【20】九州征伐 後編
【1586年10月 日向 飯野城にて 島津義弘】
親父も兄貴も良い当主だと思う。その当主の下、島津家は薩摩とその周辺だけ無難に治めていられれば、不満はなかった。
それなら俺は、国境の守備でもして、のんびりとやっていただろう。確かに相良家と伊東家は攻めたけど、それはある程度、領地の広さは必要だからだ。それ以上、うちが領地を拡大させる気はなかったんだ。
別に、誰が将軍だろうが関白だろうが、俺たちの暮らしに変化はないからな。うちの兵なんて、将軍の名前も知らねえようなやつばっかりだと思うよ。でも、それで良いんだよ、島津家は天下取りの野望なんて持っちゃいないんだ。
大友や龍造寺はどうなのか、本当のところは知らないけどな。龍造寺はおそらく、もっと広い領地は欲しかったんだろう。それで大軍でに攻めて来た。攻めて来れば、もちろん戦うよ。そしたら、運が良いのか悪いのか、龍造寺隆信を討ち取ってしまった。
敵が攻めて来たから、応戦しただけなんだが、敵にしてみれば、当主が討ち取られたって大騒ぎになるわけだ。となれば、仇討ちだとか称して、また攻めて来るに決まっている。
それが面倒くさいから、仕方なく龍造寺は倒したんだ。
なのに豊後の大友宗麟は、何を勘違いしたか、秀吉に救援なんて頼んじまった。
大友とだって、小競り合いはよくやったよ。でもあれは、本気の戦いじゃなかったんだ。平和に浸りきると、他国や国衆に侮られるから、ときどき立花道雪と兵をぶつかり合わせていた。
つまり、程良い緊張感を保つためなんだ。お互い、当主や兵には黙っていたけどな。僅かだが、兵が死ぬこともあったが、それはやむを得ないことだった。
立花道雪は、雷神なんて呼ばれていた。その異名だけでも、周りを恐れさせ、大友家を攻めにくくさせていた。
確かに強かったけど、七十歳を超えていたんだから、本当はあの人にも衰えはあったんだ。だが俺とやり合っていれば、雷神は未だ健在だって、周囲に思わせられた。俺は、大友家が本気で攻めて来ないという確証が得られた。
本当に強い人は、戦の怖さも、イヤって程 知っているから、余程の理由がなければ、自分から仕掛けることはないんだ。
立花道雪こそ、本当に強い人だった。去年、ついに死んじまったけどな。
それで、あの人が死んだ途端に大友宗麟のやつは、秀吉なんかに九州への出兵を願い出た。大馬鹿だ。立花道雪と俺は、大きな戦を起こさないために、国境で小競り合いを演じていたんだよ。道雪が死んだからって、急に大友家を攻めるなんてことはない。龍造寺を攻めたのは、やむを得ない理由があったからだ。
だが、秀吉が島津家の討伐令なんか出せば、うちは九州を統一して抗戦するしかない。大友家を攻めたのはそういうことだ。足利義昭の命令も、その良い大義名分になった。
島津家には、関白だろうが何だろうが、偉そうに指示される筋合いはない。秀吉に媚びへつらって生きるのを選んだ大友宗麟とは違う。
天下どころか、九州統一の野心すら持っていなかった俺たちを、くだらん争いに巻き込んだのは、大友宗麟と秀吉だ。
島津家が、秀吉に膝を屈することはない。
【10月 豊後 丹生島城にて 大友宗麟】
秀吉に一度、うちと島津の停戦勧告をしてもらったが、島津のやつらは聞く耳を持たかった。島津 は、関白でも朝廷でも、突っぱねる気だ。
それで、秀吉の命令を受けた毛利と長宗我部が、島津攻めを開始した。後から、秀吉の本隊も来るようだ。
島津はいっそ、秀吉に完全に潰されてほしいよ。そうなれば、九州の半分くらいは俺の領地と認めてくれるのではないか。
いずれにしても、秀吉に従った大友家は、今後も安泰だよ。
【11月 薩摩 内城にて 島津義久】
