[第2話] サンダー
ペンキが剥げ、錆びた鉄製の階段を登ってから、アパート2階の廊下に叔父のサトルは立った。30代半ばくらいの痩せた長身で、三白眼の目元はお世辞にも目つきがいいとは言えない。その上タバコを咥え、よれよれのアロハシャツを身につけた姿は、まるでヤクザの構成員のようだった。
「たしか、201号室だったはず……あれ、202だっけ? 203? メモ取っときゃよかったなぁ〜……」
とりあえず目の前の部屋の鍵穴に、大家から預かった鍵を差し込んでみる。ガチャガチャとやっても開かない。スパンッと音がしてドアの横にあるガラス窓が開き、80代くらいの老婆が顔を出す。
「アンタ通報されたいのかい!?」
「あらら、どうもすいません〜部屋を間違えたようで……ぼかぁこのフロアの葉山の親戚のもんなんですが。あの、母親と高校生くらいの子どもの部屋って、どちらでしたっけ?」
老婆はサトルの悪人ヅラと身なりを上から下に見ながら、明らかに怪しんでいた。
「本当かい? 借金取りじゃないの?」
「あ〜……一応こういうもんです」
サトルはポケットから名刺を差し出した。「フリーランス記者 天野サトル」とある。
「ふぅ〜ん……」と言いながら、名刺の下にある住所や電話番号が記載されていた箇所を老婆は無遠慮に眺めた。とりあえず、身元がはっきりしたことで最低限の信頼は得られたようだった。
「……葉山さんは203だよ。あの親子、ここ数日は見かけないけどね。ったく」
言い終わるまでにまたスパンッという音ともに窓が閉まり、グイッとレバー式の鍵が閉まる音がする。
「どうも〜」
まるで意に介していないような礼を言い、サトルは203の部屋の前に立つ。
サトルの姉、つまりは早の母がいなくなってからもう6日が経っていた。天野家はきょうだい揃って両親と絶縁状態にあるため、上京以来、お互いが部屋の連帯保証人だった。そのため、今朝方大家から連絡があったのだ。今月の家賃が振り込まれていないし、姉と連絡が取れない、部屋に行っても誰も出ないと。
電話を受けたのが土曜の朝だったこともあり、まずは家賃を立て替え、すぐに軽自動車を駆ってこのアパートに到着した。道中、車のハンドルを握るサトルの脳裏に繰り返し浮かんだのはいくつかの漢字二文字だった。
失踪、虐待、児相、保護、親権、等々--。
シングルマザーが失踪するケースについて、同業者から耳にしたことは何度かあった。そのほとんどに共通するケースは、残念ながら、親は子どもを連れて行かないということだ。大抵、子どもは家の中にいて、母親の帰りを、声を殺して待っている。もっとも、そういったことが自分のきょうだいに起きるとは、つゆにも思っていなかったが……。
そもそも、サトルと甥である早が会ったのは過去に一度だけだった。5年ほど前、娘の出産と同時に亡くなった妻の葬式でのことだ。
式場で赤ん坊を抱えてぼーっとするサトルに、まだ小学校高学年だった早は「……僕に何かできることはありますか?」と控え気味の笑顔で聞いた。子どもらしからぬ提案に驚いたが、少しの間だけ娘を抱いてもらい、サトルは親戚に挨拶をして回った。娘を抱いたままでは、まるで同情を誘いに行っているようで、嫌だったからだ。幼いながらも、その心遣いには感謝したし、利発な子どもとして好感を持った。
だからこそ薄い縁にも関わらず、児童相談所より先に自ら保護することを考えていた。きっと、早はこの部屋の中にいる。
だが、サトルは同時に直感もしていた。
「あの頃の早くんは、きっともういねぇんだろうな……」
呟くと、タバコを携帯灰皿に突っ込み、203の鍵を開ける。木製のドアは軽く、ほとんど力を入れなくてもキィと小さな音を立てて開いた。
「うっ……なーんだこの臭いは……」
真っ先に気づいたのは、鼻腔を突くようなすっぱい匂いだった。明らかに何かかが腐っている。
だが、荒れたリビングを想像していたら、肩透かしをくらった。何も散らかってはいない。皿が割れているとか、本棚が倒れていたりして足の踏み場もないとか、カーテンが破れているとか、さながら地震の直後のようなリビングを何となくイメージしていたが、綺麗なものだった。それどころか、クーラーまでつけっぱなしになっているようで、屋内は涼しかった。
ただ、玄関入ってすぐ右手にあるキッチンの上にエコバックが置かれ、その中身が腐っているようだった。ハエが何匹もその周りを飛んでいる。異臭の元はこれか、と察しながら、大きな声で呼びかける。
「こんちはー! 叔父のサトルです! 早くん、いるかー! 入っていいー!?」
