第16話 森の手前
昨夜は尾根を下ったところで野営した。夜には何度か獣の声がしたが、何事もなく朝を迎えた。
三台の荷車は、昨日遠くに見えていた煙へ向かって、再び坂を下った。
昼前には、その煙のもとへ着いた。
大森林の手前にある交易場だった。
レオナはもっと大きな場所を想像していたが、実際には大きな屋根が二つと、数棟の小屋があるだけだった。門も柵もない。その代わり、狭い場所には荷車や馬、人、それに森から運び出された品が所狭しと並んでいる。
三台の荷車が入るなり、声が飛んだ。
「鉄は?」
「二台目」
「塩もあるか?」
「あるぞ」
昨日まで一緒に歩いていた一行も、着いた途端にそれぞれの仕事へ散っていく。荷主は取引相手を探し、御者は馬を外し、ニナは積み荷を確かめた。
レオナも木箱へ手を伸ばす。
「それは手で持ってね」
「分かってるよ」
昨日の倒木のことをまだ気にしているらしい。
レオナは箱を両手で持ち上げた。少し重い。その重さが妙に新鮮で、そのまま屋根の下まで運んだ。
そこには、ハルから来た鉄器や布、塩と入れ替わるように、森の品が並んでいた。
乾燥した葉や樹皮、獣皮。樹液の入った瓶。色の違う粉の紙包み。苦い匂いと甘い匂いが入り混じっている。
「この辺、全部薬?」
「だいたい。傷に使うのも、腫れに使うのもある」
ニナはそう答えたが、レオナが別の包みを指すと首を振った。
「それは知らない」
「ニナも?」
「薬を選ぶのは別の人。私は、それがここまで無事に来る方をやってるの」
少し離れたところでは、小瓶を挟んだ男たちが「前より薄い」「同じだ」と揉め、その隣では別の男が乾燥した根を折って中身を確かめていた。
一通り荷が片づくと、ニナは交易場の端にある太い柱へ向かった。
表面には炭で川や道らしい線が描かれ、いくつもの印が書き足されている。
「北の沢は昨日ゴブリン。見えたのは三匹」
「南はトロルが出た。今日はやめとけ」
集まっていた男たちが、昨日から今朝までの話を伝えていく。
レオナは柱を覗き込んだ。
「三匹のゴブリンより、一頭のトロルの方を避けるの?」
「そういう決め方じゃないよ」
ニナは西側の線を指でなぞった。
「逃げられる場所も見るの。数だけなら、一頭だからってトロルに近づいちゃうでしょ」
朝から西へ入った二人がいる。その二人が無事に戻れば、今日はそちらを使うらしい。
話し終えた男が、柱の古い印を指で擦って薄くした。
しばらくして、森の方から三人の人影が現れた。
最初に目についたのは背の高さだった。
三人とも長身で細身だったが、大きな籠を背負った姿は旅慣れている。丈夫そうな服の裾は泥に汚れ、それでも三人とも目を引くほど顔立ちが整っていた。
先頭の一人が顔を上げる。
淡い茶色の髪。
その間から、細長い耳が伸びていた。
「エルフ?」
「そう」
ニナが答えた。
レオナは耳を見た。
想像していたより長い。
三人が交易場へ入ると、先頭のエルフは籠を地面へ下ろし、腰を伸ばした。
「重い」
「自分で持ってきたんでしょ」
「だから重いんだよ」
後ろの一人に返しながら、こちらを向く。
レオナと目が合った。
「何?」
「耳」
「耳?」
「長い」
エルフは自分の耳へ触れた。
「長いね」
「レオナ、見すぎ」
「初めてだから」
「好きなだけ見たら? 人間の子どもも、最初はずっと見てるよ」
「子どもじゃないよ」
そう返すと、相手はレオナを一度見直した。
「そうなの?」
ニナが吹き出した。
「リセ、久しぶり」
「そうでもないでしょ」
「八年前だけど」
「八年なら、この前でしょ」
「そっちにはね」
「人間は忙しいね」
リセは何でもないことのように言って、籠を開いた。
