第12話 昨日の続き
ハル北方の山地で起きた坑道事故以後の二十五年間に、魔石の利用は採掘地から人間の労働と移動を支える仕組みへ広がっていった。
蓄えた魔力を短時間に放出する性質は各地で検証され、岩を割り、荷を動かす仕事に使われた。魔石の流通量が増えるにつれ、道路工事や建築、窯や炉にも利用が広がった。同時に、地下でつながった自然鉱脈へ大量の魔力を流し込む危険も知られ、切り出した魔石を坑外で充填して運ぶ方法が広まった。使い方を伝える記録の中には、失敗した条件と、それを避けるための決まりも残されている。空になった石へ力を込め、別の働き手や現場へ渡すこと自体を生業とする者も現れた。
同じような石をどれほど早く満たせるか、どれだけ長く力を使い続けられるか。魔石を扱う者が増えるにつれ、個人の経験として語られていた違いが、比較できる記録になっていった。押す力と火を起こす力を別種の魔力とする説など、後に否定される解釈も、この時期には支持されていた。異なる土地の観察や実験結果が集まるほど、単純な強弱や分類では説明のつかない現象も現れ、それらを条件を揃えて調べる研究都市も成立した。
交易路は山地の外へ伸び、森林の薬や遠方の加工品が人間の町へ入った。ただし、変化は土地によって異なり、古い習慣は新しい技術と長く併存した。後に「魔石革命」と呼ばれたのは、完成した技術が一度に現れた時代ではなく、失敗が規則になり、人の行ける場所が少しずつ遠くなった時代だった。
***
風が吹いていた。
肌に、少し冷たかった。
木々の葉が揺れ、日の光が細かく地面を動いている。夏のあいだに伸びた草は膝ほどの高さになり、日陰の土にはまだ湿り気が残っていた。
遠くで、石を打つ音がした。
それも山を一つ回り込むと聞こえなくなった。
ユアンは道を外れ、細くなった踏み跡へ入った。この日は麓まで来る用があり、帰りに少し遠回りをした。
二十五年前には何人もの人間が行き来していた場所だったが、坑道が閉じられてからは草木の方が勢いを取り戻している。かつて裸だった斜面には灌木が根を張り、崩れた岩の隙間から伸びた若木は、もう人の背丈を越えていた。
事故のあと数年間は、近くまで来ればよくここへ寄った。山へ来る用事が減るにつれて、何年も足を向けないことも増えていった。
それでも、道筋まで忘れることはなかった。
枝を押し分けた先で視界が開き、草の向こうに崩落跡が現れた。
その手前に、小さな灰色の石が立っている。
二十五年の雨風を受け、角は少し丸くなっていた。それでも周囲の草は短く刈られ、根元の土も崩れていない。石の表面もきれいにされ、刻まれた文字を覆うような苔はなかった。
レオナ。
浅く刻まれた名前は、今もはっきり読めた。
ユアンが最後にここへ来たのは、もうずいぶん前だった。誰が手を入れたのかは知らない。この辺りで働く者の誰かだろう。
ユアンは石の前へ立ち、しばらく黙っていた。
墓と呼ぶ者もいた。
けれどユアンは、今でもそう呼ぶ気にはなれなかった。
「……久しぶりだな」
声は静かな木立の中へ消えていった。
返事があるはずもない。ユアンはもう一度名前を見てから、来た道へ戻ろうとした。
そのとき、岩の間で何かが光った。
ユアンは足を止めた。
崩れた坑道の入口近く、石と石の間に、ごく淡い青白さが滲んでいる。
山の中で長く働いた者なら見間違えようのない色だった。
ユアンは反射的に二歩下がり、腰の革袋へ手を伸ばした。中には、充填済みの魔石が入っている。
青白い光が強くなった場所へ不用意に近づかない。
それは、もうこの辺りでは珍しくもない決まりだった。
しかし目の前の光は、ユアンの知る鉱脈の光り方とは違っていた。岩の割れ目を細く走るのでも、奥から次々に明るくなるのでもない。岩から少し離れた草の上に、薄い霧のような光が漂い、その縁だけがゆっくり濃くなっている。
風が吹いても揺れなかった。
ユアンは革袋から魔石を一つ抜き、身体の前へ構えながら、さらに距離を取った。
光は膨らまず、むしろ内側へ縮み始めた。
白く霞んでいたものが徐々に密度を増し、その中心に暗い影が生まれる。初めは倒木の影にしか見えなかったものが、やがて二本の脚の形を取り、その上に胴、肩、腕の輪郭が続いた。
ユアンは息をすることさえ忘れていた。
草が、何かに押されたようにゆっくり伏せた。まだ何もないように見える場所へ、先に重さだけが戻ってきたようだった。
その上に髪が広がり、輪郭の内側へ色が戻り、やがて一人分の身体が草の上に横たわった。最後の薄明かりが顔の上から抜けたとき、その女が咳き込んだ。
「……っ」
片手が土を掴み、身体がゆっくり起き上がる。
女が顔を上げた。
ユアンは、二十五年間一度も見ていなかった顔を見た。
その顔だけが、二十五年前のままだった。
***
冷たい土の感触が、掌にあった。
レオナは何度か咳き込み、うまく入らない息を整えながら身体を起こした。鼻の奥には湿った土と枯れかけた草の匂いが入り、頬を撫でる風は、坑道の中にいたときよりずっと冷たかった。
明るい。
最初にそう思った。