義弘は、秀吉と最後まで戦う気のようだ。あいつの性格なら、そうだろうな。
だが、既に島津家は、秀吉との講和の道を探っている。戦っているのは、あくまでも講和で有利な条件を引き出すためだ。島津家の強さを見せつけ、頃合いを見て講和し、大友家より広い領地を認めさせるのだ。
先遣隊の毛利や長宗我部には勝てても、秀吉の本隊まで到着したら、数で押し切られるのは明白だからな。
秀吉に臣従するのは不本意だが、そうせざるを得ないのは、義弘にも分かると思うがな。
【11月 飯野城にて 島津義弘】
敵が誰だろうが、同数ならば負けはしない。だが、倍以上の兵を一気に船で送り込まれたら、かなり危ない。
大友宗麟のせいで、秀吉は九州に拠点を確保してしまった。これを放置すれば、秀吉の本隊の上陸は容易い。だから、島津家が強引にでも大友家を討ち、秀吉の軍の上陸を阻むしかないんだ。
それでも、守り切れるかはギリギリだが、やるしかない。本当に大友宗麟は馬鹿だ。
ついでに、堺の港の、敵の輸送責任者も馬鹿であってくれることを願うばかりだ。
まあ、そんな期待はしないほうが良いだろうけどな。
【12月 大坂城にて 羽柴秀吉】
石田三成は馬鹿ではない。
大軍を九州に上陸させる手立てくらい、とっくに付いているはずだ。
三成が有能であれば、それを来年中には実行に移せる。
では、あいつは、有能か?答えは年が明ける頃には分かる。
【1587年1月 馬ヶ岳城にて 黒田官兵衛】
先遣隊が島津家に押し返される前に、秀吉様の本隊が到着しそうだ。
もう焦る必要はないな。
【1月 大坂城にて 羽柴秀吉】
さすが、石田三成だ。
完璧な仕事だよ。短期間で大型船を建造し、十分な兵糧も武具も整えちまった。
あいつは有能ではなく、超優秀なんだ。
島津の悪あがきも、これまでだ。あと数ヶ月で島津家を降伏させる。
初めから停戦と降伏に応じていれば、九州の半分近くを安堵してやったのにな。だが停戦勧告を無視した島津家の領地は、薩摩・大隅だけにする。
【3月 内城にて 島津義久】
まさか、あれだけの大軍を、これほど無駄なく移動させて来るとは、想定できなかった。
敵の輸送責任者は恐ろしく頭が切れる。これは、兵力以上に、移動力に大きな差があったようだ。
これ以上の戦いは無益だ。秀吉に、降伏する。
【4月 飯野城にて 島津義弘】
やはり、敵の輸送責任者が、馬鹿なはずがなかったな。
秀吉の大軍に上陸されてしまった。秀吉の本隊は、先遣隊の毛利や長宗我部の軍より、精強で組織的だ。
秀吉以上に、あの側近の、黒田官兵衛と石田三成が優秀だからだろう。九州でしか戦ったことがない俺は、ああいうタイプの能力を知らなかった。
立花道雪や俺は、自分の経験と兵の練度で戦ってきた。時には、自分も斬り合いに加わった。
しかし秀吉軍は、戦術も兵站も、兵法というものに則っているようだ。俺たちは海外から富と武力を得たが、やつらは知恵を得ていたのだ。
あの軍が相手では、敗北は決定的だが…俺は最後まで意地を見せる。
【4月 豊前 小倉城にて 羽柴秀吉】
九州は遠かったが、俺が来て九州を平定したっていう実績が大事なんだ。
早速、島津義久は降伏を申し出てきた。理想的だよ。
まだ、降伏を肯んじない者も一部いるようだが、これでほぼ、九州征伐は終わりだ。
降伏を肯んじない者の中には、あの島津義弘も含まれている。官兵衛の報告も読んだが、島津義弘はやっぱり一流の武人らしい。兵の指揮、個人の武勇、剛直な性格…義理にも厚い。簡単には降伏しないのも、実は俺好みのタイプだよ。
今はまだ、才能と経験だけに頼っているが、きちんと兵法を身に着ければ、この国 最強の指揮官の一人になれる。
島津義弘は、絶対に殺さず、俺に臣従させる。
【21】佐々成政が来た に続く




