第39話 変わったね
青い空が見えた。
レオナは、しばらくそれを見ていた。
「……ニナ?」
返事はなかった。
身体を起こす。
土と草の匂いがした。
頭上には、大きく開いた空がある。その縁から枝が伸び、葉の隙間を抜けた光が、崩れた石の上へ落ちていた。
「ニナ?」
もう一度呼ぶ。
声が岩壁に当たり、少し遅れて返ってきた。
レオナは立ち上がった。
周囲には崩れた石壁が残っている。土に半分埋まり、隙間から草が伸びていた。太い根が石を押し分けている場所もある。
見覚えがあった。
ここだ。
自分たちがいた地下遺跡。
見上げれば、あの日、自分が吹き飛ばした岩盤の向こうに空がある。
「ヴァン? エド?」
返事はない。
レオナは足元に光る青黒い欠片を拾った。小さな魔石だった。
腰へ手をやる。
細剣がない。
最後に、自分の手から落ちたところまでは覚えている。
レオナは穴の底を歩いた。崩れた石の向こうを覗き、壁際まで行く。
誰もいない。
「ニナ!」
さっきより大きな声を出した。
「ニナ!」
何も返ってこなかった。
レオナは立ち止まる。
前は二十五年だった。
その前は、もっと長かった。
――次はいつ?
――私、次もいる?
「……ニナ」
その時、頭上から声がした。
「いた!」
レオナが顔を上げる。
穴の縁から、一人の女がこちらを覗き込んでいた。
「ほんとに人いる!」
すぐ後ろから男の声がする。
「カヤ、勝手に降りるな」
「人がいたんだよ。北の跡を見るのは、あの子を見てからでもできるでしょ」
女はそう言うと、慣れた動きで斜面を降りてきた。身軽そうな服に短い弓を背負い、腰にはいくつもの小袋を下げている。
その後から三人が続いた。
先頭の男は剣を持っていた。少し離れて杖を持った若い男、その後ろには大きな鞄を背負った女がいる。
剣の男はレオナから少し距離を取って止まった。柄には手を置いているが、剣は抜かなかった。
「一人か?」
「うん」
「怪我は?」
「してないと思う」
答えた途端、鞄を背負った女が前へ出た。
「少しだけ診せてください。自分では気づかない傷もありますから」
レオナの腕を取り、手のひらや顔を確かめていく。
「痛いところはあります?」
「ない」
「頭は大丈夫ですか?」
「平気」
「吐き気はあります?」
「ない」
「エリナ」
剣の男が呼んだ。
「どうだ?」
「見える傷はありません。どこから来たのか、聞いてあげてください。こんな場所に一人だったんですから」
「それはこっちも同じだ」
「だから言ったでしょ。絶対なんかあるって」
最初に降りてきたカヤが口を挟む。
杖を持った男は周囲を見ながら、「なら北側の調査を、どこまで遅らせる? 今日戻るつもりなら――」と言いかけた。
「フィン」
剣の男が遮る。
「俺がこの子を見てから決める。北側は待ってくれ」
フィンは少し眉を寄せたが、すぐに杖を下ろした。
「……分かった。戻る時刻を決めるときは言ってくれ」
「素直じゃん」
「君が言うな」
レオナは四人を順に見た。
「ここ」
カヤが振り向く。
「ん?」
「ここ、何ていう場所?」
「北の遺跡だけど」
「北の?」
「ああ。ドルンの北にあるから」
「ドルン?」
カヤが目を瞬く。
「知らないの?」
レオナは首を振った。
フィンが怪訝そうな顔をする。
「ドルンを知らないって……」
「フィン」
剣の男が止めた。
レオナは頭上を見た。
「今、いつ?」
「いつ?」
「今」
カヤは一度笑いかけたが、すぐにやめた。
剣の男もレオナを見ている。
「その前に、名前を聞いていいか」
「レオナ」
「俺はラウル。こっちがカヤとフィン。そっちがエリナ」
「挨拶は、診終わったらしますね」
エリナが言った。
カヤが穴の中を見回す。
「それで、レオナ。『いつ』って何?」
「ここが崩れたの、いつ?」
「ああ、この遺跡?」
「うん」
カヤは少し考えた。
「最初の大崩落なら……百五十年くらい前じゃなかった?」
レオナは動かなかった。
「……何年?」
「百五十年くらい」
フィンが続ける。
「それは最初の崩落の話だね。正確な年は記録で確かめよう。今ここで言えるのは、そのくらい前だということだけだ」
誰も、すぐには何も言わなかった。
レオナは頭上を見た。
穴の縁に木が生えている。幹は太く、岩の裂け目へ根を伸ばしていた。
壁の途中には石段が作られ、錆びた金具が打ち込まれている。その脇を蔓が覆っていた。
「百五十年……」
ニナの顔が浮かんだ。
泣いていた。
最後まで手を握っていた。
――私、次もいる?
