[第4話] 魔女とプリキュア①
早がトイレに立てこもってから3週間が過ぎ、8月も中旬から下旬に差し掛かろうとしていた。母の失踪からはもう1カ月が経ち、あと1週間ちょっとで、早とサンダーの夏休みも明ける。今では早も部屋から出られるようになり、3人で食卓を囲める程度には回復していた。
それでも、早は外に出ることができなかった。いや、正確には一度だけ、サンダーの虫取りに勇気を出して応じ、マンションの敷地を出たことがあった。
だが、道路で30代後半くらいの女性とすれ違った途端に気分が悪くなり、地面にしゃがみ込んで動けなくなった。これにはさすがのサンダーも驚き、家に帰ってからもずいぶん心配して、早のそばから離れなかった。やはり、しばらく高校に行くことは難しいだろうな、とサトルが大学入学資格検定について調べ始めていた頃だった。
せっかくの日曜日にもかかわらず、今年1番の大きさという触れ込みで、台風が本土に上陸した。夏の朝なのに外は冬のように暗く、大ぶりの雨が窓を叩きつけていた。
だが天気など無視するかのように、リビングでニチアサタイムのプリキュアにスモッグを着たサンダーが大騒ぎし、男2人は食卓についてパジャマのまま、その姿を見守る。焼きたてのトーストとコーヒーを啜っていた時、ピンポーンとインターフォンが鳴った。
「んあー? なんだ? アマゾンはたのんでねぇぞ」
サトルを急かすように、もう一度ピンポーンという音が鳴る。「へいへ〜い」とダルそうに立ち上がったサトルが、壁に備え付けられた小さなモニターを覗き込んだ瞬間、静止した。サンダーが早に「えぬえちけーかなぁ……」と早にひそひそ耳打ちする横で、応答ボタンのピッという音に続いて、上機嫌な女性の声がリビングに響き渡る。
「サトル、久しぶり〜。早、そこにいるよね?」
まるで足の裏から全身の血の半分がドバッと排出されたかのように、早の顔から、血の気が一気に引く。
お母さんだ。
お母さんが、来た。
「パパ〜……だれぇ……?」
NHKではないらしいと分かったサンダーだが、当然事態を飲み込めていないようで、小声で訊く。サトルはサンダーの質問を無視し、漏れ出る怒気を抑えるように、低く平坦な声で言った。
「早くん、サンダーを連れて部屋にいろ……俺がいいって言うまで絶対に出てくんなよ」
食べかけのトーストもそのままに、早に手を引かれてサンダーは書斎に移動する。
「なに〜〜〜? なんなのー!」
2人が部屋の扉を閉める。サトルの足音が部屋の外で小さく響き、玄関が開錠されるガチャリという音がした。
「よぉ……葬式以来だな」
玄関ドアを開けると、荒れ狂うザアアアという大雨を背景にして、薄いグリーンのストライプシャツに、白いパンツを履いた爽やかな装いの女性が微笑みを浮かべて立っていた。
顔立ちは決して美人ではないが、こざっぱりとした作りで、服と合わせて、何も知らなければ「感じのいい人」という印象を抱きそうだった。中目黒とか、代官山のカフェにいそうな感じだ。台風の日に着るような服としては明らかにミスマッチだったが、全く濡れていない様子から、むしろ台風を背負ってこの女がやってきたのではないかと思わせるような不気味さがあった。
「来る前に電話の一本でもよこすのが社会人のマナーじゃねぇか、ヒスイ姉ちゃん」
見下ろすようにすごむ長身のサトル相手に、ひるむ様子は全くない。それが、ヒスイと呼ばれた早の母だった。
「あぁ、ごめんね〜。それより、先に家賃立て替えてくれた分を渡すわね」
手に持ったブランドもののバックから茶封筒を取り出すと、ヒスイは薄い笑みを浮かべてサトルに差し出した。サトルは警戒しながらひったくると、中身を確認し、ゆっくりと顔を上げた。
「……こんなにいらねぇよ。何のつもりだ」
「何って、早がお世話になったようだから、いろいろとね」
サトルは札束に手を突っ込み、家賃分の万札を引き出すと、黙ってヒスイのバッグに突っ返した。小さく、封筒が折れるくしゃっという音がする。その行為にも、ヒスイは張り付いたような微笑みを崩さない。
「……上がれよ。ちょうどコーヒーが入ってる」
扉がガチャンと閉まると、パンプスを脱ぐヒスイを尻目に、サトルは「こっちだ」と言いながらリビングに向けて先導する。
だが、玄関から廊下に上がったヒスイは、すぐ左手にあるドアに気づくと、向き直って微笑んだまま、数秒立ち止まった。まるでドアの向こうを見透かすように。
まさにその先では、サンダーと早が息を殺している。未だに何事か把握できていないサンダーはドアに耳をつけ、盗み聞きしようしていた。
「こっちだ!!!」
サトルが吠えると、サンダーはドアに耳をつけたままビクッと肩を上下させた。
「ふふふ、そんなに大きな声出さなくても、聞こえてるわよ」
