【31】北条家の降伏
【7月上旬 小田原城にて 北条氏政と黒田官兵衛】
「何のために戦うのかも分からんとは、お前は哀れだな。では秀吉は、何のために戦っているのだ?」
「…多分、自分の栄達のため…。そういう俺は……保身のためだろうな」
「栄達だの、保身だの、くだらんな」
「北条家は、何のためなんだ?」
「お前、今からでも北条家に仕えてみないか。そうすれば、武士が何のために戦うのかなんて、考えなくても分かるようになる。
北条家は、畿内にご立派な領地も屋敷も欲しがってはいねえんだよ」
「そうか…。どんな交渉でも、回避できる戦いじゃなかったんだな」
「秀吉の恫喝や小細工を、交渉とは呼ばない。北条は、くだらない欲や意地で戦をしているわけではないぞ」
「俺はね、秀吉様に息子の命を助けてもらったことがあるんだよ。そういう、ごく個人的な感情で、あの人に仕えた」
「それがなんだ」
「いや、なんでもねえ」
「別に、それを悪いとは思わん。お前は武士であると同時に、人の親でもある。主君のために働く理由が、息子の命でも良いではないか」
「あんたは、仮に息子の命を救われたら、秀吉様に膝を屈するのか?」
「分かりきった質問をするなよ。息子の命を救われたら、恩義を感じる。だが問題は、その恩義と何を天秤にかけるかではないのか」
「あんたは、自分の息子の命より重いもんを背負っているんだな」
「自分の命も、息子の命も、俺が背負っているものに比べれば、瓦一枚ほどの価値もない」
「それは、何なんだ」
「領民の命と安全、そして豊かな暮らしだ。それを守れるなら、この命など惜しくはない」
「こっちの条件を、あんたたちが受け入れられないのが、納得できたよ」
「大事なものが、根底から違うのだからな。領地と領民を切り離して考えられると思うのか?
成り上がり者の秀吉には、代々守ってきた領地と領民の大切さが分からんのだろう。俺から見れば、秀吉には天下などを治める資格はない」
「同感……いや、なんでもない」
「俺は、織田信長になら臣従しようと考えたこともある」
「信長様の戦いは、自分の栄達のためではなかったのか?」
「そのためでもあっただろうが、信長は領民を守り豊かにした。腐敗した既得権益と戦う気概も持っていた」
「ごもっともだね」
「俺たち武士は、民衆より権限が強い。税を徴収し使役も課す。民衆が飢えているときでも、優先して物を食うことができる。それは武士が、民衆のための政事をし、民衆のために戦うからではないか。
酒食に耽り、黄金の茶室などを設えるために、国があるのではないぞ」
「まあ 秀吉様も、多少は民衆のことも考えていると思うけどね。
話を聞いて、この戦が避けられず、あんたたちが降伏できない理由がよく分かったよ」
「そうだろう」
「民衆を、搾取や戦火から守ることができるなら、あんたは死んでも構わないんだな」
「構わん」
「北条氏直殿の奥方は、徳川家康の娘だったよな。徳川家康は、本音では この戦を止めたかったんだ」
「知っている。家康は秀吉に従っているから、この戦では敵味方になってしまったが、秀吉よりむしろ、北条に近い理念を持っていると思う」
「家康殿は、北条家がたとえ改易になっても、存続だけはさせようと、今も秀吉様に あんたたちの助命を嘆願している」
「気持ちは嬉しいが、何度も言うように、俺たちは自分の命が惜しいのではない」
「北条家が、領民を思いやった善政を敷いているのは、秀吉様に付いた者でも知っている。口先だけではなく、本気で領民を守ろうとしているのも、この小田原城の広大な惣構えを見れ ば一目瞭然だ。
それに、この評定制度も画期的だ。困ったときだけ会議を行う大名はいくらでもいるが、評定衆を決め、定期的な会議で重要事案を裁定する制度は、他に類を見ない。これなら、当主による専横は起こらないだろう。
この二つを見ただけでも、北条家が独自の優れた統治をしているのが分かる。豊臣家にも、即採用を進言したいくらいだ」
「形だけなら、真似をするのは簡単だ。関白のご威光があれば、尚更だな」
「そうだよ。真似じゃなくこれをやっているのが凄いんだ。だから、死ぬくらいなら、これを他の土地で時間をかけてでも再現してほしい。それができるのは、北条家だけじゃないか」
「お前や家康の言いたいことも分かった。だがお前は、独自の統治と言っただろう。秀吉の支配下で、独自の優れた統治ができると思うのか。秀吉は俺たちが目障りなんだろう?」
「やっぱり、無理か」
「こちらの条件を飲まない限りはな」
「あれが。あんたの命より優先されるんだよな」
「何度もそう言っている」
「分かった。俺の使者の任務は失敗らしい」
「そうだな。せめて飯でも食って行くか?」
「俺に食わせる飯があるなら、領民のために取っておけよ。今はまだ良くても、あんたたちが徹底抗戦する気なら、いずれ物も不足し出すし、領民も無傷でいられる保証はない」
「待て。一つ聞きたい。こちらから秀吉に投降している者もいるよな?」
「少しはな」
「領民も付いて行っているのか?」
「付いて来るのは、僅かな兵だけだ。覚悟を決めたら、将兵より民衆のほうが強いんだと思うよ」
「そうだな。進んで兵に志願してくる者も多い」
「中国では、籠城すると、民衆も武器を持って戦うのが普通らしい。敗れたら虐殺されるからだ。でも、武器も持っていない民衆まで殺すことなんかないから、安心してくれ」
「もし、民衆が武器を持って抵抗したら?」
「武器を持ったら。それは兵だよ。たとえ鍬でも、人に向ければ武器だ。でも領民まで巻き込んで、なり振り構わず戦ったなんて、北条家に相応しくない汚名だけは、遺させたくないよ。
じゃあ、俺はそろそろ帰らせてもらうよ」
「おい、黒田官兵衛。お前に、渡したいものがある」
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翌々日 小田原の陣中にて 黒田官兵衛
北条氏政と氏直が降伏を申し出てきた。条件は、領民と兵の身の安全及び 元通りの生活の保証、たったこれだけだった。
こんな潔い降伏、見たことがねえな。あのままでは、領民が勝手に武器を持つこともあると危惧したのかな。そんなつもりで、領民の話をしたわけじゃねえんだけどな。
これは言わなかったけど、あんたたちの領地は徳川家康が治めるから、きっと北条家に倣って、良い統治をすると思うよ。
北条氏政がくれた日光一文字、形見ってことだったのかな。大事にするよ。色々勉強もさせてもらった。
だが、一つだけ後悔している。せっかくだから、北条氏政と一緒に、飯に汁をかけて食っておけば良かったよ。
【32】織田信雄の改易 に続く




