[第1話] こんにちは赤ちゃん
「唱えれば、幸せになれる呪文を教えてあげる」
5歳の時、僕はお母さんからその呪文を教わった。呪文と言っても、それはファンタジー作品に出てくるような魔法の呪文じゃない。唱えても、手から炎は出ないし、ドラゴンを呼び出せるわけでもない。
でも、まるで魔法のように、人生がうまくいくようになったんだ。
***
「葉山、また学年1位じゃん! 王座防衛だな!」
昼休み、廊下に張り出された1学期の中間考査結果を見て、背の高い男子生徒が隣に立つ少年を誉めた。
「ありがとう! でも王座とかは狙ってないよ~」
はにかむ少年の目元は笑わなくとも少し垂れ気味で、バサッと長い睫毛が眼球の日焼けを防ぐように伸びていた。さらりとした質感の開襟シャツタイプの夏服からのぞく肌は白く、まるで化粧でもしているかのようになめらかだ。中央で分けた黒髪は、夏を前にした自然光が窓から差し込むとプリズムのように反射した。
「いやいや、入試から主席だし、すげぇよ」
この学校は、東京都立でもトップクラスの高校だ。ここで一位ということは、中高一貫の難関私立高校でトップの生徒とも、全国模試で張り合えるレベルということを意味した。
「そんなこと言って、自分だって10位以内じゃない。科目別だと負けてるのもあるし……次は分かんないよ」
「カー! これぞ王の余裕ってやつですよ!」
肘で少年の脇をグリグリする。
「わ~やめてよ~!」
笑う少年の姿に、隣のクラスの教室の扉からひょっこりと顔を出した3人組の女子生徒たちが熱い視線を送る。少々地味めなその少女たちの目は、爛々と輝いていた。
「やっぱり葉山くん一択だよ」
「うん、めっちゃ頭いいし、みんなに優しいし……何より」
「ビジュが、ね……」
「うん。マジで彼を産み育ててくれたご両親に感謝……」
コソコソ言いながら、手を合わせて拝む。
だが、友人が身体から離れた瞬間、少年の表情はふっと遠くを見るような、影のある表情に変わる。そのことに友人も本人も気づいていないようだったが、誰よりも彼を見つめる女子たちは見逃さなかった。
「あぁ……見てよ……! 薄幸の姫のようなあの表情!」
「どこか他人と一線を引いたようなうら寂しさ……」
「踏み込めない心の絶対領域……!」
そうして静かに盛り上がる女子たちを「何だろう?」と尻目に見つつも、葉山早にとって、背の高いこの友達も、あの取り巻きたちも、<呪文>を唱える手間が必要ない、いい友人だった。
だが、すべての人がそうではない。二人が談笑しながらクラスに入ると、なぜこの高校に受かったのか分からないような、机に突っ伏している男子生徒がネガティブなオーラを放っていた。周囲のクラスメイトも、鬱陶しそうな顔をしている。
「<どうしたの?> 大丈夫?」
早が声をかけると、その短髪の少年はぬぼーっと顔を上げた。
「葉山……お前はいいよな、赤点なんか無縁で。俺なんか数IAと化学と世界史で再試……落ちたら夏休みに補修だよ」
「それはお前が試験前に遊び回ってたからだろ!」
すかさず背の高い友人がつっこむ。
「ま、まぁまぁ……。<僕になにかできることある?> よければ、放課後に教えるよ」
「え! いいの⁉」
飛び起きて早の手を掴むと、「やったー!」と声をあげる。すると、クラスのカースト上位といった外見をした、派手目の女子グループがサッと近づいてくる。
「葉山くん、優しすぎだよ~!」
「そうだよ~。コイツなんて自業自得なんだから、痛い目見た方がいいんだよ」
「オイ女子ひでえよぉ~!」
「あはは……」と早も笑う。自分の周りから暗い雰囲気が消えて、夏休みを明日に控えた、明るくポジティブな雰囲気が満ちた。早の周りの世界は今日も穏やかに回っている。<呪文>はその役割を静かに果たしていた。
<呪文>との出会いは、11年前の夏だった。
まだ日が高く、蒸し暑い14時ごろ、幼稚園に僕を迎えにきたお母さんは、いつもより笑顔で、テンションがやけに高く見えた。保母さんに愛想よくお礼を言い、僕を自転車の荷台に乗せる。道すがら、僕は今日あったことをお母さんの背中に向けて無邪気に喋り続けた。
東京の中心に位置するタワーマンションに自転車を止め、エレベーターで12階へ。お母さんがドアを開けてくれた。走り込んで靴をこすり合わせるようにして脱ごうとする。
明かりもつけないままだから、玄関は薄暗く、部屋は蒸し暑かった。ドアが後ろでガシャンと閉まった。その時だった。
「早」
お母さんが低い声で僕を呼び止めた。
「唱えれば、幸せになれる呪文を教えてあげる」
「えぇ? じゅもん?」
舌っ足らずの声で返事をする。
「呪文は二つ。いい? 一回しか言わないから、覚えるんだよ?」
振り返ると、何かのスイッチが切れたように棒立ちになったお母さんの異様な雰囲気に、その時ようやく気づいた。
「ママ……?」
見上げても、陰になっていて、お母さんの表情は見えない。
「いい?」
大人の手なら鷲掴みにして持ち上げられそうなほど細い早の首元から、一筋の汗が伝う。
「……うん」
事態は全く飲み込めなかったが、気圧されてそう返事をするしかなかった。