ヒスイは驚きもせず、サトルの方に向き直り、ゆっくりとした所作でリビングに向かった。
サンダーはヒスイの声が遠のいたことを確認すると、ゆっくりとドアを開き、廊下を覗く。
数メートル先から、ヒスイが目を見開いてこちらを見ていた。
「っひぃ……!」
サンダーが慌てて扉を閉める。ヒスイの表情はリビングのガラス窓からの逆光でよく見えないはずなのに、眼光だけは爛々と輝いていた。目があった瞬間、サンダーはヒスイに心臓を掴まれたような気がした。思わず、心臓がなくなっていないか、胸に手を当てる。太鼓を打つようなドンドンという音が早足で響いていた。
ヒスイはすぐに前に向き直ったため、サトルは気づいていない。
「こ、こわぁ〜〜〜……! そうちゃん、あのひと、まじょなのかも……!」
だが、早は返事しない。不思議に思って振り向くと、立ったまま俯くその目は焦点が定まっておらず、額からは滝のような汗が流れ落ちていた。
「そうちゃん? だいじょうぶ……?」
サンダーが手を伸ばし、早の手を握る。
「わ……!」
思わず手を離す。冬の朝、結露した窓グラスみたいにひんやりと冷たく、手汗でじっとりと濡れていた。
「あ、ごめん、そうちゃん……サンダーびっくりして」
だが、全く意に返していないように、早がぽつり、とこぼした。
「……お母さんだよ」
「え?」
「僕の……お母さんだ」
一瞬何のことか分からなかったサンダーだが、その対象が先ほどの女性であろうことに時間差で気づき、口をあんぐりと開ける。
「あれが!?」
早が床にへたり込む。足に力が入らなかった。
自分を抱きしめるように膝をぎゅっと抱えて座るが、今度は身体がカタカタと小刻みに震え出す。止まれ、と念じても上手くいかない。まるで自分の身体じゃないみたいに、言うことを聞かなかった。
「あ、ま、まじょとかいってごめん〜。ママ、むかえにきてくれたんだ、よかったね!」
サンダーが無理に笑顔を作って励ますも、早は黙ったまま震えるだけだった。その尋常ならざる様子に、サンダーもまさかとは思いつつ、両手を胸の前で組み合わせて、不安げな表情で聞く。
「……そうちゃん、ママのこと、こわいの?」
「……分からない」
このまま一生会わないかもしれないと思っていたお母さんがやってきた。
「やっぱり、分からないんだ……」
サンダーちゃんが言うように、怖いのか? 僕は。
お母さんのことを考えようと、胸の穴を覗いてしまう。コンマ数秒で暗闇の中に飲み込まれ、吹っ飛ばされる。この期に及んでも自分の感情がぐちゃぐちゃに絡まり合って渦のようになり、掴めない。
あぁ、駄目だ……この闇の中は、寒い……。ひどく寒くて、ただ時間が早く過ぎ去ってほしい。家の中にいるのに、家に帰りたいような気持ちだった。息が苦しい。じっとりとした冷や汗が体中から止まらない。以前トイレに立て籠った時とは真逆の感覚だった。
「で、でも、そうちゃんはまいごで、ならママがむかえにきたらうれしくないの……?」
今度ばかりは、サンダーちゃんが話しかけてくれても、ブラックホールの中から出ることが出来ない。お母さんがそばにいることで、その引力はずっと強まっているように思えた。息もからがらに、掠れた声で返す。
「ぼ、くは……たまたま迷子になった訳じゃ……ない。お母さんは、僕にさよならって言って、いなくなったんだ……」
「え、それって……」
サンダーもじっとりとした嫌な汗が身体に浮かんでくるのを感じた。スモッグの端を両手でぎゅっと握りしめる。
「わざとってこと……?」
早が黙ってうなずく。
その通りだった。人がたくさんいる休日のデパートに、子どもを捨てていく親と同じだ。どんなに迷子センターが呼び出しても、椅子に1人座って待たされた子どもが泣き叫んで親の名前を呼んでも、親が現れることはない。
サンダーの目がぐるぐるして、頬に一筋の汗が伝う。うなじの毛がこわばって、頭がくらくらしてくる。サンダーには何もかもが理解の範疇を超えていた。
親がわざと、子どもを置いてどこかに行ったまま、1カ月も帰ってこない。どうしてそんなことをするのか、意味不明だった。それも、早のような優しい子を。
だが同時に、早の母の姿を実際に目の当たりにして、野生の勘レベルで直感的に掴んだものもあるようだった。
「……そうちゃん、サンダーね、あのひと、なんかへんだとおもう」
サンダーは心配そうに、先ほど離してしまった早の手を再びとる。
「それに……そうちゃんもへんだよ。だって」
こんなにも、震えているのに。
いつもはやさしいお兄ちゃんの早が、母を前にすると、まるで子兎のようだった。そして、その手を通じて、早の感情が、サンダーにも流れ込んでくるようだった。
「……そうちゃん、め、つむってて」
「え……?」
「サンダーが、プリキュアになるときがきたから」




