【4】天正壬午の乱 後編
【1582年 7月中旬 躑躅ヶ崎館にて 徳川家康】
河尻秀隆、領主になったばかりの土地で、国衆に挙って反乱を起こされたら、勝てるわけがないよ。さっさと逃げれば良いものを、城を守って討死にしてしまった。俺は、逃げ足の速さも実力のうちだと思うけどね。
まあ 死のうが逃げようが、どっちでも構わない。領主がいなくなってしまったから、甲斐は俺がもらうことにした。緊急事態だからね。織田家には事後報告ということで良いだろう。
そもそも今、織田家の誰に取り次げば良いのかも分からないしね。
北条家は、越後に向かいかけた軍を、こちらに返して来た。甲斐を俺に渡す気はないらしい。おそらく、兵数で圧倒できると思っているんだろう。
だが、そうはいかないってことを教えてやるよ。
【7月中旬 山崎城にて 羽柴秀吉】
家康のやつ、甲斐と信濃を取るのを認めるという、こちらの書状が届く前に動き出していたようだな。まあ どちらでも同じだ。
それに、俺には今、他にやることがあるんだ。東国のことまで、細かく関知している暇はない。家康に勝手にやらせておけば良い。あくまでも、織田家を代表して俺が認めてやった、という事実があれば良いんだ。
滝川一益は、上野を奪われて、本領の伊賀に落ち延びてくるようだ。運が悪かったのもあるが、敗北は敗北だ。これで家中での影響力はガタ落ちだろう。それに河尻秀隆が、反乱の軍に討たれて死んでくれたのも、大いに結構だ。
完全に、俺が織田家を掌握する流れになってきたぞ。
【8月中旬 小田原城にて 北条氏政】
氏直(氏政の長男)が率いるうちの軍が、徳川軍とぶつかった。
だが、うちの兵数は徳川軍の三倍以上だというのに、戦況は芳しくない。徳川軍の兵が、当初より多くなっているという報せも入って来た。確かに戦地で兵を集めることもできるが、こんな短期間でなぜ、甲斐の兵が挙って徳川軍に加わるのだ。
まだ うちが敗れたわけではないが、徳川軍を追い払うのは極めて難しくなった。甲斐でいつまでも足止めを食らっていると、奪ったばかりの上野を、武田の遺臣の真田昌幸に押さえられてしまう。
やむを得ない。もう甲斐は諦め、上野だけは絶対に取れ。
【8月下旬 七里岩砦にて 徳川家康】
北条軍を追い払ってやったぞ。軍を率いていた北条氏直は、うちの兵が少ないと思い込んでいたようだが、それは甘いよ。
武田は、滅亡する前に、離反する家臣や国衆が相次いだ。その多くは、領内に潜伏したか織田家の支配下に入った。織田家に受け入れられず、処刑された者も少なくない。
俺は、処刑されそうになっていた者たちを、出来る限り助けて匿った。
織田家の支配下に入った者たちの処遇も、ごく一部を除き、決して良いものではなかった。それは当然といえば当然だが、武田家を裏切ってまで織田家に付いたやつらは、もっと良い処遇を期待していたんだろう。だから、織田家の支配体制が揺らいだ途端に、再び敵に回ってしまったんだ。
北条家に付いたとしても、また同じことの繰り返しかも知れない。やつらはそう考えた。俺は三河の国衆の家の生まれだから、支配される側の考えが、なんとなく分かるんだ。
俺は、武田の遺臣や国衆を手厚く遇した。どこかで役に立ってくれれば儲けものだと思ったからね。
今回、俺が出せた兵は、北条の三分の一以下だった。それでも勝てたのは、甲斐と信濃の国衆や寺社勢力を味方にできたからだ。もちろん、俺が匿っていた武田の遺臣たちのおかげだ。
特に良い働きをしてくれたのが、依田信蕃という男だ。織田軍と共に武田を攻めた時に知り合ったが、穴山梅雪より よっぽど信頼できると思ったよ。河尻秀隆を討った反乱を煽ったのも、上野の真田昌幸と連絡を付けたのも、北条軍との戦に兵を動員したのも、依田信蕃が中心となってやってくれたことだ。もちろん、これを機に直臣に取り立てる。うちの体育会系軍団が喜びそうな人材が、また増えてしまうけどね。
【9月上旬 山崎城にて 羽柴秀吉】
家康は、北条の大軍を ものともしなかった。さすがとしか言いようがない。いつか敵になるはずだが、今回は感謝しておこう。おかげでこちらも、次の段階へ進む準備が整いそうだ。
家康も、北条家と正式に講和したい頃合いだろうな。今なら有利な条件を要求できるしな。交渉に入るきっかけが欲しいだろう?
講和を勧める使者を、織田家を代表して送っておく。ああ、署名は織田信孝だが、俺からの厚意だと気づくよな。家康には、できれば戦わずに俺に付いてほしいんだが…。まあ、一度くらいは戦うことになるかも知れんな。
それはそれで構わない。どうせ勝つのは俺だしな。でもなぜか、俺の天下に、あいつは必要な男だという気がするんだ。
【5】信長の葬儀 に続く




