第4話 12月31日 大晦日
病院から走ってきたタクシーが、自宅前で停まる。
車から降りると、2階建ての一軒家がそこにはあった。
建物が新しく見えるのは、親同士が再婚したという5年前に建てたからなのだろうか。
玄関の周りには小さな花壇があって、おそらく母が手入れをしているだろう草花が可愛らしく咲いている。
「ただいま〜」
母が玄関から呼びかける。
「おかえり〜」
父がエプロンをして、玄関まで出てきた。
右手には、焦げたフライパンを持っている。
キッチンの方から、もうもうと煙が流れてくる。
「あなた、今度は何を焦がしたんですか」
「絵梨花のために、パンケーキを…今、流行っているんだろう?」
得意気に言う父の頬には、煤のような黒い汚れが付いている。
「これは、炭です。食べたら治った体が壊してしまいます!」
母がハンカチを取り出し、父の頬を拭く。
夫婦漫才を見ているようで、可笑しくて、笑ってしまった。
「焦げたとこ、削いで食べますよ」
削いでみても、中までしっかり炭だったので、3人でまた笑ってしまった。
その時、後方の玄関から、兄が入ってきた。
「紫苑、どこ行ってたの?」
「…コンビニ」
「お兄さん、ただいま戻りました。これから、よろしくお願いします」
兄に、笑顔で挨拶する。
「…おかえり」
彼は、相変わらず珍獣でも見るような目でこちらを見たが、そのまま2階の部屋の方に上がっていった。
「絵梨花ちゃん、あなたの部屋はこっち」
母は、さっき兄が上がっていった2階に促し、兄の部屋と向かいにある部屋のドアを開けた。
入院の荷物をドアの近くに置き、部屋の中を見回す。
そこにあったのは、いかにも女の子といった、可愛らしい部屋だった。
全体的にパステルピンクをベースに、お花と動物の小物が置いてある。
「これが、本当に、私の部屋…?」
可愛いのは嫌いではない…むしろ好きな方ではある。
だが、だかしかし、この空間を私が自ら作ったとは、思えない。
「う〜ん?」
ドアを背にして立ってみる。
右手にベッド、左手に机、床には通学バッグらしきものが置いてある。
バッグの中には、教科書数冊と、ノートとペンケース。
ポーチの中には、リップと鏡、ハンカチ。
入っているものは、普通である。
教科書をパラパラとめくってみる。
現代文は…読んだことがある。
古文…あまり好きではないけど、まぁわかる。
数学…すらすら解ける。
社会は地理、理科は生物と化学…英語も、普通にできるかな。
学習面の心配は、しなくてもいいかもしれない。
*****
夕方になり、リビングでソファに座って年末特番を観ている。
キッチンの方から鼻歌が聞こえてくる。
母が明日の準備をしているのだろうか。
手伝いを申し出たけれど、病み上がりだからと手伝わせてくれない。
記憶がない以外は、何てことはないのだけれど。
「そろそろ、年越し蕎麦を食べましょうか」
母が呼びかけると、父と私がテーブルに集まる。
目の前には、大きなエビの天ぷらがのっている、美味しそうなお蕎麦。
「あの…お兄さんは?」
母は、ため息をつきながら、困った顔で言う。
「あの子は、しばらく部屋に籠るから、いらないって。さっきコンビニで買ったものでも食べているのかしらね。まったく、困った子だわ」
せっかくお母さんが作ってくれたのに。
「こんなに美味しいのに、食べないなんてもったいないです。私、呼んできましょうか」
急いで2階へかけ上がる。
コンコン
「お兄さーん、みんなで年越し蕎麦を食べませんかぁ?」
…反応がない。
寝ているのかな?
まさか、無視か?
だったら、そうはいかないよ!
「お兄さーん、お蕎麦がありますよー。出てきて下さーい」
コンコン、コンコン、コンコン、コンコンコンコンコンコンコン…
「お蕎麦、お蕎麦、お蕎麦…」
こうなったら、出てくるまでやってやろう。
「あー、うるさい。わかったよ…」
兄は、心の底から面倒くさそうに、しぶしぶと部屋から出て来た。
「いいじゃん、お父さんとお母さん喜ぶよ」
付き合いの悪い兄を、父と母の元へ連行できて満足感でニッコニコである。
「お前さ、性格が変わってない?」
兄が、欠伸をしながら、階下に降りていき、私はその後をついて行く。
「そうなの?」
私は、もともと、こういう性格だと思うんだけど?
「ほとんどしゃべらなかったし、親にも反抗的だったしさ」
「…ふーん?」
不思議に思いながら、兄をテーブルに誘導、座らせることに成功した。
「お母さん、年越し蕎麦、もう1杯、お願いします」
「はい、はい」
母は、ふふっと笑って、蕎麦のつゆを温め直し、麺を茹で始めた。
「絵梨花、変わったな…頭でも打ったんじゃないか?ちゃんと調べてもらったか?」
父が、冗談ぽく、少しおどけた感じで言う。
あの時の、今にも消えそうだった父とは思えない。
「そうなの、絵梨花ちゃんが前よりずっと明るくなって、お母さん、びっくりしちゃった。焦らず、少しずつ思い出していけばいいのよ」
父と母が笑い合い、和やかな雰囲気のまま、時が過ぎていく。
テレビ番組の中で、今、まさに今日から明日に変わろうとしている。
新年の始まりを告げる鐘の音が、人々の喜びと期待と共に、鳴り響いた。