【5】信長の葬儀
天正十年(1582年)に起こった 武田家の旧領を巡る争乱は、徳川家が甲斐・信濃を、北条家が上野を領有するという条件で講和に至った。この条件が、もうひと波乱 起こすことになるが…。それはまだ先の話である。
【1582年 9月上旬 山崎城にて 羽柴秀吉】
俺は、柴田勝家を嫌いではない。若い頃はよく世話にもなった。
勝家は元々、勘十郎(信長の弟)様の家臣だったせいで、信長様との家督争いでは敵になってしまったが、信長様に許されてからは、ひたすら実直に働いてきた。信長様も、勝家の功績の大きさを認めていた。
勝家にとっての忠誠の対象は、信長様のみならず〈織田家〉そのものだった。だから一族内で争うのを、本当は見たくないんだ。三法師様の後見人に信孝様を推したのも、自分が織田家を守りたかったからなのだろう。信長様亡き後の織田家の行く末を、出来る限り話合いで決めようとする姿勢も その現れだったと、今になって気づいたよ。
だが、俺は違う。
俺には信長様がすべてだった。もしも信忠様が生きておられたら、信忠様を信長様だと思ってお仕えしただろう。信忠様は、信長様が自ら指名した後継者だったからだ。
そのお二人がいなくなった今、俺の織田家への忠誠は消えた。
だから、織田家を守りたい柴田勝家とは、戦うしかないんだ。そして、その準備も整った。
柴田勝家、俺はあんたを、殺す。
【9月上旬 坂本城にて 丹羽長秀】
勝家は、私をずっと信頼してくれていた。おそらく今でも そうなのだろう。私もあの男に悪い感情を抱いたことはなかった。
勇猛で剛直なわりに、下の者には鷹揚で、何より裏表がない良い男だ。だから私の気持ちの上では、勝家の力になってやりたかった。
しかしあの男に、信長様亡き後の織田家の舵取りを任せられるとは思えない。勝家も私も、頂点に立てる器ではないのだ。有能な主君の下でならば力を発揮できるが、それは信孝様ではダメだ。だから私は秀吉に付いた。近江佐和山を掘秀政に譲り、坂本への移封を受け入れたのも、実は秀吉との打合せ通りだったのだ。
あの選択が最善だったかどうかは まだ分からないが、他に方法はなかった。それに私は織田家の存亡に強い関心はない。織田信長様に仕えていたから、ここまでの地位を得られたのは事実だが、私には織田家より丹羽家の存亡のほうが重要だ。
私はあと数年のうちに死ぬ。天下が誰のものになるかを、見ることはないはずだ。ならば尚更、誰の夢、誰の野望に賭けても同じことなのだ。勝家には悪いが、私は丹羽家が生き残る可能性が高いほうを選んだ。ただ、それだけなのだ。
【9月上旬 北之庄城にて 柴田勝家】
信長様は、天下統一を目の前にしていた。明智光秀の謀叛がなければ、あと一年か二年で天下を取っていただろう。せめて、信忠様だけでも生きておられれば、混乱を最小限で抑えられ、大きく滞ることなく織田家の天下統一が為されていたはずだ。
だがあの日 お二人が討たれてしまい、織田家の天下は遠のいてしまった。俺が攻めていた上杉家など、あと一ヶ月もあれば攻め滅ぼせていたのに、こちらが混乱していた間に、態勢を立て直されてしまった。さらに、三月に滅ぼした武田家の旧領にまで騒乱が広がり、信濃、甲斐、上野の領有権を手放さざるを得なくなってしまった。
本当に惜しいことだった。だが、ここからまた何年かかっても良い。必ず織田家が三法師様のもと、天下に覇を唱えるのだ。
この俺が生きてさえいればできる。いや、それを成し遂げるまで、俺は絶対に死なん。
【9月上旬 清洲城にて 織田信雄】
親父と兄貴が死んだせいで、家中が色々と ややこしいことになったけど、実は誰も損せずに上手くいく方法があるんだ。簡単だよ。皆 仲間だったって思い出せば良いだけだ。
まあ そう言う俺も、信孝と兄弟だったって、時々忘れるけどね。
【9月下旬 山崎城にて 羽柴秀吉】
勝家は二つ、大きな思い違いをしている。
一つ目は、未だに近江、美濃、尾張が、今後の戦略上の最重要地だと考えていることだ。だが、これからの政事、軍事、経済、文化、すべての中心は、京と大坂になる。いや、俺がそうする。そのために山城を取ったんだ。美濃と尾張は、いずれ敵になる家康との戦いの、前線になるんだよ。
近江の長浜は、俺が持っていても構わなかったが、上手く手放せたおかげで、守る必要もなくなり身軽になれた。勝家は長浜を取り甥の勝豊に与えた。少しでも領地を拡げたがるのは、生粋の軍人の習性なのかも知れないが、良い場所を見極めなければ、大した意味はないんだ。
そして、さらに深刻なのは、二つ目の思い違いのほうだ。
勝家は、織田家の宿老たちが、まだ自分の味方だと思い込んでいる。滝川一益は知らんが、丹羽長秀や池田恒興は、既に勝家を見限っているんだ。三歳の三法師様はもちろん、信雄様でも信孝様でも織田家が潰れるのは目に見えているのに、いつまでも それに固執しているせいでな。
気持ちは分からんこともない。だが、そんな甘い考えじゃ、生き残れはしないよ。
そろそろ、それを あんたに分からせるときだ。
【9月下旬 北之庄城にて 柴田勝家】
秀吉のやつ、信長様の葬儀を執り行うだと?お前がなぜ、そんなことを勝手に決めるのだ。
【9月下旬 清洲城にて 織田信雄】
親父の葬儀?なんでそんなこと、秀吉が決めるの?
