10.関ヶ原の戦い -8
小早川秀秋が謀反。
そして西軍の松尾山城を強襲し占拠。
この知らせを聞いた東軍と家康は混乱に陥っていた。
「待て待て待て。なんで勝手に城を奪ってるんだ?おい忠勝、秀秋殿に送った使者から何か聞いていないのか?」
「いや、流石にこんな話は...」
混乱する2人の元に、他の東軍の武将たちも話を聞きつけて走り込んでくる。
急遽軍議を開催することになるが、誰も情報を持っておらず話が進まない。
千載一遇の好機と言う者もいれば、西軍の罠に違いないという者もいる。
しかし、その真偽は定かではなかった。
「ええい、ここで話をしても無駄だ。松尾山城に使者を送れ!秀秋殿がこちらに付くようであれば、西軍も兵を動かす可能性が高い。各自部隊を動かせるよう準備を怠るな!」
家康の指示に従い東軍も戦支度を始めるが、西軍は東軍よりも一歩先に行っていた。
大垣城に籠もっていた三成らは松尾山城占拠の知らせが届いた後、14日の20時頃にはほとんどの兵を連れて城を出て、松尾山城の北に広がる関ヶ原へ向けて進軍。
松尾山城の付近に部隊を展開していた大谷吉継から謀反の知らせを聞いていたことで、東軍の先手を取ることに成功していた。
大垣城から関ヶ原への最短経路である中山道は東軍が抑えていたため、西軍は南宮山の南側にある伊勢街道を経由することを選択。
夜間でしかも雨が降っていたこともあり、東軍は西軍の動きを察知するのが遅れてしまう。
大垣城から出陣した軍勢が西に向かっていると知り、家康らは慌てて追撃しようとするが、軍が動き始めたのは15日の3時頃と大きく出遅れてしまった。
「秀秋殿は約束されていた関白の座を奪われ、豊臣家を継ぐこともできず、唐入りでは罪も無いのに叱責されて領地を取り上げられた。豊臣家への恩義など最早あるまい。今大垣城の兵が動いたということは、秀秋殿の裏切りが確かだという証拠に違いない。ワシらは中山道の方を進み、松尾山城を攻めるであろう西軍の背後を襲う!南宮山には毛利勢が陣を置いているが、無視してそのまま突き進め!」
家康の指示に従って、東軍も中山道を駆け抜けて関ヶ原へと進軍。
南宮山では毛利勢などが中山道を監視していたはずだったが、小雨が降り山間で霧が濃く遠くが見通せなかったことで東軍の動きを見落としてしまう。
奇跡的に戦闘が起きることもなく、家康らは関ヶ原に到着し布陣を完了させるが、濃霧が酷く90メートル先すら見えず西軍の配置は掴めないままである。
そして午前10時頃、霧が晴れた関ヶ原で家康が見たのは、東軍を迎え撃つべく陣を張って待ち構えていた三成らの軍勢だった。
吉継らの部隊は松尾山城に向けて配置されているが、三成・秀家の主力部隊は松尾山城から北に離れた笹尾山と天満山にあって関ヶ原を抜ける道を塞いでおり、その矛先は中山道を通ってきた東軍の方を向いている。
夜明け前には関ヶ原に到着していた三成らは、そのまま松尾山城を攻めるのではなく、吉継があらかじめ構築していた防衛陣地へと入り東軍を迎撃しようと備えていたのだった。
東軍の動きは明らかに読まれていた。
その陣容を見て家康は死を悟る。
「あの陣立ては移動してすぐに作れるようなものではない。まさか秀秋殿の降伏は罠だったのか...」
関ヶ原の西には三成らが、南には秀秋やその他の部隊が、そして東には毛利勢などが陣を構える形となる。
配置だけをみれば東軍は関ヶ原に閉じ込められており、歴戦の大名たちも敗北を覚悟せざるを得なかった。
中山道は一応東軍が抑えていたが、三成が合図を出して南宮山から毛利勢が下りてくれば道を塞がれてしまう。
空いているのは三成らが通ってきた伊勢街道だけだが、松尾山城の麓に展開している脇坂安治らの部隊が動けば側面から攻撃を受けることになる。
そして家康は知らないことだが、関ヶ原に到着した三成は謀反を起こした秀秋に対して、その日の内に手を打っていた。
秀頼が15歳になるまでは秀秋を関白とし、天下人となることを約束する誓詞を送っており、関白になるという秀秋の悲願をここに来て交渉の材料として持ち出していたのだった。
これで秀秋がまた西軍へと裏切るかは不明だが、迷って何もせずにそのままいるだけでも東軍への牽制としては十分である。
結局、家康は小牧長久手の戦いにおいて自らが打ち破った中入りを行うことになり、今度は逆に自らが失敗してしまう。
周囲にまとまった数の援軍はおらず、戦力の大半は外様大名ばかりで信頼が置けず、徳川家の主力部隊を率いる秀忠も未だ姿を見せない。
家康はここにいる軍勢だけでなんとかしなければならなかった。
これにより、秀秋の謀反に乗じて三成が画策した、関ヶ原における東軍包囲戦が狼煙を上げることとなる。