返事はなく、人の気配もない。リビングにいないとなると、いるのは隣の部屋だろう。
「入るぜ……」
革靴を脱ぐと、サトルは6畳ほどしかない狭いリビングに入って電気のスイッチを入れた。
改めて見渡すと、早のものらしき勉強机の存在に気づく。小学生に買い与えるような机に、教科書だけが高校生のものだった。ちぐはぐだ。自分の部屋もなく、おそらく姉がテレビでも見ている後ろで勉強してきたんだろう。甥に対する姉の向き合い方はそれだけで察せるようだった。
隣の部屋の扉をコンコン、とノックするも相変わらず人の気配はない。だが、早がいるとしたらここに間違いない。
「早くーん、いんのかー?」
部屋に入ると、ベッドや化粧台、ミニテーブルなどの家具類だけが残ったもぬけの殻だった。静かで、がらんとしている。冷房が効きすぎの部屋はむしろ寒いくらいで、サトルは身震いした。
暗い部屋のなかにあって、だが、早はそこにいた。ベッドと壁の間にある1mほどの隙間に、挟まるようにして三角座りをしている。予想通りだ。
「おい、大丈夫か!」
駆け寄って早の肩を揺する
「う……」
早は少しだけ顔を上げた。サトルは息を飲む。
本来は随分と整った顔立ちだろうに、6日間何も食べていないのか、頬はこけ、生気のない目元には黒々とした半月型のクマが浮かぶ。その目からは驚きも悲しみも、どんな感情も見て取れない。まるで人間味がなく、糸の切れた人形のようだった。
これがあの早くんか……と、サトルはかつての少年を思い出し、言葉を失った。ただ、同時に既視感もあった。妻を喪った直後の自分の顔つきに、近しいものがあったからだ。
だが、自分との違いもすぐに理解した。自分は妻に愛され、その妻に託された赤ん坊の娘がいた。自分がくたばる訳にはいかない、という責任があった。しかし、この子は違う。この世に引き留めるものがおそらくないのだ。だからこそ眠らず、飲まず食わずで生を拒絶しているのだろう。両親に揃って見放されるという絶望は、自分が共感できる範疇を超えていた。
さっきまでサトルには、「自分の家で一時的であれ保護していれば、早くんは若いし、順応性の高そうな子だから、徐々に立ち直っていくだろう。姉も死んだ訳ではない。そのうちひょっこり帰ってくるかもしれない」といった漠然とした希望があった。だが早とこの部屋を目にした今、その予測がいかに甘ったれた妄想だったかを、サトルは直感的に理解した。
この子は一生立ち直れないかもしれない。また、一切の生活用品が持ち去られたこの部屋や早の様子を見、姉がもう帰ってこない可能性も十分にあると分かった。
この子を一時的であれ保護するということ、それが問う覚悟は即ち、この廃人さながらの少年の面倒を10年後も20年後も、自宅で見続けることになるかもしれないということに他ならなかった。大人は責任が取れるから大人であり、自由が許されている。だとすれば、自分はこの子の未来に責任を持てるのだろうか。もし無理だと思うのなら、施設を頼るべきではないか。それが余りにも寂しい環境だとしても……。つまるところ、サトルは怖気付いていた。
その瞬間だった。あまりにも空気を読まない存在が登場したのは。
長い触覚を生やした黒い昆虫が、その機敏な身体を動かして、早とサトルの間にぴょこりと割り込んできたのだ。
Gだった。それも、かなり大きめの。
「う、うわわわわあーーーー!!」とサトルは後ろにすっころび、腰をミニテーブルに強く打って「うっ……」とにぶい声を上げた。強面にも関わらず、サトルは虫が大の苦手だった。
そして、それはサトルだけではないようだった。さっきまでぽかんと開いていた早の口元は固く閉じられ、逆に目は大きく見開かれていた。これだけの絶望の最中でも、「恐怖」という感情を早に思い起こさせるヤツは大したものだった。さらに、あろうことか、Gはそのまま早の方にちょこちょこと進み始めた。
「あ、あ……!」
早は声にならない叫びを上げるが、6日間もずっと座っていたせいか、もはや体力がないのか、立ち上がることさえできなかった。
「そ、早くんーーーー!」
サトルが手を伸ばして叫んだその刹那だった。
「すぅ……」
サトルの背後で小さく深呼吸する音がし、部屋中に甲高い声が響き渡った。
「ローーーーーリーーーーーーーーーーーーーーング・サンダーーーーーーーーーちゃーーーーーーーーん!」
突如、前転しながらサトルと早の間に飛び込んできたその生き物は、回転の勢いのまま、手に持っていた長物を早の目の前にバシィーンと振り下ろした。虫取り網だった。