すぐに商人たちが寄ってきて、薬草や薬と、鉄、塩、針の交換が始まる。
「前の針、二本折れた」
「何に使ったの?」
「革」
「どれくらい厚い?」
話はすぐに細かくなった。
レオナはその横で、小さな木箱を覗いた。
薄い緑色の粉が入っている。
「これも薬?」
「深い傷に使うよ」
「どうやって作るの?」
「それは教えない」
リセは取引の手を止めなかった。
「なんで?」
「決まりだから」
「ニナにも?」
「森の外にはね」
隣で瓶を並べていた別のエルフが、顔も上げずに言った。
「聞いても同じだよ」
ニナが笑う。
「前に聞いた」
「でしょ」
リセも笑い、そのまま商人の方へ向き直った。
「で、針は何本いるの?」
朝に森へ入っていた二人が戻ってきたのは、その少しあとだった。
背負子いっぱいに草を積み、服は泥で汚れていたが、怪我はない。
「西は?」
「鹿を見たくらい。大きいのはいなかった」
ニナは頷き、柱の西側へ小さな印を足した。
「じゃあ今日は西」
その横で、リセたちは人間から受け取った鉄や塩を籠へ詰め直している。柱のやり取りには加わらず、帰り支度を進めていた。
ニナがその一人へ声をかけた。
「リセ。一つ頼みがあるんだけど」
「何?」
「この人、魔力を細かく使えるようになりたいんだって」
リセは荷をまとめながらレオナを見る。
「何ができるの?」
「押せる」
「へえ」
「必要なところに、必要な分だけ使えるようになりたい」
「そういうのが得意な人ならいるよ」
紐を引きながら答える。
「会える?」
「どうだろ。聞いとくくらいならいいけど」
「お願い」
「分かった、分かった」
リセはまた荷へ目を落とした。
レオナも、話はそれで終わったと思った。
「前みたいに死にたくないし」
紐を引いていた手が止まった。
リセが顔を上げる。
「……死んだ?」
「うん」
「魔力を使って?」
「全力で押したら、身体が壊れた」
途中まで締められていた紐から、リセの手が離れた。
「それは話が違う」
今度は、きちんとレオナを見た。
ニナにも視線を向ける。
「本当?」
「本当」
リセはしばらく黙った。
「魔力を使って、自分の身体が壊れたなんて話、聞いたことがない」
レオナは少し身を乗り出した。
「じゃあ、どうしたらいい?」
「私じゃ分からない」
返事はすぐだった。
リセは少し考えてから、森の奥へ目を向けた。
「身体に魔力を使うことなら、私よりずっと詳しい人がいる」
「その人なら分かる?」
「分からない。でも、この話はした方がいい」
先ほどまでとは違って、もう荷造りには戻らなかった。
「聞いてみるよ」
「会える?」
「まず私が話す」
そこだけははっきりしていた。
「私だけで決められないから」
「分かった」
レオナは頷いた。
リセはようやく紐を取り直した。
「そういう大事なこと、先に言ってよ」
「聞かれなかったから」
「そこは言うところでしょ」
ニナが笑った。
リセも笑ったが、それから荷をまとめ終えるまでに、何度かレオナの方を見た。
昼を過ぎるころ、森へ入る準備が整った。
人間から受け取った鉄や塩は、エルフたちが背負える量へ分け直されている。
三台の荷車は交易場に残った。
「途中までは一緒だから」
ニナが言った。
リセが先に森へ入る。
ほかのエルフたちも迷いなく続き、ニナがそのあとへ入った。
レオナも続こうとして、足元を見た。
ハルからここまで、何台もの荷車が通ってきた。
新しい轍も、雨に削られた古い轍も重なっている。
それが、目の前で途切れていた。
轍の途切れた先を、リセたちは何でもないように歩いていく。
レオナも、その細い道へ足を踏み入れた。




