第38話 次はいつ
ニナの腕が、レオナの背中を支えた。
「レオナ?」
返事をしようとして、息だけが漏れた。
頭上から差し込む光の中を、細かな砂が漂っている。砕けた青黒い石も、ときどき小さな音を立てて床へ落ちてきた。
「レオナ、聞こえる?」
「うん」
今度は声になった。
ニナの顔が、すぐ近くにある。
「立てる?」
レオナは床へ手をつこうとした。
腕に力が入らない。
「……無理かも」
「無理かも、じゃないでしょ」
ニナの声が震えた。
レオナはもう一度、指を動かそうとした。
ほんの少し曲がった。
息を吸っても、うまく入ってこない。
「またなの?」
ニナが言った。
レオナは目だけをそちらへ向ける。
「……たぶん」
「たぶんって」
「前も戻ったから」
ニナは何も言わなかった。
レオナの手を取る。
「次はいつ?」
レオナは口を開いた。
「……分からない」
「前は二十五年だった」
「うん」
「次も?」
「分からない」
ニナの指が強くなる。
そのまま、レオナの手を見ていた。
しばらくして、小さな声がした。
「私、次もいる?」
レオナは答えられなかった。
ただ、ニナを見る。
「……ごめん」
ニナの顔が歪んだ。
「やだ」
レオナは、指先をわずかに曲げた。
それ以上、言えることがなかった。
レオナは顔を上げる。
青い空が見えた。
「ニナ」
「なに」
「空、見える?」
「見えるよ」
「よかった」
「それ、さっきも言った」
ニナが少し笑った。
頬を、涙が一筋落ちた。
レオナも少し笑った。
もう一度、手を握ろうとする。
今度は指が動かなかった。
「レオナ?」
頬に淡い光が浮かぶ。
ニナが息を呑んだ。
「待って」
光は首から肩へ広がっていった。
「待って。まだ」
握られた手にも光が浮かぶ。
ニナは両手で包んだ。
それでも指先から輪郭が薄くなっていく。
「レオナ」
最後まで握っていた手の重さが消えた。
青白い粒がニナの指の間を抜け、日の光の中へ溶けていった。
腕の中が空になった。
ニナは、そのまま手を閉じていた。
頭上には、空だけが残っていた。
***
山を下りるあいだ、ニナはレオナの細剣を離さなかった。
途中で、ヴァンが一度だけ手を差し出した。
「持とうか」
ニナは首を振った。
ヴァンは何も言わず、手を下ろした。
それきり、三人ともほとんど話さなかった。
数日後。
エドは机に紙を広げていた。
部屋には、筆が紙を擦る音だけが続いている。
入った日、通った道、地下で見つけた分岐、引き返すと決めていた時刻、崩落した場所。
紙の端には山へ入った四人の名が並び、その下には帰ってきた三人の名が書かれていた。
ニナは、そこを見ていた。
膝の上にはレオナの細剣がある。
エドの筆だけが動いていた。
やがて、ニナが言った。
「……四人で行った」
エドの手が止まった。
「そうだな」
ニナはそれ以上言わなかった。
自分の前にも紙が置いてある。
三つ首の魔獣について書くつもりで用意したものだったが、まだ何も書かれていない。
「今日はいいぞ」
エドが言った。
ニナは膝の上の細剣に触れた。
しばらくして、首を振る。
筆を取った。
最初の一行を書く。
少し待って、次の一行。
途中でまた手が止まった。
「エド」
「なんだ」
「紙って、どれくらい残るの?」
エドが顔を上げた。
「さあな。濡れれば駄目になる。燃えても終わりだ」
「ずっとは?」
「一枚なら無理だろうな」
ニナは書きかけの紙を見る。
「写してりゃ別だ」
「写す?」
「古くなったら写すんだ。一枚に預けるな。別の場所にも置いとけば、なくしても残る」
「百年でも?」
エドは少し考えた。
「百年、誰かが続けりゃな」
ニナは黙った。
やがて、新しい紙を一枚取る。
一番上に名前を書いた。
レオナ。
それだけで、また筆が止まった。
「前に戻ってきた時」
エドが顔を上げる。
「レオナ、二十五年のこと、何も知らなかった」
「まあ、そうだろうな」
「次は、もっと長いかもしれない」
エドは何も言わなかった。
ニナは、覚えていることを書いた。
書き終えても、筆は置かなかった。
隣には、自分が書きかけた魔獣の記録がある。
その向こうには、エドの探索記録。
ニナは二枚を見比べた。
「こういうの、全部残せないかな」
「全部?」
ニナは少し考えた。
「レオナがいない間のこと」
エドが机の上を見る。
「全部は無理だぞ」
「うん」
ニナはレオナの名前へ目を戻した。
「残せるだけでいい」
エドはしばらく黙っていた。
やがて、自分の探索記録をニナの方へ少し押した。
「なら、これも置いとけ」
ニナが見る。
「いいの?」
「また必要になれば書く」
ニナは小さくうなずいた。
レオナについて書いた紙を、その隣に置く。
それから、途中で止まっていた魔獣の記録へ戻った。
一行ずつ書いていく。
今度は、最後まで筆を止めなかった。
***
後に冒険者ギルドの前身となる記録所を作った人物として、ニナの名は現在まで残っている。
当初そこへ集められたのは、魔獣の生態、探索した土地、道や分岐、危険箇所、必要な装備などについての記録だった。探索へ向かう者が過去の記録を読み、戻った者が新しい情報を書き加える仕組みは、次第に周辺の町へも広がっていった。
記録が増えるにつれ、どの土地へ行った経験があるか、どの魔獣を相手にしたことがあるかといった探索者自身の情報も残されるようになった。その情報を頼りに人を探す者が現れ、やがて護衛、採取、探索、討伐などの依頼そのものが記録所へ持ち込まれるようになる。
各地で異なっていた仕組みは長い年月のうちに整理され、記録を保存するために始まった場所は、人と情報と仕事を結ぶ組織へ変化していった。
***
それから、およそ百五十年が過ぎた。




