第123話 興奮
洞穴の壁にできた影に、ミノーラの脚がめり込むことで、彼女はほぼ垂直になっている壁を自在に走ることが出来ている。
これは、陰の女王を食べてしまったことで得た、力の一つだ。
食べたという表現が正しいのか分からないが、彼女はそう認識している。
今までに何度か使ってきたこの力だが、今日はいつもと何かが違う。影にめり込んでいる足先と、逆立っている全身の毛が、直感的に告げている。
違和感を持ったまま走り続けた彼女は、襲い来る岩の槍を左右に避け、飛び交う石弾を躱す。
自然と体重の掛かる足先で、何度も違和感を塗り重ねていった。
走れば走るほど厚くなる違和感は、既に強固な確信となりつつあった。
「足が、どんどんめり込んでいってる?」
初めは足先だけをひっかけて走っていた彼女は、気が付けば足の付け根まで影の中へと潜りつつあった。
しかし、不思議と抵抗や走りにくさは感じず、むしろ、動きやすくなっていく。
「……アンタは何なんだ!」
影に潜り込んでゆくミノーラの様子を見ていたであろうキュームが、そう叫んでいるのが聞こえた。
その言葉を最後に、ミノーラは完全に影の中に潜り込む。
鏡の中の世界というのが正しいのだろうか。ミノーラの足元には、先ほどまで彼女が立っていた空間の様子が映し出されている。
ミノーラの姿を見失ったキュームが、辺り一面に向けて岩を放ち、何かを叫んでいる。
そんな様子を見て、ミノーラは気が付いた。
音が無い。
今、彼女の居る世界は、あらゆる音が遮断されている。試しに吠えてみた彼女は、自身の声が発せられていないことを耳にした。
もちろん、キュームにもその声は聞こえていないようで、相変わらず攻撃を繰り広げている。
ここに居ればキュームの攻撃にさらされることは無いため、ひとまず呼吸を整える。かといって、問題が無い訳では無かった。
『私の体はどうなってるんでしょうか……。まさか、影の中に入れるなんて……これは、影の女王の特徴でしょうか?あれ?でも、私は人間と狼の混色だったような?影の女王を食べちゃったせいで、特徴が追加された……のかな?』
最近得た知識をフル活用して考えたミノーラは、今はそれ以上深く考えることをやめた。
『まずは、キュームさんを大人しくさせないと……でも、説得は出来ないし。やっぱり、彼女を食べるしかないのかな。』
ミスルトゥで影の女王を食べたように、キュームを食べる。
そもそもそれが出来るのか、確信はない。だが、一つの共通点を、彼女は見つけていた。
『さっき、首輪からカチって音がした。確か、ミスルトゥでも同じ音がしたはず。やっぱりサーナさんってすごいんだなぁ。』
のんきにそんなことを考えながら、足元の様子を伺う。手当たり次第に攻撃をするのは得策ではないと考えたのか、キュームはミノーラが姿を現すのをじっと待っているようだ。
どこか、彼女の死角を突いて飛び出し、一息に食らいつければ……
彼女の中の狩猟本能がそんなことを呟いた時、ふと思う。
『……どうやってここから出ればいいんだろう。』
入るのが初めてなので当然だが、彼女はこの空間から出る方法を知らなかった。ぐるっと周囲を見渡してみるが、出口のような物は見当たらない。
入口のような物も無かったため、当然なのだが。
自身の愚考に突っ込みを入れたミノーラは、はたと気づく。
入るときは、影から入ったのだ。出るときは光から出ればいいのでは?
足元に映っている洞穴の天井に当たる部分。そこから差し込んでいる光を目にした彼女は考察する。
射し込んだ光が照らしている洞穴の地面は、もし出ることが出来たとしても、一瞬でキュームに見つかるだろう。
となると、キュームの頭上。光が差し込んでいる天井の亀裂。そこから出れたなら、彼女の不意を突くことが出来るだろう。
まだ光のある場所から出ることができると確定したわけではない。ないのだが、彼女はすぐさま行動に移した。
まるでガラスで囲まれた建物の壁を駆け上がるように、暗闇の中を掛ける。
全く音を上げないその走りに、強烈な違和感と気色の悪さを覚えながらも、目的の場所である亀裂へと辿り着く。
彼女の足元で周囲を警戒しているキュームが、一瞬気を抜いた瞬間。その瞬間をミノーラが見逃すはずも無く、勢いよく光へと踏み込んだ。
途絶えていた音が、全身にまとわりつき、空を切る風を鼻先に感じる。
束の間覚えた浮遊感は、一瞬で消滅し、そのまま落下し始める。まっすぐ、キュームへと。
気配を察知したのか、キュームがこちらを振り返るが、既に遅い。
背後から迫ってきた土の槍を踏み台にして勢いをつけたミノーラは、一直線にキュームへと飛び込む。
大きく開いた顎が、キュームの全身を捉えて、喰らった。
まるで、空気を飲み込むような感覚に、一瞬だけ失敗を疑った彼女だったが、すぐに誤解だと気が付く。
周囲を漂っていた浮遊物も、彼女に迫っていた土の槍も、キュームが操っていたもの全てが瓦解し、崩れ始める。
崩れたがれきの上に着地した彼女は、パラパラという音を聞き取り、天井を見上げた。
流石に暴れすぎたのか、洞穴も一緒に崩れ始めている。亀裂が少しずつ広がるように、天井が開き、晴れた青空が顔を見せている。
それは、彼女にとって見たことの無い物。
晴れた青空を、彼女は見たことが無かった。
明るい空と、暗い空。その二つしか知らないはずのミノーラにとって、少しずつ広がってゆくその青空は、あまりに鮮やかに、美しく映る。
その光景に思わず見とれそうになった彼女は、聞き覚えのある声に引き戻され、咄嗟に走り出す。
「タシェル!大丈夫ですか!」
洞穴の入口に向けて駆ける彼女は、ゆらゆらと揺れる松明の色を目にし、醒めぬ興奮を抑えきれず、全力で走る。
タシェルの安否も心配だが、早くこの喜びを分かち合いたい。それは言うまでもなく、彼女の本音だった。




