10.関ヶ原の戦い -3
慶長5年8月5日。
家康は江戸へと戻り西軍との対決姿勢を見せる。
ただし、すぐに上方に向かって進軍したわけではなく、そのまま江戸に1ヶ月近く滞在している。
その間何をしていたのかと言えば、ひたすら各地の大名に書状を送っていたのであった。
今回の戦は地方の大名たちからすれば寝耳に水のような話であり、まともに準備できている大名の方が少ない。
黒田家のように主力が出払っているにも関わらず、突如として兵を掻き集めて周囲への侵攻を始める大名もいたがそれはごく一部でしかなく、東軍・西軍共に戸惑う大名たちを味方につけるところから始める必要があった。
家康は伊達政宗を従わせるため100万石の空手形を切ったように、何としても味方を増やし、西軍に付いた大名を牽制しようと四苦八苦していた。
それはつまり、各地で大名たちが東軍・西軍に分かれて争いを始めるということを意味するが、この状況を全ての大名たちが歓迎していたわけではない。
当時は既に戦国時代も終わりを迎えつつあり、それを大名たちも察知していた。
従って、今回の戦が功績を上げるほぼ最後の機会であると考え、若者や上昇志向の強い者たちはこぞって戦へと乗り出した。
功績や領地を求めるあまり、何故か東軍同士で攻城戦が発生していたほどである。
また、この機に乗じて西軍から財貨を恐喝する者や、嫡男を人質として大阪城に送りながら時間を稼いだ後に東軍として挙兵する者、主家が西軍についているにも関わらず東軍に内通する武将もおり、久々に戦国時代らしい振る舞いが各所で見られた。
一方、既に十分な領地を持っている者や、老人たちからすればとんでもない大迷惑だった。
戦国時代を必死に生き抜いてきたというのに、最後の最後になって全てを失うかもしれない選択を求められているのである。
彼らからしてみれば東軍・西軍のどちらに道理があるのかという話などどうでもよく、とにかく自分たちに影響が出ないようにしてくれというのが本音である。
その結果、各地では戦う姿勢を見せつつ決して軍を動かさない家や、前田家・丹羽家のように馴れ合い戦闘を始める大名が出現することとなる。
また、 領地の位置や過去の経緯的に東軍・西軍の選択の余地がない大名もいれば、東軍に付こうとしたのに外交の窓口が無いため受け入れを拒否され、仕方なく西軍に付く大名も存在した。
何をどう取り乱したのか兵を置いて単身で西軍に寝返ろうとし、しかも約束していた船主から騙されて脱出に失敗した者もいたが、多くの者は東軍・西軍のどちらも選べずひたすら右往左往していた。
こういった大名たちを口説き落とし、少しでも自軍に協力させようとする外交上の戦いが関ヶ原の前哨戦として行われていたのだった。
そんな中、家康の計画を嘲笑うかのように立ち塞がった者たちがいた。
福島正則を始めとする東軍についた大名たちである。
「無理に西軍側の領地を攻めなくてもいい!まずは守りを固めろ。準備が整い次第そちらに向かう。本格的な攻勢はそこから始めるぞ!」
8月4日。
福島正則らを中核とする軍勢は既に清州城まで西進しており、そこで家康の指示を待っていた。
家康はこの軍勢に対し、本多忠勝らを使者として派遣して指示に従うよう伝える。
しかし、8月19日に彼らは家康を置いて上方に進軍を開始すると言い出し、8月22日には織田秀信らと交戦。
勢いに任せて8月23日には岐阜城を落城させる。
「織田秀信殿と戦って打ち負かし、翌日には岐阜城を攻め落としただと!しかも、駆けつけた三成殿たちとも戦って追い払った?勝ったのは良いが、誰がそんな事をしろと言ったんだ!お前らが凄いことや士気が高いのはよく分かった。功績も後でちゃんと評価する。だから、大人しく待機してろ!」
8月26日。
西進する部隊はそのまま勢いに任せ、秀家・三成らの西軍の中核部隊2万人が籠城する大垣城を包囲し始める。
西軍側も岐阜城を中心とした防衛戦が崩壊したため、大垣城を中心とした防衛線の再構築を進めることになり、この地が東軍・西軍の集結する最前線となった。
しかし、三成らは東軍に対抗するには力不足と考えたのか、毛利家に救援を要請するほど追い込まれていた。
「大垣城を包囲している!?いつの間にそんなところまで進んでるんだよ!もう攻めなくていい。包囲を解けとは言わん、敵軍を追い払うだけで十分だからこれ以上勝手に暴れないでくれ...」
一方、伊勢に進軍した部隊も西軍側の城を攻め落とし、尾張方面へと突入。
家康がいない間に各方面で西軍側を打ち破り続けるという事態が発生してしまう。
家康からすればまだ外交戦を続けたいところだったが、これらの武将たちがこれ以上功績を上げ、まかり間違ってそのまま西軍を撃破しようものなら家康の立場は無くなる。
「..............分かった。もう分かったから。ワシも上方に向かうから。頼むからワシが到着するまで自制してくれ.......」
友軍が撃破されれば家康は孤立し、これまでの外交によって得た結果も水泡に帰す。
勝手に進軍し続ける友軍武将たちにより、家康は上方への出陣へと追い込まれることになるのだった。
またこの動きにより、毛利輝元らが浜松付近で家康を迎撃するという、西軍の当初の計画が破綻。
大阪城から出陣する機会を逃した輝元だが、その後も機会を逃し続けたままで争いが終わるという悲劇に襲われてしまうことになる。




