第3話
第3話 王子、時間の穴に落ちる
走っていた。
ラピスは、とにかく走っていた。
「……はぁ……はぁ……」
朝の森。
木々の間を、青い髪を揺らしながら駆け抜ける。
後ろからは、兵士たちの声が聞こえていた。
「いたぞ!!」
「王子を見失うな!!」
「森へ入ったぞ!!」
「絶対に逃がすな!!」
「……なんでこんなことに」
ラピスは走りながら呟いた。
数時間前。
自分はただ、城を出ただけだった。
離れを壊した。
王城を出た。
それだけ。
なのに。
気がつけば――
指名手配されていた。
「……僕、何か悪いことした?」
後ろから怒鳴り声が飛んでくる。
「王子!! 止まれ!!」
「嫌だ」
即答だった。
「止まらないと罪人として扱うぞ!!」
「もう扱ってるじゃん……」
ラピスは振り返らない。
足を止めれば捕まる。
それくらいは分かる。
だから走る。
走る。
ひたすら走る。
けれど――
「……疲れた」
体力には限界があった。
昨夜はほとんど眠れていない。
今朝だって、起きた瞬間から眠かった。
そのうえ、この追いかけっこ。
「……最悪」
ラピスは指揮棒を握った。
これがあれば。
昨夜のように風を操れる。
炎も動かせる。
なら――
「……ちょっとだけ」
ラピスは指揮棒を振った。
すると。
森の中を吹いていた風が、一気にラピスの背中へ集まった。
「……!」
身体が軽くなる。
風が背中を押す。
ラピスの身体が、前へ滑るように加速した。
「待て!!」
兵士たちの声が遠ざかっていく。
「……これ、便利だな」
ラピスは少しだけ感心した。
そして。
「……でも疲れる」
便利なものを手に入れても、眠いものは眠い。
ラピスは森の奥へと逃げていった。
◇
どれくらい走っただろう。
兵士たちの声は、もう聞こえない。
ラピスは立ち止まった。
「……撒いたかな」
周囲を見渡す。
木。
木。
木。
どこを見ても森だった。
「……」
ラピスはため息をついた。
「帰り道、分からない」
当然だった。
王城から逃げることしか考えていなかった。
「まあ……いいか」
ラピスは歩き出す。
森を抜ければ、どこかに街があるだろう。
そう思っていた。
そのとき。
「……?」
足元に違和感があった。
土が――
妙に柔らかい。
「……?」
一歩。
踏み込んだ瞬間。
ズボッ!!
「……え?」
地面が消えた。
「うわ――」
身体が落ちる。
「――っ!!」
指揮棒を掴む。
風を起こそうとする。
けれど。
間に合わない。
ドサッ!!
ラピスは、暗闇の中へ落ちた。
◇
「……痛い」
しばらくして。
ラピスはゆっくり身体を起こした。
周囲は暗い。
上を見上げる。
かなり高い。
地面に開いた穴から、青空が小さく見えている。
「……」
ラピスは黙って見上げた。
「……落ちた」
当たり前だった。
問題は――
「……登れない」
穴の壁は土で覆われている。
手をかける。
ズルッ。
崩れた。
もう一度。
ズルッ。
また崩れた。
「……」
ラピスは指揮棒を取り出した。
「風……」
振る。
ヒュウッ――
風が巻き起こる。
けれど。
身体を浮かせるほどの力はない。
「……無理か」
ラピスは座り込んだ。
しばらく考える。
そして。
「……寝よう」
問題を先送りにした。
◇
一日目。
ラピスは穴から出られなかった。
二日目。
やっぱり出られなかった。
三日目。
「……お腹すいた」
限界だった。
穴の中には食べ物がない。
水だけは、壁から少しずつ染み出していた。
それを舐めながら、なんとか耐えていた。
「……」
ラピスは指揮棒を見つめた。
この三日間。
何度も使った。
風を動かした。
土を動かした。
周囲の魔力を探った。
けれど。
ここだけは――
妙だった。
「……魔力が流れてる」
普通の魔力じゃない。
炎や風とは違う。
もっと静かで。
もっと大きい。
そして。
どこか変だった。
「……時間?」
なぜそんな言葉が浮かんだのか。
ラピスにも分からない。
指揮棒を地面へ向ける。
淡い青い光が、先端の宝石に灯った。
すると。
穴の底にあった土が、ゆっくりと揺れた。
「……これなら」
ラピスは立ち上がった。
指揮棒を振る。
ズズズズズ……!!
土が動く。
壁が崩れる。
その向こうに――
細い空間が現れた。
「……出口?」
ラピスは身体を滑り込ませた。
狭い。
暗い。
けれど。
進める。
少しずつ。
少しずつ。
そして――
光が見えた。
「……!」
ラピスは這い出した。
◇
森だった。
さっきまでいた森と、何も変わらない。
木々。
草。
青い空。
「……」
ラピスは立ち上がった。
服は土まみれ。
髪もぐちゃぐちゃ。
三日間ろくに食べていない。
「……お腹すいた」
ラピスは空を見上げた。
そこで。
気づいた。
「……あれ?」
太陽の位置がおかしい。
穴に落ちる前と――
ほとんど変わっていない。
「……?」
三日間。
確かに三日間、穴の中にいた。
なのに。
森の中では、まるで――
時間がほとんど進んでいない。
ラピスは指揮棒を見る。
青い宝石が、淡く輝いている。
「……あの穴」
時間を――
止めていた?
それとも。
時間から、切り離されていた?
ラピスには分からなかった。
ただ一つ。
分かったことがある。
「……お腹すいた」
考えるのは後にした。
ラピスは森を歩き始める。
数歩。
歩いたところで。
「……」
足が止まった。
目の前に――
何かがいる。
巨大だった。
木々の向こう。
黒い影。
ゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳。
鋭い牙。
巨大な翼。
そして。
大地を震わせるほどの身体。
ラピスは、目を見開いた。
「…………」
ドラゴン。
この国で恐れられている存在。
街を襲い。
炎を吐き。
人々を脅かす――
魔物。
その巨大な瞳が。
ラピスを捉えた。
「…………」
ラピスも。
ドラゴンを見る。
しばらく。
互いに動かなかった。
そして――
ラピスの腹が鳴った。
ぐぅぅぅ……。
「…………」
ドラゴンが首を傾げた。
ラピスは指揮棒を握る。
「……」
そして。
小さく呟いた。
「……食べられる?」
ドラゴンが――
大きく口を開いた。
――グォォォォォォォン!!
森全体が震えた。
ラピスは青ざめる。
「……やっぱり無理か」
逃げ道はない。
目の前には巨大なドラゴン。
手には一本の指揮棒。
そして――
ラピスはまだ知らなかった。
この出会いが。
やがて王国の運命を大きく変えることになるとは。




