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[第3話] 兄妹(きょうだい)

 東京は世田谷の端の方にある、駅から徒歩10分ほどのマンションに早が保護されてから、はや1週間が過ぎた。8月に入り、正午前後の暑さは一層増していた。早は天野家で、玄関から入ってすぐのサトルの6畳ほどの仕事部屋に、布団を敷いて養生していた。


「おう、どうだ調子は」


 サトルがお盆の上に昼食のカレーライスを載せて部屋に入ってきた。スパイスの匂いが部屋に一気に充満する。本格派のカレーのようだ。

 サトルはアロハシャツの上に、ピカチュウがデカデカとプリントされたピチピチのエプロンを身につけているが、絶望的に似合っていない。サンダーに少しはお手伝いのやる気を出してもらおうと買ったそうだが、ご覧の有り様だった。対する早は、サトルから借りたぶかぶかの長袖パジャマを着ている。


「あの、サトルおじさん……すいません、こんな、部屋も服も……ご飯まで」


「も〜、そういうのいいって何度も言ってるじゃねぇか。今の早くんは病人みたいなもんなんだから、大人しく看病されてりゃいいのよ」


 気を失ったことが功を奏したのか、早はその後まるまる2日間眠り続け、起きた時には少しだけ話せる程度には回復していた。ドアを閉めるのは居候の身で何だか悪いので、開けっぱなしだ。

 本来は部屋の中央に置かれていたデスクは、布団のスペースを作るために壁際に寄せられ、その上には、朝食の味噌汁やごはん、納豆などが置かれていた。しかし、どれも中途半端に残っている。それでも、半分は食べていることを確認すると、サトルは「よしよし」と心のなかで呟きながらそれらを回収し、カレーと置き替えた。


「姉ちゃんからはやっぱり何も連絡はねぇか」


「……はい」


 目元の半月型のクマは以前よりは薄くなったが、それでもまだ残っていた。早は布団に座ったまま、スマホを握りしめる。さっきまで、LINEのチャット画面を見ていた。もともとそこにあったはずのメッセージは母によって削除され、「このメッセージは取り消されました」という表示だけが残っていた。

 それでも、あの一文は早の脳みそに焼きごてでも押しつけたように残り、消えることはなかった。


<呪文 もういいから さようなら>


 早にも、もう分かっていた。

 かつて、父が母と僕を棄てたように、今度は母が僕を棄てたのだ。そうしてついに僕は、両親によって「要らないもの」になった。あの一文は早にとって「廃棄」という烙印に他ならなかった。

 だとしても、なぜ母が突然出ていったのかは、今も分からなかった。早の苦悩を察して、サトルがフォローする。


「姉ちゃんが出ていったのに、まともな理由なんてないさ。考えるだけ無駄だ。おおかた、恋人でもできて転がりこんでるんだろう」


「……はい」


 だがそんなことを言われても、考えることはやめられなかった。

 もしそうだとして、せめて事情を説明するくらいはしてもよかったはずだ。そうしなかったのは、やはり自分に何か問題があったからではないのか? 

 母に教わった呪文は10年以上、正しく使ってきたはずなのに……。


 そう、呪文。


「どうしたの? 僕に何かできることある?」


 その二つをずっと唱え続けてきた。母が望むままに黙り、望むままに勉強をし、成績はトップになった。掃除をし、洗濯をし、買い物をして料理を作った。

 自分は母の期待に応えられるだけの存在だったはずだ。学校には男女問わず友達もいる。自分にできることなら助け、周囲も自分をきっと愛してくれたはずだった。愛される資格があるはずだった。


 なのにどうして、お母さんは僕を棄てたのか。

 なぜ、どうして。

 どうして……。

 お母さんだけは、僕を愛してくれなかったのか?


