第34話 今日は入らない
レオナは入口の前まで寄り、身体を少し傾けて中を覗き込んだ。外の光が届くのは数歩先までで、その向こうは黒く沈んでいる。
「入る?」
振り向くと、エドは入口ではなく空を見ていた。山の向こうへ傾き始めた日を確かめ、それから四人の荷物へ視線を落とす。
「今日は入らん」
「なんで?」
「中で誰か足を折ったら?」
ヴァンが暗がりを見ながら答える。
「担ぐ」
「どこまで続いてる」
ヴァンは少し黙った。
エドは腰の縄を掴んだ。
「灯りも縄も足りん。帰るぞ」
レオナはもう一度、中を見る。
風だけは変わらず流れている。
エドは入口の脇へ寄り、泥の薄いところを槌の先で掻いた。灰色の面から黒い筋が現れる。
小さく欠き、明るい方へ持っていく。
「探してたやつ?」
「近い」
「中にある?」
「知らん。だから調べる」
欠片を袋へ入れ、立ち上がる。
「町に戻ったらギドのところへ行け。穴に入るなら防具も要る」
レオナは少し考えた。
「準備できたら入る?」
「ああ」
それなら、と頷いた。
山道へ戻ってからも、レオナは何度か後ろを振り返った。
入口のあった斜面が木々の向こうへ隠れると、もう見えなくなった。
* * *
その夜は山中で野営し、町へ戻ったのは翌日だった。
町へ戻った翌朝、三人はギドの工房へ向かった。
穴のことを話すと、ギドは眉を寄せた。
「入ったのか?」
「まだ」
「ならいい」
それだけ言って、作業台の奥へ引っ込む。
戻ってきた腕には、厚い革に薄い金属板を留めた頭当てや肩当て、脛当てが重なっていた。どれも使い込まれ、擦れた跡や小さなへこみが残っている。
「これ着けてけ」
ヴァンが頭当てを手に取った。
「鉱山のか?」
「ああ」
軽く叩いてみる。
「剣より頼りになる?」
「石が落ちてきたときはな」
ヴァンは笑って、そのまま受け取った。
ニナにも一組渡し、レオナが手を伸ばす。
ギドはその手を見てから、別のものを取り出した。
「お前はこっちもだ」
右腕から肩、背中、腰へ革帯が伸び、ところどころに薄い金属板が縫いつけられている。ギドが脚に着けているものより、ずっと広い範囲を支える形だった。
「両方?」
「そうだ」
レオナが持ち上げる。
「重い」
「着けろ」
ギドは聞き流して、レオナの腕へ革帯を巻き始めた。
腕を上げると、肩の途中で引っかかる。
「上がらない」
「どこだ」
レオナがもう一度動かす。
ギドは肩の帯を指で押さえ、留め具を一つ外した。
横から見ていたヴァンが言う。
「そこ、剣を振るともっと引っかかるぞ」
「やってみろ」
木の棒を渡され、レオナが構える。
振ると、今度は腰の革が引かれて身体が少し傾いた。
ギドがすぐにしゃがむ。
「もう一回」
帯の位置を変える。
レオナが振る。
「どうだ」
「さっきよりいい」
もう一度。
今度は棒がいつもの軌道を通った。
ヴァンが横から見て頷いた。
「これなら振れる」
「じゃあ、ここはこのままだな」
ギドは留め具の位置に印をつけて、装具を外した。
「明日までに直す」
「明日、入れるかな」
「それはエドに聞け」
レオナは少しだけ口を尖らせたが、すぐに頷いた。
「分かった」
ギドは作業台へ戻りながら言う。
「分かったならいい」
* * *
その日の夕方、エドが明日の話をしに工房へ来た。
作業台の端に置かれた肩当てを持ち上げる。
「前より軽くなったな」
「分かるか」
「昔のは肩が凝った」
「お前らが重いってうるさいからだ」
「俺は言ってない」
「みんな言う」
話が済むと、エドは肩当てを戻した。
「じゃあ、俺は帰る」
「飯くらい食ってけ」
ギドが言った。
「まだ見るものがある」
「食ってから見ろ」
そのままギドが先に工房を出る。
エドはしばらくその背中を見ていたが、結局ついてきた。
「食ったら戻るぞ」
「好きにしろ」
工房帰りの職人たちで食堂は混み、焼いた肉と根菜の匂いが漂っている。
大皿が置かれると、レオナとギドの手が同じ肉へ伸びた。
一瞬、止まる。
ギドが先に取った。
「あ」
「遅い」
「今、同時だった」
「取った方が早い」
レオナは隣の肉を取る。
「やっぱりギド、変わってない」
「お前もな」
レオナは少し笑って、向かいのエドを見る。
「エドも、前は鉱山にいたんだよね」
「ああ」
「ギドと一緒?」
「一時期な」
ギドが肉を切りながら言う。
「こいつは大勢で掘るのが嫌いだった」
エドが顔をしかめた。
「人が多いのが嫌なんじゃない。うるさいのが嫌だったんだ」
「同じようなもんだろ」
「違う」
レオナは少し笑った。
「ローデンもいた?」
「ああ」
レオナは持っていた肉を皿へ戻した。
「……どんなだった?」
エドは少し考えた。
「うるさくなってた」
「ローデンが?」
「支柱を見ろ。人数を数えろ。変な音がしたら止まれ。戻ると言ったら戻れ。毎日そんなことばっかり言ってた」
