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あの世界ができるまで ~死ぬたび未来に目覚める少女と、「いつもの異世界」ができるまでの数百年~  作者: 古江 門
第三章

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第15話 石を持つ護衛

 翌朝、ハルの東門には三台の荷車が並んでいた。


 塩の袋、鉄の道具、布、いくつもの木箱。荷台の隙間には水桶や予備の縄まで括りつけられ、御者たちが出発前の確認を続けている。


 レオナが近づくと、二台目の荷車の脇でニナが縄を引いていた。


「これ、エルフのところまで持っていくの?」


「そこまでは行かないよ。森の手前に交易場があるの。人間はだいたいそこまで」


「エルフも来る?」


「来ることはある」


「じゃあ会えるかもしれない?」


「運がよければね」


 それでレオナは上機嫌になった。


「早く行こう」


「荷を見終わったらね。会う前に落としたら、渡すものがなくなるよ」


「ちゃんと載ってるよ」


「途中で落ちたら困るでしょ」


「私が拾うよ」


「全部?」


 レオナは三台分の荷を眺めた。


「……大変そう」


「でしょ」


 ニナは笑い、最後の縄を締めた。腰には大小の魔石が決まった位置に並んでいる。


「レオナは二台目の横ね」


「ニナは?」


「私は前と後ろ。レオナは、二台目から離れないこと」


「じゃあ私も」


「道知らないでしょ」


「ついていけば分かるよ」


「道が分からない人に見回らせるわけないでしょ。今日は二台目をお願い」


 そう言って、ニナは先頭の荷車へ歩いていった。


 小さかったニナに、歩く場所を決められている。妙な感じはしたが、嫌ではなかった。


 やがて御者の声が飛び、先頭の馬が歩き出した。三台の荷車が順に門をくぐる。


 石を噛んでいた車輪の音が、土を踏む鈍い音に変わった。


 両脇に迫っていた家並みが途切れ、横から風が吹いてくる。振り返れば、ハルの屋根はもう門の向こうに重なっていた。


 前には一本の道が伸び、緩やかな丘の向こうへ消えている。


 レオナは二台目の横から少し前へ出た。


「そこじゃないよ」


 後ろからニナに言われ、また戻った。


 初めのうちは畑が続き、その先で道は川に沿って山の方へ曲がった。川面で魚が跳ね、レオナはもう一度跳ねるのを待った。


「レオナ」


 呼ばれたときには、二台目の荷車はもう先へ進んでいた。小走りで戻り、今度は車輪の音を聞きながら川を見た。


 昼が近づくころには畑も家もほとんど見えなくなった。片側には林が続き、反対側では斜面の下を細い川が流れている。


 ほどなくして、前方の荷車が止まった。


 太い倒木が道を塞いでいた。


 根元から折れた木が斜めに横たわり、枝を道いっぱいに広げている。御者の一人が斧を取り出し、別の男が腰の魔石へ手をやった。


「枝から落とすか」


「押した方が早いな」


「私がやる」


 レオナが前へ出ると、男たちがニナを見た。


「できる?」


「できるよ」


 ニナは倒木を一度見てから頷いた。


「じゃあ頼もうか」


 レオナは幹の真ん中へ手を向けた。


 少し力を掛けると、湿った土が盛り上がり、倒木がずるりと動いた。まだ重い。もう少しだけ押す。


 幹が地面を離れた途端、抵抗がなくなった。


「あ」


 倒木が道の外へ跳ねた。


 太い枝を振り回しながら斜面へ落ち、ごろりと回る。葉を散らし、低木を押し倒し、そのまま下へ滑っていった。


 ずいぶん遠くで、どん、と音がした。


 鳥の群れが一斉に木々から飛び立つ。


 しばらく、皆で斜面を見ていた。


「……通れるよ」


「通れるね。下まで行ったから、帰りも困らなそう」


 御者が斜面を覗き込む。


「川には落ちてないな」


「なら行ける」


 後ろで誰かが笑った。


「帰りも頼むか」


「今度は下まで飛ばさないよ」


 レオナが答えると、また笑い声がした。


 荷車が動き始める。


 少しして、ニナが横へ戻ってきた。


「次は飛ばす前に、行き先を決めようね」


「うん」