よく分からんが、俺は行かないよ。位牌に抹香をぶっかけるほど、非常識じゃないからね。
【9月下旬 坂本城にて 丹羽長秀】
秀吉、しばらく動きがないと思っていたら、信長様の葬儀を執り行うなどと宣言した。
確かに信長様の葬儀は行われていないし、本来それをやるべき信雄様と信孝様は、領地の境界線がどうのと揉めている。僅かな領地の広さなど、今は重要ではないというのに、あのお二人は争わなければ気が済まないのか。
喪主は、秀吉の養子の秀勝(信長の四男)様らしいが、葬儀の発案から実行まで取り仕切っているのが秀吉だと、分からない者はいない。これでまた、信長様の後継者は秀吉だという印象が強まる。上手いものだ。
さらに、これだけ重要な事案を、勝家や信孝様、信雄様を一切無視して進めたことで、彼らの感情をわざと逆撫でしたのだ。この葬儀は、信長様の百日忌だと称しているが、なぜ四十九日ではなかったのかにも、秀吉の狙いが見え隠れしている。
秀吉は、冬を待っていたのだ。
秀吉が長浜をあっさりと手放した理由も、そう考えれば理解できる。やはり、頭が切れる男だ。
【10月上旬 北之庄城にて 柴田勝家】
信長様の葬儀という重大事案を、信孝様や信雄様や俺に無断で行うとは、あの清洲城の会議の決定に背く行為だ。詰問のために使者を送ったが、秀吉に会うことさえ断られたようだ。
絶対に、そんなことを認めるわけにはいかない。やはり俺と秀吉は、相容れない関係だった。今までにも、幾度となく小さな不和はあった。その度に、信長様の家臣同士でいがみ合うのを避けて、苛立ちを抑えてきた。だが、今回は抑えられない。いや、抑えるべきではない。
信孝様の岐阜城には、織田家の正式な当主 三法師様がおられる。三法師様の名の下、羽柴秀吉を織田家の敵と見做す。
【10月16日 大徳寺にて 羽柴秀吉】
予想通りだが、信雄様も信孝様も勝家も、昨日までの信長様の葬儀に参列しなかった。
それは別に構わない。誰もやろうとしない葬儀を、俺が自主的にやっただけのことだからな。無視されても別に文句はないし、逆に誰かに文句を言われる筋合いもない。
だが勝家は、俺が無断で信長様の葬儀を行なったのが、清洲城の会議の決定に反するなんて言いがかりを付けてきた。不慮の死を遂げた先々代の葬儀をしてはいけないなんて、俺は決めた覚えはないよ。
そのうえ、三法師様を盾に取り、俺を敵だとか宣言した。俺のことが気に食わないっていうだけで、そんな理屈は通らない。
清洲城の会議の決定に反しているのは、俺じゃなくむしろ、三法師様を安土城に帰さない勝家と信孝様だ。丹羽長秀までこっちに付いてしまったから、あの猪の勝家に道理を説ける者がいないんだろうな。
ここまで見事に罠に嵌るとは思っていなかったよ。これで堂々と美濃に出兵できる。
正統な、織田家の軍としてな。
【6】岐阜城攻め に続く