ギドが杯を持ち上げる。
「昔から少しは言ってたけどな」
「少しじゃなくなった」
ギドの手が止まる。
「あの事故のあとからだ」
レオナは何も言わなかった。
エドは芋を割りながら続ける。
「俺は何度も揉めた。まだ行ける、もう少し見たいってな」
「それで?」
「戻った」
「ちゃんと?」
「大抵は」
ギドが笑う。
エドはそちらを見ない。
「戻った次の日に崩れたことがあった。それからは、言われる前に見るようになった」
ニナが昨日の山を思い返すように頷いた。
ヴァンが杯を傾ける。
「俺は助かるけどな。そういうのは詳しい奴に任せたい」
エドが目を向ける。
「お前、山の用心棒もしてたんじゃないのか」
「してたよ」
「なら少しくらい分かるだろ」
「戦う方ならな」
ヴァンは笑った。
ニナが聞く。
「じゃあ、山には詳しくないの?」
「歩くのは慣れてる。でも道は案内する奴、野営は慣れてる奴。俺は危ないのが出たら前に出る」
「結構、人任せ」
「詳しい奴がいるのに、俺がやる必要ないだろ」
エドが呆れたように言う。
「よく生きてたな」
「だから詳しい奴の言うことは聞くんだよ」
ギドが笑う。
「それなら明日はエドの後ろにくっついてろ」
「そうするつもりだ」
「俺の真後ろには来るな」
「なんでだよ」
「近い」
ヴァンが笑った。
レオナもつられて笑う。
「じゃあ、剣は?」
「ああ。剣は昔から割と得意だった」
「最初から?」
「そうだな。これなら飯が食えそうだと思って、用心棒を始めた」
ヴァンは肉を一切れ取った。
「あとは仕事しながらだ。森なら木があるし、山なら足場が悪い。荷車の横じゃ大きく振れない。魔獣が逃げたら、追わずに戻ることもある」
「昨日みたいに?」
「ああ。用心棒は倒す仕事じゃなくて、守る仕事だからな」
「魔力も、そのとき覚えた?」
「ずっと入れてたら疲れるし、剣も傷む。必要なときだけ使う方が楽だって分かっただけだ」
レオナは自分の右手を見る。
ギドが大皿の最後の肉へ手を伸ばした。
レオナも同時に伸ばす。
今度はレオナの方が先だった。
「あ」
肉を取って、少し笑う。
「今度は私」
「食うのだけは早くなったな」
「前から早い」
「なら変わってないな」
食事が終わる頃、エドは翌朝の集合時刻だけ告げた。
日の出前。
今度は誰も聞き返さなかった。
* * *
翌朝、町を発った四人は、山中で一泊して再び山肌の入口に立った。
荷には予備の灯りと火種、長い縄、余分な食料が増えている。頭と肩、脛には坑夫用の防具を着け、レオナだけはその上から右腕、肩、背中、腰へ試作の革帯を巻いていた。
腰には、工房で借りた短い細剣も下げている。
渡すとき、ギドには何度も念を押された。
「魔力は流すなよ」
「少しも?」
「流すな」
「分かった」
エドは入口近くの岩へ縄を回し、体重をかけて確かめる。
「中では俺より先に行くな。分かれたら勝手に選ばない。戻ると言ったら戻る」
三人が頷く。
灯りに火が入った。
エドが先に暗がりへ入り、ニナ、レオナ、ヴァンが続いた。
外の光が背中側へ遠ざかる。
最初の数歩は土と崩れた石が積もっていたが、その先で足元が急に平らになった。
床は片側へわずかに傾き、壁際には浅い溝が奥へ続いている。
レオナが灯りを下げる。
「水?」
「かもしれん」
エドは砂を少し掻き、それ以上は言わず進んだ。
通路の幅はほとんど変わらない。岩の形に沿って歪んだ場所はあるのに、人が歩くところだけは同じ程度の広さが残されていた。
壁には細かな削り跡と、ところどころに黒い筋がある。
少し進むと、右側に四角い開口があった。
中は小さな部屋だった。
奥の壁際に、腰より低い平らな石が張り出している。ほかに目につくものはない。
入口の両脇には、床近くから上まで真っすぐな溝が刻まれていた。
レオナが指先で触れる。
「何か入ってた?」
エドが灯りを近づける。
「かもしれん」
その先にも、似た開口がいくつか続いていた。
通路は緩く下っていく。
やがて壁の黒い筋が増えた。
エドが一箇所を灯りで照らす。
山の外で拾った石とよく似た色だった。
「これ?」
「たぶんな」
レオナは顔を近づけた。
黒い筋は岩の中を枝分かれして続いている。
「掘る?」
「まだだ。道を見る」
エドが先へ進む。
その少し後ろで、ニナが足を止めた。
「待って」
灯りを床へ下げる。
薄く積もった砂の上に、何本かの筋が残っていた。
ニナはしゃがみ込み、触れずに目で追う。
「足跡?」
ヴァンが聞く。
「分からない。でも、私たちのじゃない」
エドが灯りを前へ向けた。
通路はさらに奥へ続いている。
そのとき、暗がりの先で音がした。
石を引きずるような、低い音。
一度だけ。
四人とも動かなかった。
しばらくして、灯りの届かないところで何かが長く擦れた。
ヴァンがゆっくり剣を抜いた。




