第19話 同じ方へ
森の奥から飛び出した影は、低かった。
四本の脚に長い胴。黄褐色の毛には黒い筋が走り、顎の両脇から黒い牙が長く伸びている。虎に似ていたが、伏せた姿勢でも人の背丈を越えていた。
ニナが息を呑む。
「黒牙虎……」
「知ってるの?」
「見たことはない。こんな大きいのがいるなんて聞いてないよ」
黒牙虎が地面を蹴った。
巨体が一気に距離を詰める。
グレイホーンが地面を強く踏み込み、前へ出た。
角と牙がぶつかり、鈍い音が森に響いた。足元の土が抉れ、グレイホーンの足が滑る。それでも上体を起こしたまま踏みとどまった。
そのすぐ後ろに、三体のゴブリンがいた。
足を痛めた一体は、仲間に腕を引かれても立ち上がれない。
「レオナ、行くよ」
もう一度ニナに腕を引かれ、レオナも一歩下がった。
黒牙虎はいったん離れた。低く身を沈めたまま横へ回り、またグレイホーンとの距離を測っている。
「でも、あのゴブリン」
「足、怪我してるね」
ニナもそちらを見た。
「巻き込まれる前に行くよ。私たちまで逃げられなくなったら、誰が助けてくれるの」
黒牙虎が横へ跳んだ。
太い根を踏み台にして跳び上がり、グレイホーンの肩へ前脚を叩きつける。灰色の上体が傾き、その後ろでゴブリンたちが身を縮めた。
足を痛めた一体が立とうとするが、また膝をつく。
「あの子、走れない」
「だからって助けに行くの?」
「グレイホーンも逃げない」
「そりゃ、あいつらの仲間なら」
「守ってるから」
「それは、あいつらの話でしょ」
「うん」
レオナはグレイホーンを見た。
黒牙虎が離れる。
グレイホーンは追わず、ゴブリンたちの前へ戻った。
「でも、置いていけない」
レオナはニナの手から腕を抜いた。
「ちょっと、レオナ」
「ニナは戻ってて」
「そんなので戻れるわけないでしょ!」
レオナはもう走り出していた。
黒牙虎がグレイホーンへ飛びかかる。
レオナは黒牙虎へ手を向け、横から魔力を押し出した。
黒牙虎の身体がずれる。
グレイホーンの上体も一緒に揺れた。
レオナはすぐに止める。
二体が近すぎる。
その隙に、黒牙虎が顔を向けた。
黄色い目がレオナを捉える。
身体を沈める。
来る。
レオナは手を向け、正面へ魔力を押し出した。
黒牙虎の胸が持ち上がった。
しかし、そのまま後ろへ飛ばない。身体を捻り、前脚を横へ着く。力を逃がすように踏み直すと、黒い牙が一気に迫った。
レオナがもう一度魔力を出そうとした瞬間、横から風が叩きつけた。
身体が浮いた。
「わっ」
レオナは落ち葉の上を転がった。
黒牙虎も空中で大きく流され、牙が何もないところを噛む。
木の根に手をついて起き上がる。
グレイホーンが片腕をこちらへ振り抜いていた。枝が大きく揺れ、舞い上がった葉がまだ宙を回っている。
黒牙虎が着地し、低く唸った。
「レオナ!」
ニナが駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
「うん」
レオナはグレイホーンを見る。
「……助けてくれたのかな」
「そう見えたけど」
ニナは腰の袋から、赤みのある小さな魔石を取り出した。
「戻らないんだね。なら、早く終わらせるよ。私もここにいるんだから」
黒牙虎が再び地面を蹴った。
今度はレオナへ真っ直ぐ来る。
ニナが魔石を握る。
黒牙虎の顔の前で空気が揺らいだ。鼻先を焼くような熱気に、黒牙虎が顔を背け、前脚の運びが乱れる。
そこへグレイホーンが大きく踏み込んだ。
頭を低くし、角を振り上げる。
角が黒牙虎の脇腹を掠めた。
黒牙虎は地面を転がったが、すぐに起き上がった。黄褐色の毛が何本か宙へ舞う。
ニナがレオナの隣へ下がる。
「何度も使える石じゃないの。次に使うとき、合わせてね」
「うん」
黒牙虎はすぐには来なかった。
低く身を伏せ、尾をゆっくり振りながら木々の間を横へ歩いている。グレイホーンも追わず、ゴブリンたちの前に立っていた。
黒牙虎が足を止めた。
レオナを見たかと思うと、その視線が横へ流れる。
