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第8話 1月10日 初登校

「紫苑くん、おはよ」


紫苑が洗面台で歯を磨いている。


「……んー」


まだ寝ぼけているのだろうか。

目を閉じてうつらうつらとしている。


「今日から学校だよ?」


「……んー」


寝ぼけたまま部屋に戻って行った。

大丈夫だろうか。


15分ほどして降りてきた時には、いつもの紫苑になっていた。


「紫苑、ごはんは?」


キッチンから母が声をかける。


「今日はいいや。ほら、行くぞ」


私を見た紫苑が、見た目の変化に驚いたのか二度見する。


「……何か、おかしいかな?」


「いや……前よりはいいんじゃないの」


相変わらずの無表情だけど、もらった言葉から悪い気はしなかった。



「結局、何も思い出せなかった」


「学校には報告が行ってるし、まずは保健室登校だから、大丈夫だろ」


実は、学校に行くのは、楽しみなようで、不安でもあるのだ。

全く覚えていないけれど、おそらく私は、学校にあまり良いイメージを持っていない。


勉強が嫌いだとか、いじめられたとか、多分そういうことではない。

心の奥底にある複雑な感情ーー説明するのが難しいけれど。



先日も乗った路線の電車に乗り込む。

人でいっぱいーーギュウギュウだ。

そう、これが通勤通学時間の電車なのだ。

押し込められた人の圧で潰されそうな感覚は、なんとなく思い出せる。


私と紫苑は、ドア近くを確保できた。

ここは、ドアの開閉時には押し出される危険があるけれど、壁の面は人の圧がないので安全なのだ。


私が背中をドア面に、紫苑は人の圧を受ける側、私との間に少しスペースを作って立ってくれている。


「紫苑くん、そっち側、キツくない? ごめんね」


「……別にいいけど」


至近距離で見るイケメンは、兄とは思っていても緊張してしまう。

さりげない優しさが、嬉しい。



高校の最寄駅に到着しドアが開くと、一斉に人が流れ出し、私たちもその波に乗るように改札へ向かった。


「絵梨花!」


改札を出ると、美少女が手を振っている。


スマホの写真で見た、おそらく彼女が雨宮莉々だ。

可愛い子だとは思っていたけど、これほどまでとは。


「紫苑くんも、おはよう」


「……はよ」



そういえば、莉々に記憶喪失のことを伝えていなかった。


「あの……雨宮さん。実は私、年末に事故に遭って記憶喪失になってて……何も覚えてないんです。ごめんなさい。思い出すまで、ちょっと待っててもらえないかな」


「……え? 莉々のこと忘れたの? 親友なのに? 莉々との約束も?」


「……ごめんなさい」


LIMEは見たけれど、紫苑がいるところで話すことではないだろう。


「そっかぁ……わかった。今度、莉々がいろいろ教えてあげるね!」


学校に向かう間、紫苑と莉々は、道ゆく生徒たちに羨望の眼差しを向けられている。

確かに絵になる二人だよね。


紫苑は周りを気にしてないようだが、莉々は期待に応えるかのように周囲に美少女スマイルを送っている。


ーーあれ?

私の中での彼女は、紫苑に声をかけられない内気な子だったはず。

普通に話せているし、むしろ積極的なんだけど。

見当違いだったのかな。



「雨宮、俺、こいつを保健室まで送っていくから」


「はぁい。絵梨花、またね」


莉々が笑顔で手を振っている。

別れ際まで、完全無欠のアイドルだった。



「……雨宮さんって、みんなのアイドルみたいだね」


私の中の莉々像と乖離しているため、やや動揺している。


「そうか? 見ていて疲れる奴だなとしか思わんけど。ほら、ここ保健室」


気付けば、保健室の前に来ていた。



「帰り、また迎えにくるから」


「ありがとう。よろしくね」



保健室の引き戸を開けると、優しそうな養護教諭が待っていた。


「橘さん、心配していたのよ。記憶喪失だって聞いて。ここでは無理なく過ごしてね。先生は仕事してるけど、気にしないで」


「ありがとうございます」


私の知らない人が、私のことを知っている。

この状況にに少しだけ緊張するけれど、暖かく迎えてくれる場所があるというのは、とてもありがたい。


今日は新学期初日なので、始業式とホームルームだけだと聞いた。


始業式には出ようかと思ったけれど、精神的負担になるかもしれないという配慮から、保健室登校となった。

学校からの課題のプリントを片付けるのが、当面の私の日課となる。


プリントを解きながら、先生に声をかける。


「先生、お仕事中すみません。ちょっといいですか?」


「なぁに?」


「私、どんな子でしたか?」


先生は、保健便り作成の手を止めて、私の座っている机の前に座った。


「……先生が知っている範囲でのことなら話せるけど、それでもいいかな?」


「はい。お願いします」


1時限目終わりのチャイムが鳴った。

始業式が終わったのだろう。

廊下から生徒たちの声や足音が聞こえてくる。


「橘さんは、生まれつき体が弱かったそうで、よくここに来てたの。その時に、家族とうまくいってないと聞いたわ。あまり口数の多い子ではないから、詳細は言わないのだけど……ご両親が再婚同士だから難しいこともあるんでしょうね。あなたはいつも、私が悪い、私のせいだ…って、自分を責めていたし、一人で抱え込むような子だったから、心配していたのよ」


何の理由かはわからないけれど、私自身が避けていたという話のことだ。

でも、今の私には記憶もないし、避ける理由もなくなっている。


「それなら、もう大丈夫みたいです。悩みの原因が思い出せないので、なかったことになってます。記憶喪失も、怪我の功名と言えるのかもしれませんね」


あっけらかんと言う私を見て、先生は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに笑いだした。


「あははっ、橘さん、人が変わっちゃったみたい」


「あ、それ、紫苑くんにも言われました」


「紫苑くんって、橘紫苑くん? 本当に解決したのかしら。良かったわね!」


心配してくれていた先生が、ほっとした笑顔を見せてくれる。



今日は半日時制なので、あっという間に下校時間になり、紫苑が迎えに来た。


「じゃ、橘さん、また明日ね」


「先生、ありがとうございました。また明日」

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