもの
ネラの家を出ると、若い男のエルフが待っていた。
「グレイホーンのところまで案内するよ。セイルだ」
「よく行くの?」
「最近はね。向こうから話を持ってくることもあるけど、俺が行くことの方が多いかな」
セイルが森の奥へ続く道を示したので、レオナもそちらへ向かおうとしたが、ロイは家の前から動かなかった。
「ロイは?」
「少し里に残ります。ここがどう変わったか、まだ見ていませんから」
そう言って見回すロイの視線の先には、百五十年前にはなかった家や建物が並び、その間をレオナの知らないエルフたちが行き来していた。
「分かった」
「あとで合流しましょう」
ロイを残し、レオナはセイルと森へ入った。
***
里から離れるにつれて道は細くなったが、セイルは迷うことなく木々の間を進んでいった。何度も行き来しているらしく、低い枝を避ける場所まで決まっているように見える。
「グレイホーンとは、どうやって話してるの?」
「どうやって?」
「言葉。前に会った時、何も喋らなかったから」
セイルは意外そうにレオナを振り返った。
「普通に喋るよ」
「……喋れるの?」
「知らなかったの?」
「うん」
セイルは少し笑ってから、また前を向いた。
「ゴブリンも、こっちの言葉なら片言で話せるのが増えてるよ。最近はグレイホーンが教えてるから」
「なんで?」
「話せないと困ることが増えたんだよ。人間がどこまで来たとか、どこの道が危ないとか、それくらいは伝え合えないとね」
それ以上は聞かずに歩いていると、前方の木々の間に、人とは比べものにならないほど大きな影が見えてきた。
太い首と肩、その下に長い腕が垂れている。相手も二人に気づいたらしく、進路を塞ぐようにこちらを向いた。
「オーガ?」
「ああ。山向こうの里から来てる」
セイルはそのまま近づいていったが、オーガの視線は彼ではなく、その後ろを歩くレオナへ向いていた。
「……人間か」
「レオナだよ。聞いてるだろ?」
セイルがそう言うと、オーガはしばらくレオナを見つめた。
「聞いている」
それでも道は空けなかった。
森の奥から、低い声がした。
「その辺にしておけ。そやつは儂が知っておる」
枝を長い腕で押し退けながら現れたのは、昔と変わらない巨大な身体だった。頭から伸びた灰色の角には、覚えているものと同じ古い傷が残っている。
「久しいな、レオナ」
レオナはしばらくグレイホーンを見上げた。
「……喋れたの?」
「喋れぬなどと言った覚えはないぞ」
「前は喋らなかったよね」
「貴様と話す用もなかったのでな」
「そっか」
グレイホーンは鼻を鳴らした。
「来い」
その後ろには二体のゴブリンがおり、地面には何本かの枝と石が置かれていた。
セイルがそばへしゃがみ込むと、一体のゴブリンが腰に挟んでいた細い枝を取り出した。先端近くの樹皮が、刃物で削られたように白くなっている。
「南?」
セイルが聞く。
「人、増えた。木、切る。道、ここまで」
ゴブリンは枝を地面へ置き、並んでいた石の一つを少し奥へ動かした。
「また伸びたのか」
今度はオーガが別の場所を指した。
「東の尾根にも入った。二十、いや、三十ほどいる。穴を掘り始めている」
「鉱山か?」
「まだ分からん」
グレイホーンは地面を見下ろしたまま少し考え、ゴブリンへ顔を向けた。
「南は、まだ空いておる場所まで移れ。今いる場所に残れば、次の道が来る」
ゴブリンはすぐには頷かなかった。
「また、移る?」
「今はな」
その答えに、オーガが低い声を挟んだ。
「我らは退かん」
グレイホーンがゆっくりと顔を上げる。
「勝手に仕掛けるな」
「東も退いた。前の山も捨てた。次も退けば、その次が来る」
「分かっておる」
「ならば戦う」
グレイホーンはしばらく相手を見ていた。
「まだだ」
オーガは何も言わず、地面の枝へ目を戻した。
***
話が終わると、ゴブリンたちはセイルと森の別の方角へ向かい、オーガも山へ戻っていった。
グレイホーンがその背中を見送ってから歩き出したので、レオナも並んでついていく。
「あのオーガ、戦うつもりだったね」
「オーガは戦えるからな。だが、ゴブリンやトロルでは今の人間の集団には敵わぬ。武器もある。魔法を使う者もおる。だから退かせてきた」
「ずっと?」
「そうして済むうちはな」
グレイホーンは少し先を歩いてから、低く続けた。
「だが、家を失い、仲間を殺され、それでもまた退けと言われれば、聞かぬ者も出る」
「止められる?」
「知らん。儂の命令を聞いておるわけではない」
レオナはグレイホーンを見る。
「そうなの?」
「あやつらには、あやつらの里がある。ゴブリンにも、トロルにもな」
「じゃあ、なんでグレイホーンのところに来るの?」
「話を持ってくれば、他へ伝えられる。人間が来た場所も、空いておる土地も分かる。必要なら儂も行ける」
しばらく歩くうちに木々が薄くなり、その先に切り株の並ぶ場所が見えてきた。さらに向こうには土を固めた道が伸び、木材を積んだ荷車がゆっくりと通っている。
「今はまだ、儂が退けと言えば退く者もいる」
グレイホーンは道の向こうを見たまま続けた。
「いつまで聞くかは知らんがな」
「グレイホーンも、人間が嫌いになった?」
「好く理由はだいぶ減ったな」
「怒ってる?」
「腹が立たぬと思うか」
「思わない」
「なら聞くな」
不機嫌そうに返したグレイホーンの横で、レオナは少し笑った。
そのまま二人で、しばらく道を見ていた。
「私、人間の方も見てくる」
グレイホーンがレオナを見る。
「そうか」
「うん」
「止めはせぬ。だが、貴様の知っておる人間とは、変わっているかもしれんぞ」
レオナは少し黙った。
「うん。だから見に行く」
「そうか」
「本を読んでも、よく分からなかったし。ニナが残してくれたものが、どうなったのかも見たい」
グレイホーンはしばらく黙ってから、道に背を向けた。
「ならば、己の目で見てくるがよい」
「うん」
「ただし、大勢連れて戻ってくるなよ」
「連れてこないよ」
「どうだかな」
グレイホーンは鼻を鳴らし、森の奥へ歩き出した。
***
里へ戻ると、ロイは水場の近くに立ち、以前にはなかった建物を眺めていた。
「見終わった?」
「ええ。昔のままのところも、少しは残っていました」
ロイはそう答えてから、レオナを見る。
「グレイホーンには会えましたか?」
「うん。それで、人間の方も見に行くことにした」
「そうですか」
「今どうなってるのか、自分で見たい」
「でしたら、まずハルへ行くのがいいでしょう」
「なんで?」
「ニナの子孫がいます」
レオナはロイを見る。
「……子孫?」
「ユナという人です。今は冒険者ギルドの代表をしています」
ロイは少し間を置いた。
「それと、ドルンにも一度戻ってみるといいかもしれません」
「何かあるの?」
「ギドさんとヴァンさんが始めた工房が、今も残っています。当時と同じものではありませんが」
レオナは少し黙った。
「……残ってるんだ」
「ええ」
レオナは頷いた。
「じゃあ、見に行く」