さっきまで周囲にあったはずの岩壁も、青白く光る鉱脈もない。頭上には木の枝が重なり、その隙間から昼の光が落ちている。
少し離れたところに、一人の男が立っていた。髪には白いものが混じり、頬も記憶より痩せている。額や目元には細かな皺があり、腰には見覚えのない革袋を下げていた。
見覚えがあるような気はした。
けれど、すぐには誰なのか分からなかった。
「……レオナ?」
その声を聞いて、レオナは目を見開いた。
「……ユアン?」
男の手から青黒い石が落ちた。
レオナは周囲を見回した。背後には大きな岩が折り重なり、その隙間には草が伸びている。坑道の入口らしい場所も見当たらず、木々も記憶よりずっと近くまで迫っていた。
まず浮かんだのは、坑道の中に残してきた人たちだった。
「ローデンは? ギドは? みんな、外に出られた?」
ユアンはすぐには答えなかった。そのわずかな間が嫌に長く感じられ、レオナは立ち上がろうとして片膝をついた。
「ああ。助かった」
その答えを聞いて、胸の奥に詰まっていたものが一気に抜けた。
「よかった……ギドも?」
「生きてる。脚は悪くしたがな」
「脚……」
そこで、レオナはもう一度ユアンを見た。
髪の色も、頬も、坑道で自分へ手を伸ばしていた男とは明らかに違っていた。
「……ユアン、だよね?」
「俺だよ」
ユアンが少し笑った。
その笑い方には覚えがあった。
レオナは立とうとしたが、思うように力の入らない脚がもつれた。ユアンがすぐに近づき、手を差し出す。
その手を見て、レオナは動きを止めた。
穴の上から伸びていた手。
あと少しで届くはずだった。
けれど、今そこにある手は皮膚が厚くなり、指の節が目立ち、手の甲には以前にはなかった筋が浮いていた。
レオナはその手を取った。
「私、落ちたよね」
「ああ」
「ユアンの手、もう少しだった」
引かれて立ち上がりながら、レオナは自分の服へ目を落とした。破れた場所も、汚れも、覚えている通りだった。
落ちたあと、光を押し返した。
暗くなった鉱脈がもう一度青くなり、次の衝撃で身体を岩壁へ叩きつけられた。胸の奥で何かが潰れたような感触までは覚えている。
その先がない。
レオナは目の前のユアンを見た。
「どれくらい?」
「二十五年」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……二十五年?」
「ああ」
風が木々を揺らし、乾きかけた葉が何枚か頭上から落ちてきた。
レオナはまだ握っていたユアンの手を見た。
数字より、その手を見ている方がよく分かった。
自分にとっては、あの穴から伸びてきた手を見たのは、ついさっきのことだった。
レオナはゆっくり手を離した。
「じゃあ……私、また死んだんだ」
ユアンは何も言わなかった。
返事がなくても、それで十分だった。
視界の端に、小さな石が見えた。周囲の草だけが短く刈られ、その表面に何かが刻まれている。
近づいて見る。
レオナ。
自分の名前だった。
「これ、墓?」
「いや。墓にするには、何もなかったからな」
レオナは振り向いた。
「何も?」
「崩れが止まってから、何度も戻った。お前の服でもあれば持ち帰れたんだが、何もなかった」
レオナは石へ指を触れた。
日陰にあった表面は冷たく、指先に細かなざらつきが伝わってくる。雨風で角は丸くなっているのに、刻まれた自分の名前はきれいに残っていた。
レオナは、石に刻まれた名前と、土のついた自分の手を見比べた。
何も残らなかったという。
なのに、自分の手は今、自分の名が刻まれた石に触れている。
「……帰るか」
ユアンの声に、レオナは顔を上げた。
「どこへ?」
「ハルだよ」
「まだあるんだ」
「あるさ」
ユアンが、さきほど落とした青黒い石を拾った。表面についた土を親指で払い、ごく自然な手つきで革袋へ戻す。
レオナはそれを目で追った。
「それ、あの石?」
「ん?」
ユアンは一瞬だけレオナを見て、それから手元の石へ目を落とした。
「ああ。魔石のことか」
「魔石?」
「今はそう呼んでる」
レオナはひとまずユアンのあとを追った。
山を下る道は、記憶にあるものとはかなり違っていた。以前は避けて歩いた岩の張り出しがきれいに削られ、雨が降るたびに土が流れていた斜面には石が何段も積まれている。足元にも砕いた石が敷かれ、二人が並んで通れるほど広くなった場所さえあった。
木々そのものは変わらないように見えるのに、人の手が入った場所だけが知らない土地のようだった。
レオナは歩きながら、前にいるユアンの背中を見た。肩の位置は記憶より少し低く、歩幅も以前とは違う。
二十五年。
まだ数字としてしか分からなかったものが、目に入るもの一つ一つに形を持ち始めていた。
しばらくして、ユアンが思い出したように言った。
「ミラも元気だぞ。ニナもな」
レオナは顔を上げた。
「二人とも?」
「ああ」
レオナは息を吐いた。
「よかった」
レオナは再び歩き出し、少し先を行くユアンの背中を見た。
自分にとっては、昨日の続きだった。
その背中には、二十五年があった。




