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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第三章

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第19話 同じ方へ

 森の奥から飛び出した影は、低かった。


 四本の脚に長い胴。黄褐色の毛には黒い筋が走り、顎の両脇から黒い牙が長く伸びている。虎に似ていたが、伏せた姿勢でも人の背丈を越えていた。


 ニナが息を呑む。


「黒牙虎……」


「知ってるの?」


「見たことはない。こんな大きいのがいるなんて聞いてないよ」


 黒牙虎が地面を蹴った。


 巨体が一気に距離を詰める。


 グレイホーンが地面を強く踏み込み、前へ出た。


 角と牙がぶつかり、鈍い音が森に響いた。足元の土が抉れ、グレイホーンの足が滑る。それでも上体を起こしたまま踏みとどまった。


 そのすぐ後ろに、三体のゴブリンがいた。


 足を痛めた一体は、仲間に腕を引かれても立ち上がれない。


「レオナ、行くよ」


 もう一度ニナに腕を引かれ、レオナも一歩下がった。


 黒牙虎はいったん離れた。低く身を沈めたまま横へ回り、またグレイホーンとの距離を測っている。


「でも、あのゴブリン」


「足、怪我してるね」


 ニナもそちらを見た。


「巻き込まれる前に行くよ。私たちまで逃げられなくなったら、誰が助けてくれるの」


 黒牙虎が横へ跳んだ。


 太い根を踏み台にして跳び上がり、グレイホーンの肩へ前脚を叩きつける。灰色の上体が傾き、その後ろでゴブリンたちが身を縮めた。


 足を痛めた一体が立とうとするが、また膝をつく。


「あの子、走れない」


「だからって助けに行くの?」


「グレイホーンも逃げない」


「そりゃ、あいつらの仲間なら」


「守ってるから」


「それは、あいつらの話でしょ」


「うん」


 レオナはグレイホーンを見た。


 黒牙虎が離れる。


 グレイホーンは追わず、ゴブリンたちの前へ戻った。


「でも、置いていけない」


 レオナはニナの手から腕を抜いた。


「ちょっと、レオナ」


「ニナは戻ってて」


「そんなので戻れるわけないでしょ!」


 レオナはもう走り出していた。


 黒牙虎がグレイホーンへ飛びかかる。


 レオナは黒牙虎へ手を向け、横から魔力を押し出した。


 黒牙虎の身体がずれる。


 グレイホーンの上体も一緒に揺れた。


 レオナはすぐに止める。


 二体が近すぎる。


 その隙に、黒牙虎が顔を向けた。


 黄色い目がレオナを捉える。


 身体を沈める。


 来る。


 レオナは手を向け、正面へ魔力を押し出した。


 黒牙虎の胸が持ち上がった。


 しかし、そのまま後ろへ飛ばない。身体を捻り、前脚を横へ着く。力を逃がすように踏み直すと、黒い牙が一気に迫った。


 レオナがもう一度魔力を出そうとした瞬間、横から風が叩きつけた。


 身体が浮いた。


「わっ」


 レオナは落ち葉の上を転がった。


 黒牙虎も空中で大きく流され、牙が何もないところを噛む。


 木の根に手をついて起き上がる。


 グレイホーンが片腕をこちらへ振り抜いていた。枝が大きく揺れ、舞い上がった葉がまだ宙を回っている。


 黒牙虎が着地し、低く唸った。


「レオナ!」


 ニナが駆け寄ってきた。


「大丈夫?」


「うん」


 レオナはグレイホーンを見る。


「……助けてくれたのかな」


「そう見えたけど」


 ニナは腰の袋から、赤みのある小さな魔石を取り出した。


「戻らないんだね。なら、早く終わらせるよ。私もここにいるんだから」


 黒牙虎が再び地面を蹴った。


 今度はレオナへ真っ直ぐ来る。


 ニナが魔石を握る。


 黒牙虎の顔の前で空気が揺らいだ。鼻先を焼くような熱気に、黒牙虎が顔を背け、前脚の運びが乱れる。


 そこへグレイホーンが大きく踏み込んだ。


 頭を低くし、角を振り上げる。


 角が黒牙虎の脇腹を掠めた。


 黒牙虎は地面を転がったが、すぐに起き上がった。黄褐色の毛が何本か宙へ舞う。


 ニナがレオナの隣へ下がる。


「何度も使える石じゃないの。次に使うとき、合わせてね」


「うん」


 黒牙虎はすぐには来なかった。


 低く身を伏せ、尾をゆっくり振りながら木々の間を横へ歩いている。グレイホーンも追わず、ゴブリンたちの前に立っていた。


