第2話 12月28日 無愛想な兄
母は、午後になると毎日面会に来てくれる。
いろいろな話をして、打ち解けてきたように思う。
未知の世界に一人投げ出されたように、どうして良いかわからなかったけど、ここが私の居場所であることに変わりはないのだからと、ある意味、開き直っているところだ。
折々、思い出せればいいかなっと、楽観的な私である。
そうそう、搬送された時のことだけど、通報者の話によると、倒れていた私のそばに子猫の入っていた箱があったらしく、もしかすると、流されていた子猫を助けようと川に入ったのではないか…とのことだった。
「絵梨花ちゃんは、昔から優しい子だったのよ。自分よりも他者を優先してしまうようなところがあったから、猫ちゃんを放っておけなかったのかな。でも、それで絵梨花ちゃんの命を落とすことがあったら、みんな悲しむから、それだけは忘れないでね」
いつもの優しい笑顔なのは変わらないけれど、心底、心配したであろうことが感じ取れた。
「…わかりました」
心配してくれているのは、心苦しいながらも、ありがたいことだと思うけど、過去の私は、こんなに良好な親子関係を築けていたのだろうか。
素直になって良いものか、迷うほどには、違和感がある。
「でも、猫ちゃんが助かって良かったわね。今は、通報してくれた人が迎えてくれたと聞いたわ」
「じゃあ、私が川に入ったのは良かったんですね!…すみません、以後、気を付けます…」
「…よろしい」
他愛のない話をしていた母が、急に畏まって言う。
「絵梨花ちゃんは、記憶を失っている状態だから、急に知らない人ばかりと会わせるのは負担になるかなと思って、お母さんだけが面会に来ていたけど、実は、うちには紫苑っていう男の子がいてね、一緒に暮らすことになるけど…大丈夫かな?」
年頃の男女が一つ屋根の下に暮らすのだから、親としても気を遣うだろう。
まして、私には記憶がないのだから、余計に。
「今までも一緒に暮らしていたんですよね?大丈夫だと思います」
理由はわからないけど、私には ”きょうだい” というものに憧れがあるような気がするのだ。
「あ、そういえば、私、スマホは持っていますか?何かを思い出すきっかけがあるんじゃないかと思うんですけど」
母の表情が、ほんの少しだけ曇った気がしたけど、すぐに元の母に戻った。
「絵梨花ちゃんのスマホなら、お部屋に置いてあるわ。そうだ、今から紫苑に持って来させましょうか。顔合わせも兼ねて」
母は、自分のスマホで兄に連絡を取る。
「あ、別に今日じゃなくても大丈夫ですよ、明日とか…別に退院後でも…」
と、戸惑いながら静止しようとするも、通話はどんどん進んでいく。
「絵梨花ちゃん、今から持ってくるって」
こちらの気も知らず、母が無邪気に笑う。
まぁ、この母の息子というなら、優しい兄に違いない。
そういえば、もうすぐリハビリの時間だった。
「お母さん、今からリハビリに行ってきます。スマホはその辺に置いといてもらえたら、あとは自分でやりますんで…」
お帰りいただいても…と言おうとしたが、やめておいた。
「は〜い」
笑顔で手を振る母を背にしながら、私は歩いてリハビリ室へと向かった。
一度死んだとはいえ、拘縮しているわけではないのだから、リハビリなんて不要だと個人的には思っている。
だけど、後遺症みたいなものが出るかもしれないとか、一時的に動けなくなっていたことによる影響があるのではないかとか、いろんな理由があって、入院中はリハビリが課されているらしい。
適切な姿勢や筋力の確認がメインだけれど、ストレッチやマッサージがあるのは、嬉しいところではある。
一通りのリハビリが終わって、部屋のドアを開けると、そこには知らない男の子が立っていた。
「…あ、どうも」
咄嗟に出たのが、その言葉だった。
というか、それ以外の言葉が出なかった。
身長は、私より10cmくらい高い気がする。
手足が長くて、スタイルが良い。
ヘアスタイルを特に整えていないのに、無造作ヘアでオシャレに見えるほど、端正な顔立ち。
「…スマホ、持ってきたんだけど」
おそらく、スマホが入っているだろう紙袋を前に突き出してきたので、受け取る。
「あっ、ありがとう。あの…お母さんは?」
「さっき、飲み物買いに行くとかで出てった」
…………。
会話が続かない。
あまりこちらを見ないし、無愛想な人だな…と思った。
「ね、そこ、座んなよ。家からわざわざ持ってきてくれたんでしょ?お母さん帰ってくるまで、休んでいったら?」
これから一緒に暮らす兄なんだから、良き人間関係を築かなくては。
「…あぁ」
兄は、一瞬、不可思議そうな表情でこちらを見て、椅子に腰掛け、黙ってスマホをいじっている。
沈黙の中、兄となる人の顔を見つめる。
色素が薄い髪、鼻筋が通っていて、スッキリしたフェイスライン、涼しげな目元がが印象的。
まつ毛も長くて、肌もきれいだな。
さすがは母の遺伝子…というところか。
ただ、塩対応なところは、全然、似ていないけど。
「…あの、これからも、よろしくね」
「…あぁ」
兄は再び、不思議そうな、珍しい生き物でも見るような視線を私に向ける。
…あれ?なんか変でした?まぁ、いいけど。
「ねぇ、これからあなたのことを何て呼んだらいい?お兄さん?兄さ…」
と言いかけた時、病室のドアが開いた。
「絵梨花ちゃん、帰ってたの?ほら、飲み物を買ってきたよ。何を飲む?あ、紫苑も来てたの?持ってきてくれて、ありがとうね」
母がオーバーテーブルに、りんご、みかん、乳酸菌飲料、水などの飲み物をどんどん並べていく。
「俺、もう帰るから。これもらってくわ」
兄は、並んだ飲み物の中から、ペットボトルの水を取り、そのまま病室から出ていった。
「もう、紫苑ったら。無愛想でごめんね。でも、悪い子じゃないのよ」
「はい」
なんだか、変に距離があったような気がするけど、悪い人のようには見えなかったから、これから家族として仲良くできたらいいなと、思う。