10.関ヶ原の戦い -2
慶長5年7月12日。
増田長盛・長束正家・前田玄以の奉行衆は、毛利輝元に大阪入りを要請する書状を送る。
並行して大阪城に滞在していた諸大名の人質が西軍の監視下に置かれ、西軍挙兵が本格的に動き出すこととなる。
三奉行は17日に家康を糾弾する「内府違いの条々」を各地の大名へと送付。
同様に毛利輝元や宇喜多秀家も前田利長に家康の非を訴えるなど、西軍側は家康陣営の切り崩しと自軍への取り込みを始めた。
これにより家康は実質的に大老の地位を失い、豊臣政権における反逆者として喧伝されることになるが、家康は先日豊臣秀頼や天皇からその立場を認められており、西軍側の正当性は微妙なものとして諸大名には受け取られている。
また、17日に毛利秀元が大阪城を占拠し、19日には輝元が大阪城へ入城するなど、西軍側は奉行衆の訴えから僅か1週間で大阪城を抑えるという迅速な行動を見せる。
この頃、石田三成と大谷吉継らも近畿・北陸方面の取り込みを始めており、周囲を抑えられた大名たちに拒否権は無く、西軍は勢力拡大を順調に進めていた。
輝元が到着してからは即座に伏見城などを攻め始めるなど、西軍側は歴戦の大名たちらしい流れるような展開を見せたが、ここで西軍の出足を挫いたのが鳥居元忠だった。
元忠は伏見城にて留守役を任されていたが、そもそも伏見城は徳川家のものではなく、あくまでも豊臣家の城である。
そんな伏見城であるが、城代である木下勝俊が西軍決起を知ってまさかの逃亡を図ったことで、元忠や徳川家の兵だけが残されてしまうという事態が発生。
徳川家のものでもない城で、兵数も僅か2000人足らず、周囲に援軍も無いとあっては通常は城を引き渡して撤退するところであるし、実際西軍側も当初は交渉で済ませようとしていた。
しかし元忠は城の引き渡しを断固として拒否し、徹底抗戦を始めたのだった。
兵数差が圧倒的であるにも関わらず籠城側が打って出て、西軍挙兵に協力した前田玄以・長束正家らの屋敷を焼き払い、一日中鉄砲を撃ち合うといった異様な士気の高さを見せつけた。
宇喜多勢や小早川勢が着陣しても引かず、三成らも合流したことで最終的には4万人近い軍勢に包囲されている。
そんな状況であっても、三成が降伏勧告のために派遣した使者を切り捨てて送り返すなど、文字通り死兵となって戦い続けたのだった。
伏見城は火攻めなどにあって8月1日に落城するが、大将の元忠が敵軍の鈴木重朝と一騎打ちの末に討ち取られるまで戦うなど、多くの兵が最後まで降伏を拒否して戦った。
伏見城も大半が焼け落ちることとなり、秀吉の居城であった城を攻めて焼いたという事実は西軍や諸大名に重くのしかかることになる。
元忠の籠城は元々勝算の無い戦いではあったが、その後の東軍・西軍の戦いに大きな意味を持っていた。
家康にとっての最悪の展開は、諸大名たちがとりあえず西軍に付こうと言い出し、どこかの大名が起点となって周囲が同調することである。
一部の武将や城が降伏したのを見て他の者たちも降伏を始め、そのまま軍勢や領地が崩壊した事例は多い。
大阪周辺の大名の降伏から、そのまま日本中の大名たちが雪崩になって西軍に駆け込もうものなら、家康は関ヶ原の戦いを始める前に敗北が決定していた。
しかし、家康にとって重臣中の重臣である元忠が絶望的な状況で徹底抗戦したことで、他の大名からすれば何もせずに西軍に降伏することができなくなる。
後で家康から「ウチの元忠は立派に戦ったぞ?」と圧力をかけられることが目に見えており、こうなるとそう簡単には降伏という手段を選べない。
伏見城の戦いには西軍の足を止めるという意味もあるが、家康の正当性を貶め勢いに乗じて諸大名を取り込むという、西軍の戦略を挫いたという意味では大きな功績を上げた形となる。
家康は元忠が討ち死にしたという知らせを聞いて大きく落胆するが、元忠の功績を認めて後に元忠の嫡男を山形藩24万石の大名へと出世させている。
その後、子孫は不祥事によって改易の憂き目に合うが、元忠の勲功を慮って転封で済まされており、徳川家にとって元忠の忠誠心は何よりも高く評価されていた。
この時の伏見城の床板は江戸城の伏見櫓に飾られ、今は養源院に血天井として飾られている。