 背中を丸めてうつむく早のそばに、サトルが片膝を立てて座る。そのまま、手を伸ばして早の身体に触れ、肩甲骨のあたりと、胸に触れて、ぐいっと力を入れた。


「!」


 突然のことに驚くが、姿勢が正されたことで胸郭が開かれ、圧迫された肺に酸素が入ってくる。


「そのまま深呼吸しろ」


 すーはーすーはーと、早が息を吸う。何度か繰り返す。


「……少しは落ち着いたか?」


 サトルが微笑を浮かべる。


「はい……」


 固かった表情が少し和らいだ早を見て、サトルは満足そうに、「よしよし、物書きの豆知識ってのも、たまには役に立つな」と呟くと、早の肩に手をポンと置いた。


「恋愛じゃないんだ。好きとか嫌いとかで、離れていいものじゃない。親は子どもをこの世に招いた限り、独り立ちするまでは傍で見守る義務がある。だから自分を責めるな」


「…………はい」


「……それによ」


 サトルはそっけなく言う。


「もし姉ちゃんがこのまま帰って来なかったら、ずっとウチにいりゃあいい」


 早の視界に、サトルのピカチュウが映る。サトルがかがんだためか、エプロンにはシワが寄り、ピカチュウの顔が歪んで泣きべそをかくような顔になっている。


「…………はい」


 湿っぽい雰囲気を押しのけるように、サトルは「さぁて〜原稿原稿〜!」と立ち上がり、部屋から出ていった。大人にできることは、所詮この程度だ、とサトルは思う。相手の顔色を伺いながら、声をかけ、環境を用意することはできるが、それ以上踏み込むことはできない。だが……。


「そ〜〜〜ちゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!」


 ドタドタドタという音がして、サトルと入れ替わりで今日もブルーのスモッグを着たサンダーが部屋に飛び込んでいく。その様子を横見に見ながら、微かな笑みを浮かべて、サトルはリビングに向かう。


「終わった!? むしとりいこ〜〜!!!」


「ってコラ!サンダー!」


 いい雰囲気で去るはずだったサトルは振り返ってサンダーの首根っこを捕まえる。サンダーは虫取り網と虫かごをすでに身につけていた。


「早くんはしばらく安静って言っただろ! 部屋から出ないでできる遊びにしなさい!」


「んぎゃー! そうだった!」


 「はぁ……」とため息をついて今度こそ部屋を出たサトルを尻目に、サンダーはデスクの引き出しをごそごそと漁り、折り紙とその教本を取り出す。


「じゃあ、これ! サンダーはにがてだけど〜」


「うん、いいよ」


 早が布団に座ったまま、微笑を浮かべる。満足げなサンダーは布団の上に遠慮なく座り込んで早にもたれかかる。大人よりも少し高い子どもの体温が、その背中を通じて早のお腹にも伝わってくる。生き物としての存在感を感じて、どこか気持ちが安らぐ自分がいた。

 サンダーはそのままパラパラと教本をめくり、後半のページでカッと目を見開くと、バンッと早の膝の上に叩きつけた。


「これにきめた!」


 クワガタと書かれたページには30以上の工程と共に、完成形として立体感のあるリアルなクワガタが鎮座していた。早が頬をかきながら苦笑いする。


「サンダーちゃん、これは……ちょっと難しいと思うよ」


「えぇ〜〜〜……なんでぇ?」


 サンダーは「ぴえん」の絵文字みたいな顔をして、早を見つめる。うっと思いながら、事情を説明する。


「だってこれ、折り紙2つ使うし、のりとかも必要だよ?」


「……でもサンダーはクワガタがいい。かっこいい」


 口をへの字に曲げて、譲らないサンダーを見て、「どうしたものか……」と早は焦る。すると、ページの端の一文に気づき、教本を手に取ってめくる。


「ねぇ、ならこっちのクワガタは? これならサンダーちゃんでも作れるよ」


 早が開いたページには、1枚のおりがみを使って10工程程度で作れる、脚などはないシンプルな造形のクワガタが映っていた。パアアとサンダーの表情が明るくなる。


「えへへ、ちょっとしょぼいけど。これでもいいよぉ!」


 その笑顔に早もホッと胸を撫で下ろす。


「じゃあ、僕が後ろから折り方を教えるから、サンダーちゃんが折ってみね」


「うん!」


 背中とお腹をくっつけて、体温を分けあったまま、二人は布団の上で茶色の紙を折り始めた。


 見知らぬ天井を見上げて起き上がったその日から、サンダーはこんな風に早のもとを訪れた。連日、というよりはほぼひっきりなしだった。先ほどのようにサトルがいる時や、天野親子がリビングでご飯を食べている時、サンダーがお昼寝含め寝ている時や、お気に入りのテレビ番組(特に日曜日朝のプリキュア)がやっている時、それ以外のほぼ全ての時間で遊びにきた。保育園も夏休みに入ったのだ。