「<どうしたの?> はい、早も繰り返して」
「え? ……どうしたの?」
「もう一つ。<僕にできることはある?> はい」
「……ぼくにできることはある?」
「よく出来ました」
呪文というからには一体どんな不思議なカタカナ言葉が飛び出すのかと思っていたら、なんていうことはない普通の言葉。なんだか拍子抜けだった。緊張していたのがバカらしい。
「ねぇ~ママ、なんでいきなりこんなのいぅ」
ぱちん、と遮るように小さな音が響いた。お母さんの冷たくて硬い手の感触が、僕の頬にかすかな痛みを残した。そのまま、両手で顔をぎゅうっと挟まれる。
「違うよね?」
僕を見下ろしていたママの顔が、垂れたロングヘアと共に僕の顔に向かって下がり、僕の顔の周りを囲む。夜が降りてくるようだった。母の表情も見えず、いよいよ景色は真っ暗になった。
「あ、あ……マ。マ、ママ?」
「呪文は?」
「あ、え? あ! <どうしたの>……! <僕に、できることある>……?」
「あのね、ママはいますごく辛いの」
頬に熱い雫が垂れてきて、弧を描くようにスーッと伝っていく。
「多分、明日も明後日も、来年も再来年も10年後もずっと辛いの」
僕は動揺していた。お母さんが泣いている。お母さんは悲しいらしい。でも、なぜお母さんが辛いのか全然分からないし、当時まだ5歳の僕にとって、10年後とか再来年とかいうスケールはまるで想像できなかった。
「だけどね、その呪文を聞けば、ママは楽になるから。ママだけじゃないよ。きっといろんな人が楽になる。味方になってくれる。ママはずっとそれを使ってきたの。でも、ママが使うのは今日で終わり。代わりに、アンタがこれからその二つの呪文を唱えながら生きていくの。分かった? これはママの一生のお願い。ね?」
お母さん、いやママのことを、僕は大好きだった。
幼稚園の他のお母さんに比べると若く、優しくて、「早」と穏やかな声で僕の名前を呼びながら頭をよく撫ででくれた。小児喘息で咳を繰り返す僕の背中を、夜中ずっとさすってくれたことも、一度や二度ではない。
それゆえに、ママの一生のお願いを、僕は叶えなければいけないと思った。
「……わかった」
その日の夜、お父さんは帰ってこなかった。そして11年後の今に至るまで帰ってきていない。
僕はこうして<呪文>と出会った。どうすれば、父の庇護を失った僕でも、この世界をうまく生きていくことができるのか。そのルールを知った。呪文は完璧で、それからは全てがうまくいっている。
そう、家の中でも。お母さんとの関係だって、そうだよ。
キー、カチャンと軽い音がして古びた木製のドアが閉まる。
「ただいま、お母さん」
夏の夕暮れ時の西東京、帰りに近くのスーパーで買った食材を持ちながら、築50年を優に超えた2階建て木造アパートのドアを開ける。汗ばんだ身体に冷房の風が涼しい。玄関横にある小さなキッチンにエコバックを置き、「今から夕飯作るね」と呼びかける。
「お母さん?」
振り向くと、玄関目の前に広がるリビングに母の姿はなかった。この時間、いつもなら派遣の仕事を終え、リビングでスマホを見ながらお酒を飲んでいることが多いのに。
窓から夕暮れ時の光が赤いセロファンを通したように差し込む。隣の母の部屋を覗く。何だかやけに片付いていた。いや、違う。単純にモノが少なくなっているのだ。開かれたクローゼットの服や、小さな化粧台の上に広がるコスメ類まで、ごっそりとなくなっていた。
明らかに様子がおかしい。母に連絡しようとスマホを取り出すと、その母からLINEがきていた。チャット画面を開く。
最新のメッセージは、なぜかボイスメッセージだった。そんなものをこれまでお母さんとやり取りした覚えはない。違和感は急激に不安に変わる。スマホを持つ手に汗がじわりと滲み、つばを飲み込んだ。
そっと再生ボタンをタップする。
「 」
無音。そのまま10秒以上が経ち、スマホの明かりが一段暗くなる。画面に自分の姿が反射している。眉を寄せて目を細め、左腕で自分の体を抱き締めていた。
お母さんは一体どうしてこんなものを……。だが、音声はまだ終わってはいない。
「 じ」
じ? じ、なんだ?
無音がまた続いた。
「 呪文 もういいから さようなら 」
ボイスメッセージはそれきりで、あっけなく終わった。
何度も再生する。
呪文、もういいから、さようなら。
じゅもん、もういいから、さようなら。
ジュモン、モウイイカラ、サヨウナラ。
聞くたびにゲシュタルト崩壊を起こしたように意味がバラバラになっていく。どんどん頭がぼんやりする。なんだか、急に脳みそが別のものに、例えば豆腐のようなものに変化してしまったようだった。なにも考えられる気がしない。足の力が抜け、膝から崩れ落ちる。
ぼんやりと窓の外を見上げる。夕焼けで赤く染まった電信柱で、カナカナカナ……とひぐらしが寂しげに鳴いていた。
呪文は完璧だった。
使うことの代償を知らない、この時までは。
明日以降、毎日21:00に次話を公開します。ハッピーエンドまでどうぞお付き合いください。