次の瞬間、地面を蹴った。
「そっち!」
ニナが叫ぶ。
向かった先はゴブリンだった。
グレイホーンが身体を翻し、その進路へ飛び込む。
黒牙虎が跳んだ。
グレイホーンは腰を落として角を突き出した。角が胸へ入ったものの、勢いは殺しきれない。黒牙虎の前脚が肩へ絡みつき、グレイホーンは踏ん張ったまま大きく押し込まれた。
ゴブリンまで、あとわずかだった。
レオナは手を上げた。
黒牙虎のすぐ後ろに、グレイホーンがいる。
朝の三つの木の実が頭に浮かんだ。真ん中だけを押そうとして、三つとも転がった。
「……一つだけ」
黒牙虎がさらに身体を押しつける。グレイホーンの足が土を削り、その後ろで足を痛めたゴブリンが体勢を崩した。
レオナは黒牙虎の肩を見る。
黄褐色の毛に走る、黒い筋。
そこへ手を向ける。
押す。
落ち葉は舞わなかった。
黒牙虎だけが横へ飛んだ。
一瞬遅れて、森の奥で大きな音が響く。低木を薙ぎ倒し、その向こうの大木へ横腹からぶつかった黒牙虎が、根元へ転がった。
「……え」
グレイホーンは踏ん張った姿勢のまま、そこに残っている。
レオナは自分の手を見た。
黒牙虎が動いた。
ゆっくり身体を起こし、四本の脚で立つ。片方の前脚が一度沈んだ。
グレイホーンは上体を起こし、黒牙虎を見たままゴブリンたちの前まで下がった。
黒牙虎は低く唸ったまましばらく動かなかったが、やがて一歩、二歩と距離を取り、身体を翻して木々の間へ走り去った。
枝の折れる音が遠ざかっていく。
それでもグレイホーンは、しばらく黒牙虎が消えた方向を見ていた。
やがてゆっくり振り返り、負傷したゴブリンのそばまで歩み寄る。
グレイホーンが膝を折ると、ゴブリンが手を伸ばしてその肩に置いた。
「……今のうちに戻ろう」
ニナが言った。
さっきまでより声が小さかった。
「またあれが戻ってくるかもしれない。ほかにもいるかもしれないし」
レオナは頷きかけた。
そのとき、二体のゴブリンが負傷した仲間を立たせようとした。両側から腕を支えて身体を持ち上げ、一歩だけ進む。しかし二歩目で傷ついた脚から力が抜け、二体が慌ててその身体を支えた。
グレイホーンも立ち上がり、そのそばへ一歩寄る。
「待って」
「何?」
「あれじゃ帰れないよね」
「でも、仲間もいるし、グレイホーンもいる」
レオナはゴブリンの脚を見た。傷口から流れた血が、足首のあたりまで伝っている。
「ネラなら、治せるかな」
「わからないよ」
ニナも傷を見た。
「ゴブリンを診てくれるかも分からないし」
「ネラに聞く。治せるなら、歩けるようになるかもしれない」
「その前に、あの子たちが来てくれるかだけどね」
レオナはゴブリンたちへ近づいた。
槍を持った一体が半歩前へ出たので、その場で止まる。
「治せる人がいる」
反応はなかった。
レオナは自分の脚を指し、それから負傷したゴブリンの脚を示した。最後に、自分たちが来た道を指す。
「こっち」
三体はレオナを見ていたが、動かなかった。
ニナが先に道へ戻る。
「行こう。来るなら、ついてくるでしょ」
レオナはもう一度ゴブリンたちを見た。グレイホーンも立ったままこちらを見ていたが、それ以上は近づかず、ニナの後を追った。
森の中をしばらく進んだところで、後ろから落ち葉を踏む音が聞こえてきた。
振り返ると、二体のゴブリンが負傷した一体を両側から支え、ゆっくりこちらへ歩いていた。一歩進むたびに三体の身体が同じ方へ傾く。それでも止まる様子はない。
レオナが待っていると、隣でニナも足を止めた。
「通じてたみたいだね」
「うん」
三体が少しずつ近づいてくる。その向こうでは、グレイホーンがまだ木々の間に立っていた。ゴブリンたちが離れていくのを見送るように、その場から動かない。
やがて三体が木々に遮られて見えなくなるころ、グレイホーンも森の奥へ身体を向けた。枝の間に灰色の角が一度だけ見え、それもすぐに消えた。
ゴブリンたちが追いつくのを待ってから、レオナとニナもまた歩き出した。
腰の袋の中で、三つの木の実が小さく触れ合った。