 そのせいで早に落ち込む暇はあまりなく、加えてずっと遊びに付き合わされるので体力を使い、浅い眠りとはいえ、母が失踪した直後のような不眠状態には陥らなくなった。葬式を除いて一度しか会ったことがない(しかも赤子だった)いとこに、早も最初は遠慮と気まずさを感じていた。だが、あまりにもサンダーが遠慮しないので、早も今では気兼ねなくサンダーに付き合っていた。

 仕事がある親にとって、本来なら、夏休みの幼児なんて厄介な存在は、見守りサービスなどに預けておけばいいものだろう。だが、そうしなかったのはサトルの経験上から来る回復手法のようなものだった。そのことを今、利発な早は理解し、密かに感謝していた。


「……ねぇ、そうちゃん」


「うん?」


 後ろで微笑を浮かべる早に対して、小さな手のひらでまっすぐ紙を折るも、しょっちゅう変な方向に折れてしまうため、色紙とにらめっこするように格闘しているサンダーが尋ねた。


「……おかあさんに、あいたい?」


 突然の質問に、しばし早の表情筋も停止する。この質問をされるのは、初めてだった。


「……分からない」


 ぽつりとこぼした早の言葉に、ピクっと手を止めたサンダーは振り向く。眉を寄せて、くちびるを尖らせていた。


「わかんないってなにー!? おかあさんすきじゃないの?」


 「アハハ」と誤魔化すように早は笑うが、「分からないんだよ……本当に」と続けながら伏し目がちになっていく。

 だが、サンダーには早がどうしてそうなってしまうのかが、心底分からないという様子だった。サンダーはサトルとの会話から、まだ早が「まいご」であり、ここは迷子センターのようなもので、お母さんはそのうち迎えにくると思っていた。


「へんなの!」


「そうかもね、変なんだ……」


 たしかに自分でも変だと思う。だが、母を好きか?会いたいか?と聞かれると、自分の感情を描写する言葉を失ってしまうのだ。

 今や、自分の胸には、まるでブラックホールのような穴が開き、絶えず渦巻いて、全てを飲み込まんとする勢いを感じていた。そして、母についての感情というのは、その空間自体を構成している「暗闇」そのものだった。宇宙空間が絶えず膨張するように、その闇もまた、絶えずその領域を広げているような気がした。母について考えるということは、その深淵を覗き込むということだ。そうすると、すぐに頭から飲み込まれて、そのまま真空の世界に放り込まれ、呼吸ができなくなる。気づけば、脳にも酸素が回らなくなり、仕舞いには何も考えられなくなるのだった。


「サンダーはママにあいたいけどなぁ〜」


 悪い想像を止めるように、前に向き直ったサンダーが言うと、早も現実に引き戻される。そうだ、深呼吸だ。俯くのをやめて姿勢を正し、すうっと息を吸って吐いた。サンダーは知らず知らずのうちに、早が闇に飲み込まれているのを防いでいるという自覚もなく、折り紙を続ける。


「ママはがいこくじんで、きれいで〜、でもおこるとえいごになってめっちゃこわいってパパがゆってた! ようちえんでおむかえのときに〜、なんでサンダーにはママがいないんだろうっておもうことある」


 これまで自分の感情の方に気を取られていて、サンダーの境遇を想像する余裕はなかった。だがなるほど、そういうシーンは子ども心になかなかこたえるものがあるだろう。自分が母について落ち込むというのは、ひょっとすると、お母さんが生まれつきいないサンダーちゃんにとっては、嫌なことなのかもしれないと思った。


