【14】小牧長久手の戦い 後編
【1584年9月上旬 岩倉城にて 徳川家康】
やはり数正が危惧していた通り、今の俺の領地の生産力では、長期間の遠征には耐えられないのか。
さらに、軍制にも致命的な弱点がある。それは俺にも分かってはいたが、今回はどうしても、この千載一遇の好機にかけてみたかったんだ。
しかし半年近くかけて、何も得るものがなかった。戦況は一進一退だが、戦そのものは負けだ。責任はすべて、見通しが甘かった俺にある。
実は兵の戦闘能力でも、秀吉の軍に劣っているんだが、それを軍団の指揮と鼓舞の上手さで補っていたから、互角に戦えていただけなんだ。よくやってくれた家臣たちには申し訳ないが、撤退せざるを得ない。
だが、いくら逃げ足の速さが自慢の俺でも、秀吉の大軍と正面から対峙していては、撤退もままならない。
安全に撤退するには、和睦が必要だ。戦況を互角なままで膠着させるため、軍団は守りに徹しろ。
【9月上旬 楽田城にて 羽柴秀吉】
おお、家康も決戦を覚悟したのか。軍団の主力が、揃って前に出て来たぞ。
こうして向かい合うと、前線にいるわけでもない俺まで、あの軍団の圧力に腰が引けそうになる。実際、大軍のこっちが ずるずる後退させられている。池田恒興が、ロクな抵抗もできず討ち取られたのも頷けるな。このままでは、美濃まで軍を押し返される。
だが、何度も死線を潜ってきた俺が、無策でお前らと対峙すると思うのか。
近江国友で製造した新型の鉄砲が、あと数日でここに届く。それまで、せいぜい調子に乗っておけ。
【9月上旬 小牧山城にて 石川数正】
和睦の交渉のために、守りに徹しろと言われているのに、あの体育会系たちは何をやっているのだ。
やつらには、家康様の苦悩も分からんのか。
【9月上旬 小牧山城にて 徳川家康】
軍団のやつら、ああなると全然 言うこと聞かないんだよ。でもあれは、俺のためにやってくれているんだよな。
そうだ。ここまで戦ったのに、今さら退いてどうするんだ。いっそ、俺が軍団の先頭に立って、全軍で美濃に攻め込んでやろうか。
死ぬ気になれば、道は拓けるもんなんだ。
【9月中旬 小牧山城にて 石川数正】
ダメだ。家康様も、根は体育会系だったのを忘れていた。ああなったら もう止まらない。
やはり、私が汚名を着るしかないのか…。
【9月下旬 長島城にて 織田信雄】
石川数正が、やつれた顔で会いに来た。寝る間もないみたいだ。ああいう地味な人が、本当は重要な仕事をしているもんなんだな。
前の戦で秀吉の軍が使った、銃身が長い鉄砲のせいで、美濃の攻略が絶望的になったようだ。さらに領地の疲弊も限界で、一日も早く和睦し、兵を退きたいらしい。
まあ 話は分かった。俺も秀吉との戦いが終わるなら、少しくらい領地が減っても、和睦に応じてやるよ。
【10月上旬 楽田城にて 羽柴秀吉】
石川数正から、面会の申し入れがあった。和睦の交渉なら、普通は家康からのはずだが、どういうことだ。
まあ いずれにしても、俺もそろそろ、和睦しても良い時期だとは思っている。射程を長くした国友の鉄砲で、徳川軍に大損害を与え俺が圧倒的有利になったが、このまま三河に攻め込むほどの余力はない。
かと言って、対等の和睦には応じないがな。
とにかく、会ってみて損はない。
【10月中旬 清洲城にて 徳川家康】
俺は馬鹿だ、俺は馬鹿だ、俺は馬鹿だ。
俺も軍団も、大馬鹿だった。
だから、数正は独断で、和睦のために秀吉に会いに行った。あいつがこの戦を止めてくれなかったら、俺は無謀な戦をして死んでいた。
数正は、自分が秀吉に寝返るのと引き換えに、一年限りの和睦を了承させた。信雄にも、秀吉への伊賀の割譲を同意させていた。
そうまでして、数正は話をまとめ、撤退の機を作ってくれた。
あいつの身を挺した行動を、絶対に無駄にはできない。
一年で領内を立て直し、さらに軍制の改革を行なう。
【11月上旬 小牧山城にて 酒井忠次】
織田信雄が、秀吉と和睦した。尾張の城は信雄のものなのだから、我々もここで戦を継続することはできなくなった。
家康様も、秀吉と一時的に和睦するしかない。和睦と言っても、事実上の敗北だ。
当然、不満を述べる者はいる。そいつらは、縄で縛ってでも連れて帰る。
だが、ずっと戦に消極的だった数正には、俺も 内心穏やかではない。
【11月中旬 岡崎城にて 石川数正】
なんとか、領地が荒れ果て 領民が逃亡する前に、戻って来ることができた。
だが私には、秀吉との密約がある。それを知っているのは家康様だけだ。私は、卑怯な裏切り者として、三河を去る。その覚悟は、今も変わっていない。
しかし、私が知らないうちに、こんなことに なっていたとは……。
【15】石川数正の寝返り に続く




