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秀吉「俺が、天下を取る!」  作者: スグル【戦国時代好きの40代】


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【3】天正壬午の乱 前編

「壬午」は相剋の年。信長が本能寺に斃れたのは、そのことと全く無関係ではないだろう。そして信長の死は、武田家の旧領を巡る戦いを巻き起こす。天正十年、壬午の年「天正壬午の乱」が勃発した。

 ~回想~


【1582年 6月2日 本能寺にて 織田信長】


 人間(じんかん)五十年、夢幻(ゆめまぼろし)のごとく… だが、俺は今年で四十九歳だ。まだ夢にも幻にもなれてねえぞ。光秀よ、せめてもう一年、なんで待てねえんだ。


 そういえば俺、年男だったな。天正十年は壬午(ひのえうま)か。相剋(そうこく)じゃねえか。壬午は水剋火(すいこくか)だな。俺は(うま)年だから火。光秀は、()年だから…水か。


 ああ、だから今年か。なんでもっと早く気づかなかったんだ。だが、この最後の火は消させねえ。


 光秀、お前に俺の首はやらねえよ。



 --------


 天正壬午の乱


【1582年 6月中旬 浜松城にて 徳川家康】


 この戦乱の世は、終わりに近づいていた。だが天下取り目前だった信長が死んだことで、終わりが遠ざかった。世は再び混乱に(おちい)るよ。


 まあ どちらかと言えば、俺にはそのほうが良いんだけどさ。


 過去にも、今川義元、武田信玄、上杉謙信らのような、色々な意味で突出した当主の急死による大混乱をよく見てきた。ああいう人たちは、得てして、自分がいかに大きな存在かを忘れてしまうんだ。言い換えれば、後継者も自分と同じことができると錯覚してしまうんだよ。織田信長は、その最たるた例だったのかも知れない。


 もちろん、重臣による謀叛だったことや、信忠まで死んだことも関係あるだろうが、それを差し引いても、今回ほどの衝撃は初めてだ。


 今、暫定(ざんてい)的な勝者は、明智殿を破った秀吉だ。俺も兵を率いて京に向かっていたが、先に着いたのは秀吉だった。明智殿は死なせずに済んだが、天下取りでは、あれで秀吉に大きく差を付けられてしまった。


 穴山梅雪の領地だった甲斐の巨摩郡(こまぐん)南部は俺が取るが、これでは、あまりにも得るものが少ないな。



【6月下旬 山崎城にて 羽柴秀吉】


 信長様が死んでしまったことを、これ以上 悲しんでいる暇はない。俺はもう、ずっと先のことまで考えている。


 あの清洲(きよす)城での会議は、俺の筋書き通りだった。八割くらいは官兵衛の筋書きだがな。


 柴田勝家は、信長様の次男 信雄様の存在を無視して、自分と関係が深い、三男の信孝様を三法師様の後見人、つまり実質的な当主にする計画だった。そして自分は信孝様の相談役として織田家の実権を握ろうとしていた。見え見えの作戦だが、あれを阻止するのは実は難しかった。たとえ序列では信雄様が上でも、筆頭家老の勝家に支持された信孝様が、簡単に引き下がるとも思えなかったからな。


 それに対する、官兵衛の助言はこうだ。


「では二人とも後見人にしてしまいましょう。それなら、相談役も二人以上なのが自然です。秀吉様もその相談役に名を連ねるだけで良いのです。秀吉様が柴田勝家と同じ立場に立ってしまえば、あとは生かすも殺すも…あっ これ以上は言えません」


 殺すって言っちゃってるじゃねえか。何が、これ以上は言えませんだ。まあ良いけどよ。


 それで信雄様に台詞(せりふ)を丸暗記させて、後見人になったら、俺を相談役に指名する約束をしてきた。


「序列を(くつがえ)すのならば、俺が三男より不適格だという、明確な根拠を示せ」


 台詞はたったこれだけだが、信雄様が本番で噛まずに言えるかは、とても不安だった。官兵衛も、そこは賭けですとか、無責任なことを言いやがったしよ。ところが意外にも、スラスラ言えたようだ。まったく知らなかったけど、バカ殿に見えて実は、文化的な素養はなかなかで、筆も弁も立つらしい。そういうところだけは、信長様譲りのようだな。


 とにかく、後見人は信雄様と信孝様の二人、相談役も複数になり、俺もその中に入ることができた。


 そして、あの会議で本当に重要だったのは遺領分配だ。信長様、信忠様、明智光秀の遺領のうち、安土には新当主の三法師様が入る。安土城の天主は焼けてしまったが、住めないことはない。そのうち俺が再建する。そのうちな。


 美濃は信孝様、尾張は信雄様が相続した。だが信雄様は、自分も後見人になれれば十分で、実際に何かしようとは考えていない。三法師様は一時的に、信孝様の岐阜城に入られた。そうなると近江と美濃が、今後の織田家の中枢になる。誰もがそう考えていた。