「……それは、そうだよね。ごめんね」


「ううん、だいじょうぶ!」


 だが早の気遣いをよそに、まるで大した問題ではない、とでも言いたげなサンダーはニヤリと笑うと、照れることもなく言い放った。


「だって、サンダーにはパパがいるから!」


 それを聞いて、早は素直に「いい子だな」と思う。その頭に自然と手が伸び、ゆっくりと撫でた。


「おじさん、いつも怒ってるけど、サンダーちゃんのこと大好きだもんね」


「えへへ、そうちゃんにもわかっちゃうかぁ〜」


 デレデレするサンダーの柔らかい髪を撫でて微笑を浮かべながらも、心は波紋一つ浮かばない池のように静かだった。川を挟んだ遠い岸辺で、楽しそうにどんちゃん騒ぎをしている人たちを、通りすがりに対岸から一人見るような感覚で、早はサンダーの笑顔を眺めた。

 愛し愛される関係をずっと受け取り続けられたら、自分もこんな風に心から笑えたのかもしれない。いいなぁ、とは思う。でも、自分にはそれが一生手に入らないものだと分かってもいるから、いっそ清々しい諦めがあった。


「それにね、それにね!」


「うん?」


 なんだか嬉しそうなサンダーに対して、早はまた薄い笑みを浮かべる。


「いまはそうちゃんもいる!」


「え?」


 僕? なんで?

 心臓が一度だけ強く打った。思いがけない言葉に真顔になる。対岸にいたまま通り過ぎようとしていたはずが、突然大声で名前を呼ばれたようなものだ。


「そうちゃんは〜こうやってサンダーにおりがみをおしえてくれる! むしはパパとおなじでダメだけど〜。サンダーにはきょうだいがいないから、ずっとひとりなんだろうなっておもってた。パパはパソコンみてることがおおいから……」


「そっ……か」


 珍しく、喋りながら声のトーンが落ちていくサンダーに、不意に自身の小学生時代を思い出した。


 リビングで勉強机に向かいながら、背後でテレビを見る母が気になって、盗み見する。でも自分の存在を忘れたようなその横顔を見て、微かな痛みを胸に抱えた。ママ、ぼくをみて。だが、数秒ののち、いや、ママにみてもらうために、べんきょうをがんばるんだと思い直して、また前を向く。そういうことを何度も何度も繰り返した記憶。


 サンダーもまた、保育園のお迎えに来てくれたサトルに、自転車の後部座席から喜びいっぱい、機関銃のように今日あったことを聞いてもらうものの、帰宅後に夕食を食べたらサトルは仕事部屋で原稿と格闘しなくてはならない。電話で切った張ったの打ち合わせをする父の背中を見たこともあった。

 たしかにサンダーのために仕事部屋のドアはいつでも開いていた。それでも、背後に立つサンダーに気づき、椅子をくるっと回転させて、「おう、どうした?」と笑いかけてくれるサトルに、遠慮なく話しかけて構ってもらうことを、サンダーは最近では遠慮するようになっていた。「ううん。なんでもない」とか、本当に寂しくても「ねむい!」とかしか言えなかった。

一人になれば、プリキュアのバックナンバーの配信を見たり、リビングで絵を描いたりすることで、孤独をしのぐ。サトルは稼ぎ、二人は生きてなくはならない。それは仕方のないことだ。


 早はそんな事情までは知らなかったが、サンダーの自己肯定感のようなものを高く見積もり過ぎていたのかもしれないことには、今ようやく気づいた。彼女にも、埋められない心の溝はあるのだ。

 だが、同時に一つの疑問が浮かんだ。


 ……そうだとしたら、何でいつもサンダーちゃんはこんなに元気なんだ?


 いかにも天真爛漫といった印象こそがサンダーだった。

 ずっとこうだった訳じゃないのか?


「でもね!」


 俯いていたサンダーが顔をがばっと上げる。暗雲を切り裂く稲妻のように、金色の髪がぶわっと浮き上がった。


「そうちゃんがウチにきてから、ほんとうのおにいちゃんみたいにまいにちあそんでくれて、サンダーはすっごくうれしかったんだよ!」


 えへへ、と照れながらも、サンダーは今日1番の笑顔を見せる。牙のような犬歯と、欠けた歯が覗いた。


ーー毎日、何の遠慮もなく甘えられるきょうだいがいる。だからこそ、この1週間、サンダーの心はいっぱいに満たされていた。


 サンダーにとって、もしかしたらその相手は、犬でも猫でもよかったのかもしれない。だけど、扉を開き、100%の力で飛び込んでくるサンダーを受け入れたのは、自分だった。例え、空っぽのようになっていても、サンダーを癒していたのは僕だったのだ。