 レオナも一度だけ斜面を振り返った。


 午後になって低い尾根を一つ越えると、道の様子が変わった。


 両側の木々が急に高くなり、太い枝が頭上で重なる。陽射しは葉の隙間から細く落ちるだけになり、乾いていた風には湿った土と葉の匂いが混じった。


 振り返ると、さっきまで見えていた丘も空も、すでに木々の間へ隠れている。


「これで、まだ大森林じゃないんだね」


 重なった枝のずっと上に、青空が小さく覗いていた。ニナが道の先を指すと、レオナはそちらを見て笑った。


 ニナは先頭と最後尾の間を行き来しながら、ときどき泥に残った跡を見たり、折れた枝へ触れたりしていた。


 レオナも道の脇を見た。折れた枝なら見つけられたが、いつ折れたものかは分からない。ニナが足を緩めたところだけ、自分も少し長く見てから進んだ。


 しばらく進んだところで、そのニナが片手を上げた。


 三台の荷車が止まる。


「いた?」


「いるね」


 道の先、低い藪の向こうで枝が揺れていた。


 やがて大きな灰色の頭が現れる。


 猪に似ている。ただし肩は人の胸ほどの高さがあり、湾曲した牙が顎の両側から伸び、背には岩のような瘤がいくつも並んでいた。


 鼻先には黒い泥がついている。


 魔獣は道へ出ると、一度こちらを見て、それから沢の方へ鼻を向けた。近くの木へ身体を擦りつけ、ざらりと樹皮を剥がす。


「大きい」


「そこそこね」


「押していい?」


「まだ」


 ニナは腰の魔石にも触れなかった。


 魔獣が前脚で土を掻く。身体は少し横を向き、片方の耳も森の方を向いたままだった。


 ニナは道端の足跡を見てから、泥に濡れた鼻先へ目を戻した。


「水飲みに来てるだけだね」


「じゃあ来ない?」


「こっちから近づかなければね」


 ニナが後ろへ手を上げた。


「少し戻そう。さっきの分かれ道から上を回る」


 御者たちはすぐに馬の向きを変え始めた。誰も武器を抜かず、魔獣もその場から動かない。


「倒さないの?」


「今日は荷を運ぶ日だからね」


 二台目の馬が大きく鼻を鳴らした。


 身を返そうとして後ろへ下がり、御者が慌てて手綱を引く。片側の車輪が道端の石へ乗り上げ、荷車が大きく傾いた。


「おい!」


 木箱が一つ、縄の下から滑り出す。


 角から地面へ叩きつけられ、板が割れた。


 鉄の金具や小さな道具が石の上へ一斉に散り、甲高い音が森へ響く。


「ああっ!」


 荷主の男が声を上げた。


 魔獣の頭が跳ね上がった。


 さっきまで森へ向いていた耳もこちらを向き、身を引くように二歩ほど横へ動く。だが、その先には向きを変えかけた荷車があった。


 魔獣が止まった。


 荒い鼻息が聞こえた。


 首が低くなる。


 ニナが小さく息を吐いた。


「あー。来るね」


「今は分かる?」


「分かりやすいでしょ」


 右腰から小さな魔石を抜いた。


「馬はゆっくり下げて。急に走らせないで」


 御者たちが手綱を引く。


「レオナ、その蓋だけどけて。馬の前」


 割れた木箱の蓋が、一頭のすぐ前へ転がっていた。


「どこまで?」


「右。道から出ればいい」


 レオナは蓋へ力を掛けた。木板が地面を滑り、道脇の草へ入る。


「そこ」


 止めた。


 魔獣が走り出した。


 大きな身体が沈み、土が後ろへ飛ぶ。


 レオナが反射的に手を上げる。


「まだ」


 ニナは小さな石を握ったまま、迫ってくる魔獣の足元を見ていた。


 右前脚が地面を離れたところで、青白い光が走った。


 着地点の脇から土と枯葉が弾け飛ぶ。前脚が外へ流れ、巨体が大きく傾いた。


 だが、すぐに踏み直す。


 首がこちらへ戻った。


「早いな」


 ニナは使った石を掌に残したまま、左腰からもう一つ抜いた。


 レオナはその手元を見た。


 隣の護衛も赤みを帯びた魔石を構える。


「熱、入れる?」


「待って」


 魔獣はすぐには走らず、首を低くしたまま距離を詰めてくる。ニナも同じだけ下がり、鼻先が大きく動いたところで短く言った。


「今。右」


 赤い石が光った。


 道の右側で空気が揺れ、枯葉が巻き上がる。


 魔獣が顔を背け、身体を左へ振った。


 ニナは左手の石を返すように向ける。