 黒牙虎が足を止めた。


 レオナを見たかと思うと、その視線が横へ流れる。


 次の瞬間、地面を蹴った。


「そっち!」


 ニナが叫ぶ。


 向かった先はゴブリンだった。


 グレイホーンが身体を翻し、その進路へ飛び込む。


 黒牙虎が跳んだ。


 グレイホーンは腰を落として角を突き出した。角が胸へ入ったものの、勢いは殺しきれない。黒牙虎の前脚が肩へ絡みつき、グレイホーンは踏ん張ったまま大きく押し込まれた。


 ゴブリンまで、あとわずかだった。


 レオナは手を上げた。


 黒牙虎のすぐ後ろに、グレイホーンがいる。


 朝の三つの木の実が頭に浮かんだ。真ん中だけを押そうとして、三つとも転がった。


「……一つだけ」


 黒牙虎がさらに身体を押しつける。グレイホーンの足が土を削り、その後ろで足を痛めたゴブリンが体勢を崩した。


 レオナは黒牙虎の肩を見る。


 黄褐色の毛に走る、黒い筋。


 そこへ手を向ける。


 押す。


 落ち葉は舞わなかった。


 黒牙虎だけが横へ飛んだ。


 一瞬遅れて、森の奥で大きな音が響く。低木を薙ぎ倒し、その向こうの大木へ横腹からぶつかった黒牙虎が、根元へ転がった。


「……え」


 グレイホーンは踏ん張った姿勢のまま、そこに残っている。


 レオナは自分の手を見た。


 黒牙虎が動いた。


 ゆっくり身体を起こし、四本の脚で立つ。片方の前脚が一度沈んだ。


 グレイホーンは上体を起こし、黒牙虎を見たままゴブリンたちの前まで下がった。


 黒牙虎は低く唸ったまましばらく動かなかったが、やがて一歩、二歩と距離を取り、身体を翻して木々の間へ走り去った。


 枝の折れる音が遠ざかっていく。


 それでもグレイホーンは、しばらく黒牙虎が消えた方向を見ていた。


 やがてゆっくり振り返り、負傷したゴブリンのそばまで歩み寄る。


 グレイホーンが膝を折ると、ゴブリンが手を伸ばしてその肩に置いた。


「……今のうちに戻ろう」


 ニナが言った。


 さっきまでより声が小さかった。


「またあれが戻ってくるかもしれない。ほかにもいるかもしれないし」


 レオナは頷きかけた。


 そのとき、二体のゴブリンが負傷した仲間を立たせようとした。両側から腕を支えて身体を持ち上げ、一歩だけ進む。しかし二歩目で傷ついた脚から力が抜け、二体が慌ててその身体を支えた。


 グレイホーンも立ち上がり、そのそばへ一歩寄る。


「待って」


「何?」


「あれじゃ帰れないよね」


「でも、仲間もいるし、グレイホーンもいる」


 レオナはゴブリンの脚を見た。傷口から流れた血が、足首のあたりまで伝っている。


「ネラなら、治せるかな」


「わからないよ」


 ニナも傷を見た。


「ゴブリンを診てくれるかも分からないし」


「ネラに聞く。治せるなら、歩けるようになるかもしれない」


「その前に、あの子たちが来てくれるかだけどね」


 レオナはゴブリンたちへ近づいた。


 槍を持った一体が半歩前へ出たので、その場で止まる。


「治せる人がいる」


 反応はなかった。


 レオナは自分の脚を指し、それから負傷したゴブリンの脚を示した。最後に、自分たちが来た道を指す。


「こっち」


 三体はレオナを見ていたが、動かなかった。


 ニナが先に道へ戻る。


「行こう。来るなら、ついてくるでしょ」


 レオナはもう一度ゴブリンたちを見た。グレイホーンも立ったままこちらを見ていたが、それ以上は近づかず、ニナの後を追った。


 森の中をしばらく進んだところで、後ろから落ち葉を踏む音が聞こえてきた。


 振り返ると、二体のゴブリンが負傷した一体を両側から支え、ゆっくりこちらへ歩いていた。一歩進むたびに三体の身体が同じ方へ傾く。それでも止まる様子はない。


 レオナが待っていると、隣でニナも足を止めた。


「通じてたみたいだね」


「うん」


 三体が少しずつ近づいてくる。その向こうでは、グレイホーンがまだ木々の間に立っていた。ゴブリンたちが離れていくのを見送るように、その場から動かない。


 やがて三体が木々に遮られて見えなくなるころ、グレイホーンも森の奥へ身体を向けた。枝の間に灰色の角が一度だけ見え、それもすぐに消えた。


 ゴブリンたちが追いつくのを待ってから、レオナとニナもまた歩き出した。


 腰の袋の中で、三つの木の実が小さく触れ合った。


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