 早は雷に打たれたように真顔で停止する。そんな早に気づかずに、サンダーは照れたまま、伏し目がちになって、ちいさな両手の指先を合わせて広げたり閉じたりしている。


「……だからね、よくないとはおもうけど、ほんとうは、そうちゃんママも、むかえにこないでっておもうことある」


 言っちゃった……というように恥ずかしがりながら、頬に汗を垂らすサンダーだが、早の反応がないことに気づき、「そうちゃん?」と聞くと、早はサンダーの頭を撫でながら、「ぼくちょっとトイレ」と言って立ち上がった。


「え!」


 背中を預けていたサンダーはバランスを崩したように、後ろの布団にゴロンと倒れ、ひっくり返ったまま叫ぶ。


「なにー!?」


 早はまるでサンダーのようにドタドタと足音を立てて部屋を飛び出す。サンダーはぐるりと逆さまになった視界で早の横顔を一瞬見た。いつもは雪のように白いその肌が、真っ赤に染まっていた。



トイレに駆け込み、座り込む。

背中を大きく丸め、両手の指先で髪の生え際を押さえた。


「なんだこれ、なんだろう、ほんと……」


 指と声が震える。

 ブラックホールの暗闇の中にいたと思ったら、突然、明るい世界に引っ張り出されて、胃の底に42度のお湯を大量に注ぎ込まれたみたいだった。

 自分自身の身体も芯からぽかぽかと温かくなってくるような感覚。冷や汗とは違う、急に自分を褒めてもらって照れながらかく汗を数百倍に凝縮したような汗が、身体中の毛穴からぶわっと飛び出してくる。止めようとしても止まらない。


「あっつぃ……」


 長袖の裾で顔の汗を拭っても拭っても流れ出る。人間サウナのようになっていた。


「ぼくが……サンダーちゃんの……きょうだい?」


 それは全く考えたこともない受け止め方だった。いとこと言えど、天野一家は自分にとってはどこか他人のように感じていた。一線を引いていた。

 サトルおじさんからも、そういった大人としての距離感のようなものは感じていた。ただ、時には、さっきみたいに、その線を半歩だけ踏み越えて、こっちに一緒に来てもいいんだよ、と言ってくれているような気がした。

 そして、サンダーにとっては、そんな線は初めからなかった。彼女にとってぼくは最初から家族で、きょうだいだった。家族というのが何なのか、多分僕はずっと分かっていなかった。ただ、今はほんの少しだけ、その片鱗に触れることができたのかもしれない。

 たぶんそれは、動物みたいに、お互いの体温と体重を受け止め合えるものだ。


「うわあぁ……」


 顔が熱い。多分、真っ赤になっている。汗が今も止まらない。

 しょうがなく、トイレットペーパーをハンカチ代わりに使う。恥ずかしい、と思いながらも長袖のパジャマを少し脱いで拭く。だが、全身にどんどん汗をかくせいで、コロコロコロコロというロールの回転音が止まらない。あっという間にワンロールを使い切って、しまった、これならシャワーでも浴びた方が早かったと思う。



 やがて、30分経っても止まらないコロコロ音を聞きつけたサンダーがトイレのドアを叩き、「そうちゃーーーん!おなかだいじょうぶー!?」と大声で呼びかけると、サトルも「おいどうしたー!?」とやってきて、「すまん! カレーにスパイスいれすぎたか!?」と叫ぶ。


「ほんとうに……。ほっといてください……」


 か細い声で訴えるも虚しく、その夜の夕飯はたまご雑炊になり、早はこの家にやってきて初めて部屋のドアを閉めた。

それでも寝る直前、「ずっとウチにいりゃあいいんだ」というサトルの言葉が、早の頭の片隅で静かにリフレインした。

溜まっていた毒のような何かは、ほんの一部だとしても、汗とトイレットペーパーと共にいくらか水に流されていったようだ。

 その晩、母の失踪以来初めて、早はぐっすりと眠った。

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