 青白い光が肩の脇へ当たり、横へ向きかけていた巨体がさらに一歩ずれた。


 魔獣はそこで止まった。


 低く唸り、こちらを見ている。


 ニナは石を下ろさず、少しだけ距離を取った。


 しばらくして、魔獣が大きく鼻を鳴らした。


 一歩、後ろへ下がる。


 そのまま身体を返し、藪の中へ入っていった。


 ニナはまだ動かない。


 灰色の背中が消え、枝の揺れも遠ざかったところで、ようやく手を下ろした。


 左手の石は元の袋へ戻し、右手の小さな石だけを反対側の空いた袋へ入れる。


「もういいよ」


 荷主の男はすぐに壊れた木箱へ駆け寄った。


「参ったな……」


 側板が一枚割れ、底にもひびが入っている。中身の鉄道具は大半が無事だったものの、細かな金具は草の中まで散っていた。


 皆でしゃがみ込み、一つずつ拾う。


「これも?」


「それも。そっちの輪っかも」


 レオナも泥を払いながら麻袋へ入れた。


 壊れた箱は使えず、中身は別の箱と麻袋へ分け直す。


「箱一つ駄目だな」


 荷主が割れた板を持ち上げる。


「中身が無事だっただけましか」


 ニナは荷台に残った縄を取った。


「切れてない」


「馬が横へ振ったから抜けたんだろ」


 御者が答える。


 ニナは予備の縄を一本取り、積み直した荷へ横から回した。


 それを見た御者も、黙って隣の荷車へ縄を一本足す。


 荷主は森の方を見た。


「さっきの牙なら、箱代くらいにはなったな」


「追わないの?」


「荷三台置いて森に入るほどじゃないさ」


 男はレオナを見た。


「まあ、お前なら倒せそうだけどな」


「倒せると思う」


「じゃあ、そのあと運んでくれるか?」


 レオナは灰色の巨体を思い出した。


「……重そう」


「だろ?」


 ニナが最後の縄を締める。


「狩りなら、最初からそのつもりで来るよ」


「今日は?」


「届ける日」


「そっか」


 レオナは藪の奥を一度見てから、拾った最後の金具を麻袋へ落とした。


 一行は少し戻り、川から離れる道へ入った。


 元の街道より狭く、石や張り出した木の根が多い。さっきの騒ぎで時間も使ったため、皆の歩調は少し速くなっていた。


 斜面の途中で、一台目の車輪が泥へ沈んだ。


 レオナが荷車へ手を向ける。


「待って。全部押すと馬まで行く」


 ニナが横から言った。


「じゃあ、どこ?」


「右の車輪。あの乾いた土まで」


「ここ?」


「もう少し右」


 レオナは指された場所を見る。


 力を掛けると、泥の中で車輪が少し浮き、ゆっくり横へ滑った。


「そこ」


 レオナが力を止める。


 御者が手綱を引くと、車輪は泥を抜け、荷車が前へ進んだ。


「今のは?」


「ちょうど」


「よし」


 レオナも荷車のあとを追った。


 日が傾き始めたころ、一行は長い斜面を登り切った。


 最後の数歩まで、前には木々しか見えていなかった。


 先頭の御者が尾根を越える。


「見えたぞ」


 その声を追って、レオナも登った。


 木々が途切れた途端、風が来た。


 湿った森の空気を抜けてきた風が頬へ当たり、髪を後ろへさらっていく。


 レオナは尾根の上へ出た。


 足が止まった。


 森しかなかった。


 眼下の谷も、その向こうの丘も、さらに遠い山の裾まで木々に覆われている。


「……全部、森?」


「うん」


 ニナが隣へ立った。


 ずっと下を、鳥の群れが横切っていく。


 レオナはその行方を追った。鳥たちは緑の上を飛び続け、やがて遠くの木々へ紛れて見えなくなる。


 森の手前、遥か下の方から細い煙が何本か立ち上っていた。


「あれ?」


「交易場。明日には着くよ」


「ニナ」


「何?」


「明日、会えるかな」


 ニナは交易場の煙を見た。


「来てるといいね」


 レオナはもう一度、煙の向こうに続く森を見渡した。


 三台の荷車が、尾根の向こうへゆっくり下り始めた。


 レオナもそのあとを追う。


 荷車の向かう先で、細い煙が大森林の手前に立ち上っていた。


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