 だがそれは、大きな思い違いだ。信長様の代わりに、天下は俺が取る。〈織田家〉の中枢がどこかなんて、もう関係ない。


 だから俺は山城と丹波(たんば)を取った。これからは、俺がいるところが〈羽柴家〉の中枢になるんだよ。



【6月下旬 小田原城にて 北条氏政】


 織田信長と信忠が親子(そろ)って死んでくれた。当主が討たれて動揺するのは分かるが、織田家中の混乱ぶりは(あき)れるほどだ。俺も、信長には従わざるを得ないと思っていたが、これで状況が大きく変わった。


 北条家は二月の武田攻めに遅参したと、信長に(なじ)られた。確かにうちの軍が着いたとき、戦は終わりかけていた。だが、冬の箱根を越えるのには、夏の倍以上の日数を要する。織田家の使者が到着したのも、戦が始まってからだった。それで、遅参も何もあったものではない。


 あれで北条家に、(ねぎら)いさえ なかったのは致し方ない。だが、うちと武田が争っていた上野まで、一方的に織田家のものとされたのには、強い(いきどお)りを覚えた。あれを晴らすのは今だ。


 滝川一益に与えられた上野から、武田の旧領に攻め入り、仇敵 上杉の越後まで奪う。滝川一益には偽りの書状を送り、油断させておく。これまでも互いに、(だま)し合い奪い合ってきたのだからな。もし騙されてくれなかったとしても、孤立無援の敵を打ち破るのは容易いことだ。


 徳川家康も、この機に旧武田領を手中にしたいはずだろうが、織田と同盟している徳川が、勝手に甲斐や信濃に侵攻はできない。仮に、援軍とかいう名目で行っても、織田家の武将が信用するはずがない。こんな好機はまたとない。一年以内に、北条家がこの国で最大の勢力になるぞ。



【6月下旬 浜松城にて 徳川家康】


 信長の死の衝撃は、甲斐や信濃、上野(こうずけ)といった、武田家の旧領にまで及んでいる。新しく領主になったばかりの者たちに動揺が走り、一度は織田家に従った者たちは不穏な動きを見せている。既にいくつか、織田家への反乱も起きているようだ。


 一国を任されたような武将なら、不測の事態にも対応できるはずなんだが、今回のはさすがに衝撃がでか過ぎる。かなり難しい判断を迫られるはずだ。だがこういう時に、迅速な情報収集と状況判断ができるかどうかで、勝つか負けるか、生きるか死ぬかが決まるんだ。


 当然 俺は、甲斐の一部だけじゃ物足りない。これは秀吉との差を縮めるチャンスなんだ。同盟している織田家の領地に無断で出兵はできないが、だからと言って、この機会に甲斐の一部しか取れないなんて、愚の極みだ。


 すぐに、うちの領内で密かに保護している甲斐の国衆たちを、現地に派遣しろ。



【7月上旬 小田原城にて 北条氏政】


 滝川一益は、既に老境に入ったとはいえ、やはり手強かった。織田家に敵意はないという、こちらの偽りの書状も信じはしなかったようだ。だが、兵数の差で押し切らせてもらった。もう、個人の武勇や指揮だけで勝てる時代ではないんだよ。



【7月中旬 浜松城にて 徳川家康】


 北条氏政は既に上野に兵を出した。信長がいなくなった織田家に従う気はないようだ。


 俺も、のんびりしてはいられない。現地に潜入させた甲斐の国衆たちに、味方を募らせている。それで織田家に反乱を起こし、領主の河尻秀隆を追い出させろ。



【7月中旬 山崎城にて 羽柴秀吉】


 甲斐、信濃、上野の混乱をどうするべきか頭を(よぎ)ったが、俺は信長様のいない織田家に(かしず)く気はない。そう考えれば、織田家の領地を守ることに(こだわ)る必要はなかった。力を付ければ、領地など後でいくらでも取り返せる。武田の旧領など、手放してしまえば良い。


 だが、敵対の姿勢を明確にした北条家に奪われるくらいなら、形の上ではまだ味方の、徳川家康に預けておくほうがマシだ。家康に、甲斐と信濃の制圧を認めると、書状を送れ。


 滝川一益が拝領した上野だけは、北条に奪われても構わない。むしろ滝川一益の首ごと奪ってもらえると助かる。今の織田家の宿老たちは、どうせ俺の天下取りの邪魔になるだろうからな。



【7月中旬 小田原城にて 北条氏政】


 滝川一益を破り、真っ直ぐ北上して越後を攻めるつもりだったが、それより先に、兵を甲斐に向かわせる。大した兵数ではないが、徳川家康も甲斐に侵攻してきたからな。小田原に(つな)がる甲斐は、上野と同じく重要な土地だ。そこを徳川家康に押さえられると面倒だ。徳川軍を軽く蹴散らしてから北上しても、越後攻めに大した影響はないだろう。


 うちの兵は、徳川軍の三倍以上だ。万が一にも、負けるはずがない。




【4】天正壬午の乱 後編 に続く

*明智光秀の生年は1528年とする説を採用しています。

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― 新着の感想 ―
この時代の武士は生き残るのがホントに大変ですね!
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