「やったぁ〜〜〜! とったどぉ〜〜〜!」
雄叫びを上げるのは、休日だろうに幼稚園児が着る青いスモッグを着て、地毛なのか、サラサラとした透き通るような金髪を胸の辺りまで伸ばした女児だった。エメラルドグリーンのくりくりとした目に、はっきりとした顔立ちは外国の血を感じさせ、幼いながらその容姿は随分と整っている。アハハハと笑うと、歯の左側の犬歯が牙のように尖っていた。
だが、反対の犬歯が抜けているせいで、総合的にはどこか間が抜けた印象がある。
「えぇぇぇぇ!サンダー!?」
目が飛び出しそうな勢いで、サトルが驚きの声を上げる。
「おま、何でここにいんだよ!?」
「おやすみなのに、パパがあさからサンダーになにもいわないで、くるまのるから〜」
唇を尖らせて、サンダーと呼ばれた女児がぶーぶー言う。
「まさか隠れて乗ってたのか!」
「うん」
悪びれなくサンダーが答えると、サトルは肩の力が抜けたように、ため息をつく。
「勝手に付いてきちゃダメじゃん〜……」
「え〜ごめん〜……」
と言いながら、サンダーはあろうことか、虫取り網に手を突っ込み、「おわび」と言いながら人差し指でGをつまんで取り出した。
「ギャワアアア! キモい!」
サトルが叫ぶと、サンダーは心外そうだ。
「パパうるさいー! クワガタといっしょじゃん!」
「いいから捨てろ! あーでも捨てないで! 虫かご! 虫かごに入れて!」
「ちぇー。<くろがね>、パパったら、しつれいしちゃうわね〜」
「名前つけんな!」
Gを虫かごに入れたサンダーはようやく、「このひとだぁれ〜?」と早を指差して尋ねる。
「あ……あぁ、この子は……」
落ち着きを取り戻してきたサトルがおほんと咳払いし、「サンダーのいとこのお兄ちゃんだ」と返すと、パアアとサンダーの顔が明るくなった。
「いとこいたの!?」
サンダーは興奮しながら早に向き直ると、正座をし、ペコリとお辞儀した。
「こんにちは、あまのサンダーです。5さいです。あなたのおなまえは?」
丁寧に尋ねるが、早からの返事がない。早は白目を剥いて泡を吹き、失神していた。
「逃げ場がねぇのに、でっけーゴキブリが自分に向かってきた上、突然目と鼻の先に長物振り下ろされちゃあ無理もねぇか……」
仕方なく、サトルが「よっこらしょ……」と言いながら立ち上がってフォローを入れる。
「あのな、この子は、はやまそうくんって言うんだ。今はちょっと……具合が良くないみたいで、パパがお見舞いに来たんだよ」
「ふ〜ん」
サンダーは立ち上がると、急に周りを見渡す。
「ねぇ、そうくんのかぞくは?」
急に核心を突く。サトルは迷った。全てを説明する訳にもいかないし、ウチで保護する決心もまだついていなかった。
「姉ちゃん……あ〜早くんママはいるんだけど……今はいなくて、うーんと、だからなぁ、早くんを置いてしばらくどこかに行ってしまった……というか?」
サンダーは「???」と怪訝そうな顔でサトルを見つめたのち、探偵のように手を顎に当て、少ない知識と経験から、一つの推理結果を導き出した。
「つまり、そうくん、まいごってこと……?」
「え? あぁ、そうかも」
手をポンと打ち付けて、「その表現はうまいな」と咄嗟にサトルも思う。自宅で迷子ってのも変な話だが、失踪とかネグレクトとか、サンダーには難しすぎる。
「そっかー。じゃあ、うちにつれてくるよね! おかあさんみつかるまで!」
「!」
サンダーはニコニコと笑顔だが、サトルは冷や汗をかく。
「でも、……すぐにお母さんが見つかるとも限らないんだ。その、ずっと見つからないかもしれん。その場合、ウチで早くんを育てることになるかもしれねぇんだよ」
「ええええ!」
サンダーもさすがに驚く。
「サンダーにおにいちゃんができる、ってこと!?」
違う、そうじゃない。いや、合ってる? そういうことか……? サトルはすっかりサンダーのペースに飲み込まれていた。
「やったーーーー!!!」
サンダーは万歳し、ドンドンと飛び跳ねて喜ぶ。
「あぁあぁもう……」
仕方ねぇな……と手で顔を覆ってサトルは苦笑いする。こうなったらもう、サンダーは引かない。欲しいものを見つけたら、絶対に手に入れるまで諦めないのがサンダーだ。スーパーで店員のおばちゃんに試食させてもらったソーセージが美味しかったら、俺が「買う」と言うまで床でのたうち回って泣き喚くようなヤツだ。引き受けるしかない。
気絶した早をおぶり、サンダーと部屋を出る。3人の奇妙な共同生活が始まった。