レオナはその場にしゃがみ込んだ。
「レオナ?」
エリナがすぐ横へ来る。
「気分悪いですか?」
レオナは首を振った。
「……ニナは?」
「ニナですか?」
エリナが聞き返す。
「一緒にいた人」
カヤがすぐに近づいた。
「ニナって名前? 名字は?」
「名字?」
「家ごとにある名前。親から子に継ぐやつ」
「……家には名前なかった」
「じゃあ、どこに住んでた? ギルドは? 年は? 仕事は?」
「ギルド?」
「所属。冒険者なら――」
「カヤ」
エリナが言った。
カヤが口を閉じる。
「今はやめましょう」
「……ごめん」
レオナは首を振った。
少しして、口を開く。
「ニナは、魔獣を見てた」
カヤが顔を上げる。
「魔獣?」
「うん。ずっと見て、書いてた。何してるのか、ずっと見てた」
レオナは少し考える。
「火をつけるのも上手かった」
カヤは何も言わずに聞いていた。
「ヴァンもいた。エドも。ギドも……」
レオナは口を閉じた。
頭上の木が、風に揺れている。
「……いないね」
誰も答えなかった。
しばらくして、ラウルが言った。
「ここにいても分からない。ドルンへ行こう」
フィンもうなずく。
「遺跡の記録も、昔の人の記録も、街の方がある」
カヤが少し間を置いて聞いた。
「歩ける?」
レオナは立ち上がった。
「うん」
エリナは、レオナが自分で立てるのを見てから手を離した。
ラウルが頭上へ続く道を指す。
「上まで出れば、あとは道がある。夕方には着く」
レオナは振り返った。
崩れた石。
青黒い欠片。
頭上の空。
「行く」
ラウルはうなずいた。
***
穴を出て山を下り始めると、道はレオナの知っているものとはまるで違っていた。
昔は足場を探しながら歩いた斜面に、今は何人も並んで通れる道が通っている。崩れやすい場所には石が積まれ、分かれ道には文字の刻まれた柱が立っていた。荷車と何度もすれ違い、武器や大きな荷物を持った一団も行き来している。
木々の間が暗くなると、フィンが片手を上げた。指先の少し先に、小さな光が浮かぶ。
レオナが見る。
フィンもレオナを見た。
「何?」
「それ」
「灯りだけど」
「……そう」
レオナは前へ向き直った。
しばらくして、カヤが隣へ来る。
「ほんとにドルン知らないんだね」
「知らない」
「結構大きい街だよ。鍛冶ならこの辺じゃ一番だし、鉱山もあるし、人も多いし――」
「また始まった」
後ろからフィンが言った。
「何が?」
「ずっと喋るやつ」
「静かな方が気まずいでしょ」
カヤはレオナを見る。
「ね?」
レオナは少し考えた。
「分からない」
「ほら」
「何が、ほら、なんだよ」
前を歩いていたラウルが振り返った。
「二人とも、少し静かにしろ」
二人は黙った。
しばらく歩く。
「ラウルって、いつもああなの?」
レオナが聞くと、カヤは笑った。
「そう」
「聞こえてるぞ」
「ほら」
レオナも少し笑った。
そのまま歩き続ける。
エリナは何も言わず、隣にいた。
***
山道を抜けたところで、ラウルが立ち止まった。
「見えた」
レオナも顔を上げる。
山の斜面から、街が見えた。
大きな石壁が長く伸び、その内側には数えきれないほどの屋根が重なっている。何本もの煙が空へ上がり、山肌を削るように作られた道には荷車が列を作っていた。街の外側にまで建物が広がり、遠くから金属を打つ音が響いてくる。
「ドルン」
カヤが言った。
レオナは街の向こうを見た。
見覚えのある峰があった。
稜線だけは、覚えている形のままだった。
そこから目を下ろす。
もう少し下に、小さな鍛冶場があった。
ニナもいた。
今は、どこを見ても屋根ばかりだった。
「……変わったね」
カヤが横を向く。
「え?」
レオナは街を見たまま言った。
「すごく変わった」
カヤは何かを聞きかけて、やめた。
五人は、そのまま街へ向かった。




