【18】家康の臣従
【1586年5月 浜松城にて 徳川家康】
去年の地震の影響で、秀吉は三河への侵攻を延期した。
地震を喜ぶわけではないが、結果的には三河が戦場にならずに済んだ。その代わりに秀吉は、九州を攻める準備を始めている。
九州まで兵を出すのならば、その間に俺が再び美濃を攻める可能性も僅かにあると、秀吉は読んだのだろう。だから俺を、懐柔しておく気になった。
そのために、自らの妹の朝日を、俺の継室に差し出してきた。そしてさらに〈関白 羽柴秀吉の許可なく他国を攻めるな〉などと、あり得ないことまで命令してきた。
お前が今まで、誰の許可もなく他国を攻めていたんじゃないか。見事なまでの掌返し……だが、これがある意味 秀吉の本当にすごいところだ。
あの切り替えの速さ…というか節操のなさは、さすがの俺にも、とても真似できないよ。
【6月 豊後 丹生島城にて 大友宗麟】
かつて九州は、島津家・龍造寺家・大友家の三強といわれていた。
だが、今は違う。
二年前、龍造寺隆信が島津家を攻めたが、沖田畷で敗死した。その後 龍造寺家を攻め返した島津家が、肥前の約半分と、肥後・筑前を奪った。
これで龍造寺が没落し、島津家と大友家の二強。正確に言えば、島津一強と並の大友だ。島津家と大友家の戦力差は、倍近くに開いた。
それでも、島津家の北上を食い止められていたのは、雷神の異名を取った立花道雪がいたからだ。その立花道雪も去年 病に斃れ、いよいよ島津家の侵攻を止められなくなってしまった。
俺は織田信長が存命中から、京の中央政権との繋がりを強くしていた。鉄砲が国内で製造されるようになって、九州の軍事的優位性が低下し、いずれ信長に膝を屈することになると思っていたからだ。
実際、本能寺の変がなかったら、今ごろは九州まで、織田家の支配下になっていただろう。信長と誼を通じていた俺にとっては、そのほうが望ましかった。
だが、信長によって京を追われた足利義昭が、織田家と通じていた俺を潰そうとした。島津義久を〈九州太守〉に任じ、大友家を討てなどと命じたのだ。
あれが、島津家が九州の南端から北上を始める大義名分になった。京の中央政権を快く思わない島津家と、足利義昭の利害も一致していた。
信長が横死し、織田家の西への侵攻が止まっている間に、島津家は九州の七割近くを制圧した。このままでは、大友家も島津家に降伏せざるを得ない。
そこで俺が救いを求めたのが、信長の路線を受け継いだ羽柴秀吉だ。徳川に勝った秀吉が、次に乗り出すのは九州の島津討伐だ。最低でも、島津義久に停戦命令くらいは発してくれるだろう。
まだ、はっきりした出兵の兆しはないが、あの地震の影響で徳川との関係に大きな変化があった今、秀吉が九州に目を向けないはずもない。
秀吉の決断で、俺の命運が決まる。だから今回は、俺自身が大坂まで、秀吉に会いに来た。
これは正しかった。
俺には確信がある。今度こそ秀吉は重い腰を上げる。これで、なんとか間に合うぞ。
【10月 大坂城にて 羽柴秀吉】
家康のやつ…関白のこの俺が、妹を人質に出したというのに、尚も のらりくらりと上洛を拒否し続けていやがる。
狸め、もう許さねえぞ…と言いたいところだが、大友宗麟が自ら大坂を訪れ、九州の現状を詳細に報せてきた。
許可なく他国を攻めるのを禁じたにも拘わらず、島津義久は大友家を攻めている。これは、重大な命令違反だ。直ちに毛利家と長宗我部家に、島津家征伐を命じる。
九州を従えつつ、関白の威光を広く知らしめる良い機会でもある。
もう家康と、つまらん駆け引きなんか、している場合じゃないぞ。
【10月 浜松城にて 徳川家康】
秀吉は、今どうしても九州を攻めておきたいようだな。なり振り構わず、俺に臣従を強要してきた。
今度は、実母の北政所まで人質に差し出してきた。これでまだ上洛を拒んだら……さすがに秀吉の面目が立たない。そうなれば一転して、やはり三河攻めを強行する可能性もある。
これが限界か……やむを得ない。京に上り、秀吉に膝を屈する。
しばらく…いつまでかは分からないが、耐えるしかなさそうだ。
【11月 大坂城にて 羽柴秀吉】
家康が、やっと上洛してきた。
これで、九州征伐の間に、美濃・近江、さらに畿内へと攻め込まれる不安はなくなった。俺に臣下の礼を取った、舌の根も乾かぬうちに裏切るほど、家康が愚かなはずはないからな。
折良く、朝廷からは〈豊臣〉という氏姓を賜った。九州征伐を前にして、この上ない吉兆だよ。
休む間もなく、駆けずり回ってきた甲斐があった。
この国の者すべてが、豊臣秀吉にひれ伏す日は、もう遠くない。
【19】九州征伐 前編 に続く




